第二章 奇術師は終焉を与える The_7th-Egde. 1

 夜。表通りから消防車と救急車のサイレンが響き渡り───通りすぎた。

 学生寮はほぼ無人状態だったらしいが、火災報知器を鳴らしてスプリンクラーを動かしたのがまずかった。消防車と野次馬で無人の学生寮はあっという間に人だらけになったのだ。

 部屋にあった発信器フードの機能は上条の右手で破壊してから持ち出した。機能を生かしたまま適当な所に捨てれば追っ手の目をごまかせたのだが、彼女が頑なに持って行くといいはった。

 上条とうは路地裏で舌打ちした。血まみれのインデックスもいまだ抱えたままで──この傷口を、こんな小汚い地面に触れさせる訳にはいかなかった。

 インデックスを救急車に乗せる事はできない。

 学園都市は基本的に『外の人間』を嫌う傾向がある。そのために街の周りを壁で覆い、三基の衛星が常に監視の目を光らせるほどの徹底ぶりだ。コンビニに入るトラック一台にしたって、専用のIDがなければ話にならない。

 そんな所に、IDを持たない部外者インデツクスが入院したとなれば、あっという間に情報はれる。

 そして、敵は『組織』だ。

 そんな所を襲撃されれば周りの被害が拡大するだけだし───何より、治療を受けている最中、最悪、手術中にインデックスがねらわれたらもう防御手段なんて何もない。

「……けど、だからってこのままほっとく訳にもいかねえんだよな」

「だい、じょうぶ。だよ? とにかく、血を……止める事ができれば……」

 インデックスの口調は弱々しく、ルーンについて説明していた機械的なモノは何もなかった。

 だからこそ、それが一発で間違いだとかみじようにも分かる。彼女のは包帯を巻いて済む素人レベルを超えている。ケンカ慣れしている上条は『人には言えない傷』は大抵自分で応急処置してしまう。そんな上条でさえ思わず取り乱しそうになるぐらい、彼女の背中の傷は、ひどい。

 そうなると、頼りになるのはもはや一つしかない。

 いまだに信じられないけど、もはや信じるほかに道がない。

「おい、オイ! 聞こえるか?」上条はインデックスのほほを軽くたたいて、「お前の一〇万三〇〇〇冊の中に、傷を治すような魔術モンはねーのかよ?」

 上条にとって魔術のイメージなんてRPGに出てくる攻撃魔法と回復魔法ぐらいしかない。

 確か、インデックス自身には『魔力』を扱う素質がないから魔術を使う事はできない。だけど、『異能の力』を扱う上条がインデックスから知識を聞き出せば、あるいは────。

 激痛よりも失血のせいで浅く呼吸を繰り返すインデックスは、あおざめた唇を震わせ、

「……ある、けど」

 一瞬喜びかけた上条は、『けど』という言葉が気にかかって、

「君には……無理」インデックスは、小さく息をき、「たとえ、私が術式を教えて……、君が完全にそれを真似まねした所で……っ、君の、能力チカラがきっと邪魔をする」

 上条はがくぜんと自分の右手を見た。

 幻想殺しイマジンブレイカー。そこに宿る力は、確かにステイルの炎を完全に打ち消していた。なら、同じようにインデックスの回復魔法も打ち消してしまう恐れがある。

「く、そ! またかよ……またこの右手が悪いのかよ……ッ!!」

 ならば、電話を使ってだれかを呼べば良い。青髪ピアスか、ビリビリ女のさかことか。こういう『事件トラブル』に巻き込んでも心配いらないタフな連中の顔がいくつか浮かぶ。

「……?」インデックスはちょっとだけ黙って、「あ、ううん……。そういう意味じゃないよ」

「?」

「君の右手じゃなくて……『超能力者』っていうのが、もうダメなの」熱帯夜の中、真冬の雪山のように体を震わせて、「魔術っていうのは……、君達エスパーみたいに『才能ある人間』が使うためのモノじゃないんだよ……。『才能ない人間』が……、それでも『才能ある人間』と同じ事がしたいからって……、生み出された術式と儀式の名前が、……魔術」

 こんな時にナニ説明してんだ、とかみじようが叫ぼうとした所で、

「分からない……? 『……、……。『才能ある人間』では……『才能ない人間』のために作られた魔術システムを使う事は……、できない……」

「なっ……、」

 上条は絶句した。確かに上条達『超能力者』は薬や電極を使い、。体の作りが違うと言われれば、

 だけど、信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 学園都市には二三〇万人もの学生が住んでいる。しかも、そのすべてが能力開発の『時間割りカリキユラム』を受けているのだ。見た目に分からなくても、脳の血管がれるまで気張った所でスプーン一つ曲げられなくても、

 つまり。この街にいる人間では、彼女を唯一救える『魔術』を使う事はできない。

 目の前に人を救う方法があるのに、だれにも彼女を助ける事が、できない。

「ち、くしょう……、」上条は、獣のように犬歯をき出しにして、「そんなのって、あるか。そんなのってあるかよ! ちくしょう、何なんだよ! 何で、こんな……ッ!!」

 インデックスの震えがひどい。

 上条が一番耐えられなかったのは、

 何が『才能ある』力だと吐き捨てる。こんなに苦しんでいる女の子の一人も助けられないで。

 かと言って、何か新しい解決案が浮かんでくる訳でもない。この街に住む二三〇万もの学生には魔術は使えない、というのは一番初めにたたきつけられた『ルール』なのだ。

「……?」

 と、上条は自分で思った事に、自分で違和感を覚えていた。

 

「おい、確か魔術ってのは『才能ない』一般人なら誰でも使えるんだったな?」

「……え? うん」

「さらに『魔術の才能がないとダメ』なんてオチはつかねーだろうな?」

「大丈夫、だけど……。方法と準備さえできれば……。あの程度、中学生だってできると思う」インデックスはちょっと考えて、「……確かに、手順を踏み違えれば脳内回路と神経回線のすべてを焼き切る事になるけど……、私の名は一〇万三〇〇〇冊インデツクスだから、へいき。問題ない」

 上条は、笑った。

 思わず頭上を見上げ、夜空の月に向かってえるように。

 確かに、学園都市に住む二三〇万人もの学生は、みんな何らかの超能力を開発されている。

 だが、逆に言えば。超能力を開発する側の───教師はただの人間のはずだ。

「……あの先生、この時間でもう眠ってるなんて言わねーだろうな」

 かみじようとうは一人の教師の顔を思い浮かべる。

 クラスの担任、身長一三五センチ、教師のくせに赤いランドセルが良く似合う一人の先生、

 つくよみもえの顔を。


 公衆電話で青髪ピアスから小萌先生の住所を聞き出すと(ケータイは今朝、上条が自分で落として壊した。青髪ピアスが何で先生の住所を知ってたかはなぞ。ストーカー疑惑あり)、上条はぐったりしているインデックスを背負って歩き出した。

「ここか……、」

 路地裏から歩いて十五分という所に、それはあった。

 なんて言うか、見た目十二歳な小萌先生にしては超意外な事に、それは東京大空襲も乗り切りましたという感じの超ボロい木造二階建てのアパートだった。通路に洗濯機がドカンと置いてある所を見ると、どうもという概念は存在しないらしい。

 普段ならこれだけで一〇分間はギャグにできる上条だったが、今は少しも笑いが起きない。

 一つずつドアの表札を確かめ、ボロボロにびた鉄の階段を上り、二階の一番奥のドアまで歩いて、ようやく『つくよみこもえ』というひらがなのドアプレートを見つけた。

 ぴんぽんぴんぽーん、と二回チャイムを鳴らして上条は思いっきりドアをやぶる事にした。

 ドゴン! と上条の足がドア板に激突してすさまじい音を立てる。

 だが、ドアはびくともしなかった。律儀にもこんな時まで上条は『不幸』らしく、足の親指の辺りでグキリと嫌な音が鳴り響いた……ような気がした。

「~~~ッ!!」

「はいはいはーい、対新聞屋さん用にドアだけ頑丈なんですー。今開けますよー?」

 素直に待ってりゃ良かった、と上条が涙目で思っていると、ドアががちゃりと開いて緑のぶかぶかパジャマを着た小萌先生が顔を出した。のんびりした顔を見ると、位置の関係でインデックスの背中の傷は見えていないようだった。

「うわ、上条ちゃん。新聞屋さんのアルバイト始めたんですか?」

「シスター背負って勧誘する新聞屋がどこにいる?」上条は不機嫌そうに、「ちょっと色々困ってるんで入りますね先生。はいごめんよー」

「ちょ、ちょちょちょちょっとーっ!」

 ぐいぐい横に押される小萌先生は慌てて上条の前に立ちふさがるように、

「せ、先生困ります、いきなり部屋に上がられるというのは。いえそのっ、部屋がすごい事になってるとか、ビールの空き缶が床に散らばってるとか灰皿の煙草たばこが山盛りになってるとか、そういう事ではなくてですね!」

「先生」

「はいー?」

「……おれが今背中に抱えるモノ見て同じギャグが言えるかどうか試してみろ」

「ぎゃ、ギャグではないんですー……って、ぎゃああ!?」

「今気づいたんかよ!」

かみじようちゃんの背中が大っきくてしてるって所まで見えなかったんです!」

 突然の血の色にあわあわ言ってるもえ先生をぐいぐい横に押して上条は勝手に部屋へ入る。

 なんていうか、競馬好きのオッサンが住んでそうな部屋だった。ボロボロのたたみの上にはビールの缶がいくつも転がり、銀色の灰皿には煙草たばこすいがらが山盛りにされている。一体何の冗談か、部屋の真ん中にはガンコ親父がひっくり返しそうなちゃぶ台まであった。

「……なんていうか。ギャグじゃなかったんですね、先生」

「こんな状況で言うの何ですけど、煙草を吸う女の人は嫌いなんですー?」

 そういう問題じゃねえと見た目十二歳の担任教師を眺めながら上条は床に散らばるビール缶を適当にばして場所を空ける。ボロボロの畳の上、というのは少し気が引けたが、いちいちとんを出している余裕もない。

 背中の傷が床に触れないように、上条はインデックスをうつ伏せに寝かせた。

 破れた服の布が邪魔で直接傷口が見える事はないが、赤黒い染みが重油のようにあふれている。

「き、救急車は呼ばなくって良いんですか? で、電話そこにあるですよ?」

 もえ先生がブルブルと震えながら部屋の隅を指差す。か黒いダイヤル式の電話だった。

「────出血に伴い、血液中にある生命力マナが流出しつつあります」

 ギクン、と。かみじようと小萌先生は反射的にインデックスの顔を見た。

 インデックスは相変わらずたたみの上に手足を投げ出して倒れたままだ。だが、倒れたまま、まるで壊れた人形みたいに顔を横倒しにしたまま、インデックスは静かに目を開けている。

 それはあおざめた月の光よりも冷たく、時を刻む時計の歯車よりも静かな。

 人間としてありえないほどかんぺきな、『冷静』なるひとみだった。

「──警告、第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を超えたため、強制的に『自動書記ヨハネのペン』でめます。……現状を維持すれば、ロンドンの時計塔が示す国際標準時間に換算して、およそ十五分後に私の身体からだは必要最低限の生命力を失い、絶命します。これから私の行う指示に従って、適切な処置を施していただければ幸いです」

 小萌先生はぎょっとしたようにインデックスの顔を見た。

 無理もないと上条は思う。これで二度目になるが、どうしてもこの声に慣れる事はできない。

「さて……、」

 上条は小萌先生の顔を見て考える。

 この状況でいきなり『魔法使ってください先生!』などと頼んだら『この非常事態に魔法少女ごっこですか上条ちゃん! 先生はそんなとしじゃありません!』とか言われるに決まってる。

 さて、一体どう説得すれば良いものやら。

「ふむ。先生先生、非常事態なんで手短に言いますね。ちょろっと内緒話、こっちくる」

「はい?」

 こいこい、と上条が小犬を呼ぶように手を振ると、小萌先生は警戒心ゼロで近づいてくる。

 ごめん、と上条は一応口の中でインデックスに謝って、

 破れた布をめくって、隠されていた醜い傷口を一気にさらけ出した。

「ひぃっ!?」

 ビクンと小萌先生の体が震えたのも、無理はない。

 布をめくった上条自身がショックを受けるほどのひどい傷だった。腰の辺りから横一線に、まるで段ボールにじようを当ててカッターで切り込みを入れたような傷。赤黒い血の奥に、ピンク色の筋肉や黄色いぼう、果ては白く硬い────背骨のようなものまで見えた。

 傷口が真っ赤な口ならば、周囲の唇はプールの後みたいに真っ青に変色している。

 ぐっ……、と眩暈めまいを殺しつつ、上条は血にれた布を静かに下ろす。

 傷口に布が触れても、インデックスの氷のような瞳はピクリとも動かなかった。

「先生」

「へ? ひゃい!?」

「今から救急車、呼んできます。先生はその間、この子の話を聞いて、お願いを聞いて……とにかく絶対、意識が飛ばないように。この子、服装通り宗教やってるんで、よろしくです」

 気休め、なんて言葉を使えば『魔術』なんて『ありえないもの』も頭から否定しなくなるだろう。とにかくもえ先生にとって重要な事は『適切な傷の手当』ではなく、『無理矢理にでも会話を続ける事』にすり替えられたのだから。

 実際、小萌先生は顔面そうはくなまま、超真剣にこくこくうなずいている。

 ……唯一の問題は、かみじようが外で時間をつぶさなくてはならないという事だ。

『魔術』が終わる前に救急車を呼んでしまうと、その時点で『気休め』が中断されてしまう。つまり救急車は呼んではいけないのだ。

 けど、それは『外へ出なければならない』理由にはならない。何なら部屋の黒電話で一一七にでも電話して、自動音声相手に救急車でも呼ぶ演技をすれば良いだけなんだから。

 問題なのは、そこではない。

「なぁ、インデックス」上条は、倒れたままのインデックスにそっと話しかける。「なんか、おれにやれる事ってないのか?」

「───ありえません。この場における最良の選択肢は、あなたがここから立ち去る事です」

 あまりにも透明で真っぐな言葉に、上条は思わず右手のこぶしを痛くなるほど握り締めた。

 上条に、やれる事なんて何もない。

 この部屋にいれば、それだけで回復魔法を打ち消してしまう『右手』があるから。

「……じゃ、先生。俺、ちょっとそこの公衆電話まで走ってきます」

「て、……え? 上条ちゃん、電話ならそこに─────────」

 上条は小萌先生の言葉を無視してドアを開け、部屋を出て行く。

 自分自身に、思いっきり奥歯をみ締めながら。

 上条は夜の街を走る。

 神様の奇跡システムでも打ち消せるくせに、だれ一人守る事もできない右手を握り締めながら。


 上条とうが部屋を出て行くと、インデックスはあおざめた唇を小さく動かした。

「───現時刻は、日本標準時間で何時ですか? それと、日付もお願いします」

「七月二〇日の午後八時半ですけどー?」

「───……時計を見ていないようですが、その時刻は正確なのですか?」

「そもそも私の部屋に時計はないですよ? 先生の体内時計は秒刻みなので問題ないのです」

「───……」

「そんな疑うほどの事じゃないですけどねー。競馬の騎手ジヨツキーなんかは一〇分の一秒刻みの体内時計を保有しているという話だし、一定の食生活と運動のリズムで調節できるんですよ?」

 キョトンという感じで答える小萌先生は、能力者ではないもののやっぱり学園都市の人間だった。街の外の人間とは、どこか医学や科学面の常識の感覚がズレているのだ。

 インデックスはうつ伏せに倒れたまま、チラリと目だけ動かして窓の外を見る。

「──……星の位置と月の角度から見て……天狼星シリウス方向に誤差〇・〇三八で一致しました。それでは、確認します。現時刻は日本標準時間で七月二〇日午後八時三〇分でよろしいですね?」

「はい、正確には五三秒に入った所ですけどー……ってダメです起き上がっちゃあ!!」

 ボロボロの体をさらに自ら壊すように身を起こすインデックスを慌てて押し戻そうとするもえ先生だったが、インデックスの視線一つでビクンと動きを止められた。

 その視線はこわい訳でも、鋭い訳でもない。

 ただ、少女のひとみはスイッチをバチンと切ったように、感情の光が消え失せていた。

 気配がない。

 それこそ、まるで魂でも抜けてしまったように。

「構いません、再生可能です」インデックスは部屋中央のちゃぶ台に向かい、「……巨蟹宮カニざの終わり、八時から十二時の夜半。方位は西方。水属性ウインデイーネの守護、天使の役はヘルワイム……」

 ひっ、と小萌先生が息を飲む音が部屋中に響いた。

 あろう事か、インデックスは小さなちゃぶ台の上に、血まみれの指で図形のようなモノを描き始めたのだ。魔法陣という現物を知らなくても、それが宗教的な色を見せている事は分かる。ただでさえ気が弱い小萌先生は何かにされて声も出せなくなっていた。

 ちゃぶ台いっぱいに描いた血の円に、ぼうせいとかいう星型の記号。

 ただし、その周りにはどこの国のものかも分からない言葉がズラリと取り囲んでいる。おそらくインデックスがブツブツつぶやいている言葉だろう。星座や時刻を聞いていたのは、時間や季節によって描く文字が変わるからだ。

『魔術』を組み立てていくインデックスの姿には、にんの弱々しさはない。

 極度の集中力が、痛みという感覚を一時的に遮断しているようだった。

 ぼとぼと、と。彼女の背中で聞こえる流血の音色が小萌先生の背筋に静かな悪寒を走らせる。

「な、なななな……な、んですか。それ?」

「魔術」一言で断じた。「ここから先は、あなたの手を借りて、あなたの体を借ります。指示の通りにしてくだされば、だれも不幸にならなくて済むし、あなたも誰にも恨まれずに済みます」

「なっ、ナニ冷静に言ってるんですか!? いいから横になって救急車を待つんです! ええっと、包帯、包帯っと。このレベルの傷だと動脈の辺りを縛って血の流れを止めた方が……」

「その程度の処置では、私の傷を完全にふさぐ事は不可能です。救急車、という言葉の意味は分かりかねますが、それはあと十五分の間に完全に傷を塞ぎ、なおかつ体内の生命力マナを必要量、補完する事が可能ですか?」

「……、」

 確かに今から救急車を呼んでもここまで来るのに一〇分はかかると思う。病院まで往復すればその二倍、さらに病院に着いた瞬間に治療が完了する訳でもない。生命力マナ、というオカルト用語はいまいち分からないけど、傷をふさいだだけでは体力スタミナは回復しないのは間違いない。

 仮に針と糸を使って今すぐ傷を塞いだ所で、

 このあおざめた少女は、足りない体力が回復する前にすいじやくしてしまうんじゃないだろうか?

「お願いします」

 それなのに、インデックスは目の色一つ変えずにそう言った。

 ぼとぼと、と。口の端から、えきの混じったドロリとした鮮血を垂らしながら。

 そこには迫力もない。鬼気迫るものもない。だが、その『余裕』や『冷静』な様子がかえってこわかった。まるで壊れた機械を故障に気づかず動かしているように、彼女が何かするたびに傷を広げているような気がしてならないのだ。

(……、下手に抵抗させると、より一層危ない状態になりそうなのです)

 はぁ、ともえ先生はため息をついた。その目はもちろん魔術なんて信じていない。だが、かみじようから『意識を飛ばさないよう、とにかく話を続けろ』とくぎを刺されている。

 今は目の前の少女を刺激しないで、心の中で一刻一秒でも早く上条が救急車を呼んできてくれる事を、そして救急隊員が救急車の中で見せる応急処置の素晴らしさに期待するしかない。

「で、何をすれば? 先生、魔法少女ではないですよ?」

「ご協力に感謝します。まずは……そちらの、そちらの────何ですか、その黒いのは?」

「? ああ、ゲームのメモリーカードですー」

「??? ……まぁ、良いです。とにかくその黒いのをテーブルの真ん中に置いてください」

「テーブルじゃなくてちゃぶ台ですけどねー」

 小萌先生は言われた通りにちゃぶ台の真ん中にゲームのメモリーカードを寝かせる。続いてシャーペンのしんのケースを、チョコの空き箱を、文庫本を二冊置いていき、しよくがんの小さなフィギュアを二つ、並べて立たせる。

 何だこれと小萌先生は思うが、インデックスは今にもぶっ倒れそうなまま真剣そのもの。

 蒼ざめた顔に宿る日本刀のような眼光を前に、小萌先生の文句は消えていく。

「何なんです? 魔術というかー、これじゃただのお人形遊びです?」

 言われてみれば、この部屋の小さなミニチュアにも見える。メモリーカードはこのちゃぶ台で、立てた二冊の文庫本が本棚とクローゼット、そして二体のフィギュアはこの部屋の二人の位置にそっくり立っている。ガラスのビーズをちゃぶ台の上にばらくと、それは何だか床に散らばったビール缶の配置にピタリとシンクロしてしまう。

「素材は関係ありません。虫メガネのレンズは硝子ガラス製だろうが合成樹脂プラスチツク製だろうがモノを拡大する事ができるのと同じ……カタチと役割ロールが同じなら儀式は可能です」インデックスは汗だくのまま小さくつぶやき、「それより、こちらの指示を正確にこなしてくれると幸いです。手順を踏み違えた場合、あなたの神経回線と脳内回路を焼き切る恐れがありますので」

「???」

「失敗はあなたの肉体の破壊ミンチと死亡を意味している、と告げています。お気をつけください」

 ぶっ!? ともえ先生は吹き出しそうになったがインデックスは気にせず先に進んでしまう。

「天使を降臨ろして神殿を作ります。私の後に続き、唱えてください」

 インデックスが呟いたのは、もはや言葉ではなく『音』だった。

 小萌先生は鼻歌でも歌うような感じで、意味を考えずに『音色』だけとりあえず真似まねてみる。

 と、

「きゃあ!?」

 突然、ちゃぶ台の上のフィギュアが同じように『歌った』。きゃあ!? という悲鳴も全く同じタイミングで出てくる。フィギュアが震えたのだ。まるで糸電話の糸を伝わった『振動』が、紙コップの先で『声』になるように、フィギュアの振動が小萌先生の声を作っていた。

 ここで小萌先生がパニックを起こして部屋を飛び出さなかったのは、『学園都市』という二三〇万もの超能力者を抱える街に住んでいるからだろう。普通の人間ならまず錯乱するはずだ。

「リンクしました」インデックスの声もちゃぶ台の上から二重に聞こえる。「テーブルの上に造った『神殿』は、この部屋とリンクしています。簡潔に表現すれば、この部屋で起きた事はテーブルの上でも起きるし、テーブルの上で起きた事は部屋の中でも起きます」

 インデックスはちゃぶ台の足をわずかに押す。

 瞬間、ガゴン! とアパート全体が揺さぶられるような衝撃が小萌先生の足元を襲った。

 部屋の中のこもった空気が、まるで早朝の森の中のように澄んでいくのが分かる。

 ただし、『天使』なんてものはどこにもいない。見えない気配のようなモノだけがあった。まるで何千もの眼球に四方八方からじっとり観察されているような感覚が全身の肌を襲う。

 と、インデックスがいきなり叫んだ。

思い浮かべなさいイメージ! こんじきの天使、体格は子供、二枚の羽を持つ美しい天使の姿!」

 ───魔術を行う上で、領域フイールドを決める事は重要だ。

 例えば海に小石を投げても大した波紋にはならない。だが、バケツの中に小石を落とせば大きな波紋になる。それと同じ。魔術で世界をゆがめるなら、まず歪める場所フイールドを区切る必要がある。

 守護者とは、区切った小世界に置く、一時的な神様だ。

 コイツを上手く思い浮かべイメージ、固定化し、自在に操る事ができれば、それだけ限定された領域の中で『不思議な事』を行いやすくなる。

 ……なんて、そんな説明をすっ飛ばして『天使』とか言われても小萌先生には想像できない。金色のエンゼルなんて言われたら、金なら一枚銀なら五枚のアレぐらいしか思い浮かばない。

 と、ぐっちゃぐちゃの小萌先生のイメージに合わせるように、周囲の気配がさらにカタチを失った。まるで沼の底の腐ったどろが渦を巻いているような嫌悪感がもえ先生の背骨を襲う。

「とにかく思い浮かべなさい! これは本当に天使を呼んでる訳ではありません、ただの見えないマナの集まりです。術者のあなたの意思に従ってカタチを作り込んでいくのです!」

 よほど切羽詰まっているのか、あれだけ機械的れいせいだったインデックスの声が氷柱つららのように鋭い。

 そのひようへんぶりにびっくりした小萌先生は両目を閉じて、慌てて口の中でつぶやく。

(……かわいい天使かわいい天使かわいい天使)

 もやもやと。昔読んだ少女マンガに出てきた女の子の天使の姿を必死で思い浮かべる。

 と、部屋の中を漂っていた見えない泥のようなモノが、人のカタチをした風船の中にでも押し込まれていくようにカタチを作り上げていく……ような気がした。

 小萌先生は、恐る恐る両目を開けてみて、

(……あれ? 使

 一瞬、疑問に思った瞬間。

 バン! と、人のカタチをした水風船がはじけて、部屋中に見えない泥が飛び散った。

「きゃあ!!」

「……、カタチの固定化には、失敗」インデックスは鋭い眼で周囲を見回し、「……最低限青色別ブルーカラー水属性ウインデイーネで神殿を守護できれば構いません。……続けます」

 言葉こそ楽観的だが、正反対にインデックスの目は少しも笑っていない。

 まるで隠しておいた赤点のテストを親に見られたように小萌先生は思わずひるんでいた。

「唱えなさい。もう一言で終わります」

 鋭い命令は、混乱し思考を失いかけた小萌先生に取り乱す事さえ許さない。

 インデックスと小萌先生、そしてちゃぶ台の上の二つのフィギュアの四つが歌う。

 どろり、と。ちゃぶ台の上の、インデックスのフィギュアの背中が溶けた。

 まるでゴムをライターであぶったように、ドロドロと。溶けて、表面のおうとつを失い、滑らかになり、再び冷えて固まり、カタチを整えていく。

 ぎょっと。小萌先生は思わず心臓が凍りつくかと思った。

 今、インデックスはちゃぶ台を挟んで小萌先生の真正面に座っていた。

 彼女は、インデックスの後ろに回り込んで背中がどうなってるか、確かめる度胸はなかった。

 インデックスの青白い顔からは、あぶらのような汗があふれていた。

 ガラスのような眼球には、それでも痛みや苦しみといった光はともらない。


「───生命力マナの補充に伴い、生命の危機の回避を確認。『自動書記ヨハネのペン』を休眠します」


 バチン、と。

 スイッチを入れたようにインデックスのひとみに柔らかい光が戻る。

 まるで冷え切っただんに火を入れるように、部屋中が温かい雰囲気に包まれていく。

 そう感じてしまうほど、インデックスのひとみは優しく、温かく──ただの少女のものだった。

「あとは……降臨ろした守護者を帰して、神殿を崩せばおしまい」インデックスはつらそうな顔で笑いかけ、「魔術なんて、こんなもの。リンゴとアップルは同じ意味だよね、それと同じ。ガラスのつえがなくても、今ならビニール傘だって透明だもの。タロットカードもそう。絵柄と枚数さえ合っていれば、少女マンガの付録を切り抜いたって占いはできるんだよ?」

 インデックスの汗は止まらない。

 もえ先生はかえって怖くなってきた。まるで自分がやった余計な事で、さらにインデックスの体調が悪くなっていったんじゃないかと思い始めていた。

「大丈夫」インデックスは今にも崩れそうに、「風邪かぜといっしょ。治すには自分の体力がいるだけ。そのものはもうふさがってるから、平気」

 言った瞬間、インデックスの体が横に揺れてぶっ倒れた。フィギュアがコケる。ちゃぶ台がわずかに揺れて、リンクしている部屋全体がガゴンと巨大な震動に襲われる。

 思わずちゃぶ台を回って駆け寄ろうとする小萌先生に、インデックスは歌を歌った。

 小萌先生が真似まねして最後の歌を歌うと、異様な空気は再びこもったアパートの空気に戻った。小萌先生が試しに、おそるおそるちゃぶ台の足を揺らしてみても、もう何も起きない。

 よかった、と安心したように目を閉じて、インデックスはつぶやいた。

 ひんの重傷が治ればだれだってうれしいです? と小萌先生は思ったが、シスターはこう言った。

 小萌先生はびっくりしてインデックスを見た。

「……、

 夢見るように目を閉じるインデックスはそれ以上、何も言わない。この少女は背中をられて倒れている間も、得体の知れない儀式の間も、ずっと自分の事なんて考えてなかった。たった一人、傷ついたインデックスをここまで背負ってきた人間の事を考えていたのだ。

 小萌先生には、そんな風にモノを考える事はできない。考えられる人は、いない。

 だから、思わず一言だけ、聞いた。

 すでにインデックスは眠っていて、絶対に聞いていないと思っていたからこそ、聞いた。

 なのに。わからない、と。少女は両目を閉じたまま答えた。

 誰かをそういう風に思った事はないし、それがどういう感情かは分からない。だけど魔術師を相手に自分の事で命知らずに怒ってくれた時はい上がってでも逃がさなきゃって思ったし、魔女狩りの王イノケンテイウスに追われて逃げた後、もう一度戻ってきてくれた時には涙が出るかと思った。

 何だか良く分からないけど、いっしょにいると振り回されて何一つ思い通りに行かない。

 なのに、予想外なのがとても楽しくて、うれしい。

 これがどんな感情なのかは分からないけど、と。

 楽しい夢でも見るように目を閉じたまま笑って、今度こそインデックスは眠りに就いた。

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