第一章 魔術師は塔に降り立つ FAIR,_Occasionally_GIRL. 6

 今日び三二〇円ではぎゆうどん大盛も頼めない。

「………………………………………………………………………………………………、並かぁ」

 文庫本サイズのお弁当をおハシの先でちょこちょこ食べてる女の子にはご理解できないだろうが、育ち盛りの汗だく野郎にとって並盛なんぞは『オヤツ』扱いである。

 御坂美琴ビリビリおんなを追い払い、牛丼屋で『オヤツ』を食べたかみじようは、残金全財産三〇円(税込み)を手に、の落ちた学生寮の前まで戻ってきた。

 人の気配はない。

 おそらく夏休み初日だから、みんな街に出て遊びほうけているんだろう。

 見た目は典型的なワンルームマンションだ。四角いビルの壁一面に直線通路とズラリと並ぶドアが見える。鉄格子のような金属の手すりに『ミニスカのぞき防止用』のプラ板が張ってないのは、ここが『男子寮』だからだろう。

 学生寮の建物は縦に──奥へ延びるように作られていて、玄関や反対側のベランダは、道路から見て側面──つまりビルとビルのすきにある。

 入口は一応オートロックになっているが、両隣のビルとの間隔はそれぞれ二メートル。今朝、インデックスがやったようにビルからビルへ飛び移れば簡単に侵入できる。

 オートロックを抜けて、の横をすり抜けてエレベーターに乗る。工場の搬入用エレベーターより狭くて汚いのはごあいきよう、屋上を示す『R』のボタンが小さな鉄板で封印されているのは夜な夜なビルの屋上を飛んでやってくるロミオとジュリエット対策だ。

 電子レンジみたいな音と共にエレベーターは七階に止まる。

 がこがこ音を立てて開くドアを押しのけるように上条は通路に出た。七階という高さだがビル風はなく、隣のビルとの圧迫感もあるせいか余計に蒸し暑い気がした。

「ん?」

 と、上条はようやく気づいた。直線的な通路の向こう──自分の部屋のドアの前で、三台の清掃ロボットがたむろしている。三台、というのは珍しい。そもそもこの寮に配備された清掃ロボットは全部で五台のはずなのに。それぞれ体を小刻みに前後させている所を見ると、よっぽどひどい汚れを掃除しているようにも見える。

 ……何となく、とてつもなく不幸な予感。

 大体、床にり付いたガムだって素通りでがすほどの破壊力を持つドラム缶ロボだ。一体何をどうしたら三台もの清掃ロボットが苦戦しなければならないのか。もしかして童貞を捨てるために無理して不良ぶってる隣人つちかどもとはるが酔っ払って人んのドアを電柱代わりに、盛大にゲロをぶちまけたんじゃあるまいかと上条はせんりつする。

「一体何が……、」

 人間にはこわいモノ見たさという常軌を逸した機能が備わっている。

 一歩、二歩と思わず前に足が進んだ時、ようやくソレが見えた。


 不思議少女インデックスが空腹でぶっ倒れていた。


「…………………………………………………………………………………………………、あー」

 ロボットのかげに隠れて全体は見えないが、うつ伏せに倒れた安全ピンがギラギラ光る白い修道服はだれがどう見ても行き倒れていた。

 三台ものドラム缶にがっつんがっつん体当たりをぶちかまされても、インデックスはピクリとも動かない。何だか都会カラスに小突かれているようで異常に哀れに見えた。大体、清掃ロボットは人間や障害物を避けて通るように作られているはずなのだが、機械にさえ人間扱いしてもらえないというのは一体どういう事なんだろう?

「……。なんていうか、不幸だ」

 とか何とか言いながら、かみじようとうは鏡を見れば自分の顔に驚いていただろう。彼の顔は誰がどう見ても笑っていた。

 やはり心のどこかに引っかかっていたのだ。『魔術師』という言葉は信じられなくても、怪しげな新興宗教の連中が一人の女の子を追い掛け回している、と解釈する事もできる。

 それが何でもない、いつもの姿(?)で現れた事がうれしかった。

 そんな理屈を取っ払っても、もう一度再会できた事がだか純粋に嬉しかった。

 上条は思い出す。たった一つの忘れ物。渡し損ねた純白のフード。その存在が、まるでおまじないのように見えてくるのが不思議だった。

「おい! こんな所でナニやってんだよ?」

 声をかけて、走る。たったそれだけの作業で、何で遠足前夜の眠れない小学生みたいな気分にさせるんだろうと上条は思う。一歩一歩近づく事が、何で大作RPGの発売日にお店に向かうような気持ちにさせるんだろうと上条は考える。

 インデックスはまだ気づかない。

 上条当麻はそんな『インデックスらしい』仕草に笑みをみ殺して、


 インデックスが血だまりの中に沈んでいる事に、ようやく気づいた。


「……、あ……?」

 最初に感じたのは、むしろ驚きよりも戸惑いだった。

 たむろする清掃ロボットの陰になっていて見えなかったのだ。うつ伏せに倒れたインデックスの背中──ほとんど腰に近い辺りが、真横にいつせんされている。まるでじようとカッターナイフを使って段ボールへ一直線に切り込みを入れたような刃物の傷。腰まである長い銀髪の毛先はれいに切りそろえられ、その銀髪も傷口からあふれ出す赤色に染め上げられていく。

 かみじようは一瞬、それを『人間の血液』と認識する事ができなかった。

 一瞬前と一瞬後。あまりにギャップのありすぎる現実リアルが、思考を混乱させた。真っ赤な真っ赤な……ケチャップ? 空腹でぶっ倒れる直前のインデックスが最後の力を振り絞ってケチャップでも吸っていたのかと、そんな微笑ほほえましい絵を想像して上条は笑おうとする。

 笑おうとしたけど、笑えない。

 そんな事、できるはずがない。

 三台の清掃ロボットがぎこぎこ音を立てて小刻みに前後する。床の汚れを掃除している。床に広がる赤色を、インデックスの体から溢れる赤色を。薄汚れたぞうきんで傷口をほじくり返すように、インデックスの体の中身を残らず吸い出すように。

「や、……めろ。やめろっ! くそ!!」

 ようやく上条の目が現実にピントを合わせた。重傷のインデックスに群がる清掃ロボットに慌ててつかみかかる。盗難防止のため無駄に重たい清掃ロボットは馬力もあって、なかなか引きがす事ができない。

 もちろん、清掃ロボットは『床に広がり続ける汚れ』を掃除しているのであって、直接インデックスの傷口には触れていない。それでも上条には清掃ロボットが腐りかけた傷口に群がる羽虫のように見えた。

 そこまで思っているのに。一台でさえ重たく馬力のある清掃ロボット、それが三台にもなるとすべてを引き剝がせない。一台に気を取られているとほかの二台が『汚れ』に向かってしまう。

 神様でも殺せる男のくせに。

 こんなオモチャをどかす事さえ、できない。

 インデックスは何も言わない。

 血の気を失って紫色になった唇は、呼吸しているかどうかさえ怪しいほどに動かなかった。

「くそ、くそっ!!」混乱した上条は思わず叫んでいた。「何だよ、一体何なんだよこれは!? ふざけやがって、一体どこのどいつにやられたんだ、お前!!」


「うん? 僕達『魔術師』だけど?」


 だから────だからこそ、背後からかかった声は、インデックスのものではない。

 殴りかかるように上条は体ごと振り返る。エレベーター……ではない。その横にある非常階段から、男はやってきたようだった。

 白人の男は二メートル近い長身だったが、顔は上条より幼そうに見えた。

 としは……おそらくインデックスと同じ十四、五だろう。その高い身長は外国人特有のものだ。服装は……教会の神父が着ているような、漆黒の修道服。ただしコイツを『神父さん』と呼ぶ人間は世界中を探しても一人として存在しないだろう。

 相手が風上に立っているせいか、十五メートル以上離れた上条の鼻にも甘ったるい香水のにおいが感じ取れる。肩まである金髪は夕焼けを思わせる赤色に染め上げられ、左右一〇本の指には銀の指輪がメリケンのようにギラリと並び、耳には毒々しいピアス、ポケットから携帯電話のストラップがのぞき、口の端では火のついた煙草たばこが揺れて、極めつけには右目のまぶたの下にバーコードの形をした刺青タトウーが刻み込んである。

 神父と呼ぶにも、不良と呼ぶにも奇妙な男。

 通路に立つ男を中心とした、辺り一帯の空気は明らかに『異常』だった。

 まるで今まで自分が使ってきた常識が全部通用しないような、まったくもって別のルールが支配しているような────そんな妙な感覚が氷の触手のように辺り一帯に広がっている。

 上条が最初に感じたのは、『恐怖』でもなければ『怒り』でもない。

『戸惑い』と『不安』。まるで言葉も分からない異国でサイフを盗まれたような、絶望的な孤独感。じりじりと、体の中へ広がる氷の触手のような感覚に心臓は凍り、上条は思い至る。

 

 

 一目で分かる。

 魔術師なんて言葉は今でも信じられないけれど、

 これは、間違いなく自分の住んでいる常識セカイの『外』の住人だという事が。

「うん? うんうんうん、これはまた随分と派手にやっちゃって」口の端の煙草たばこを揺らしながら魔術師はあちこち見回す。「かんざきったって話は聞いたけど……、まぁ。血の跡がついてないから安心安心とは思ってたんだけどねぇ」

 魔術師はかみじようとうの後ろでたむろしている清掃ロボットを見る。

 おそらくインデックスはどこか別の場所で『斬られて』、ここまで命からがら逃げてきた所で力尽きた。途中、辺りにべったりと鮮血をなすりつけただろうが、それらはすべて清掃ロボットがれいぬぐい去ってしまったのだ。

「けど、何で……」

「うん? ここまで戻ってきた理由かな。さあね、忘れ物でもしたんじゃないのかな。そういえば昨日背中を撃った時点では被り物フードがあったけど、あれってどこで落としたんだろうね?」

 目の前の魔術師は『戻ってきた』と言った。

 つまり、今日一日のインデックスの行動を追尾していた。そして修道服『歩く教会』の一部フードを忘れている事もつかんでいる。

 インデックスは『歩く教会』の魔力は探知サーチされている、とか言っていた。

 となると、この魔術師達はインデックスの『歩く教会』が持つ『異能の力』を感知して追い掛けていた訳だ。『歩く教会』が破壊された事を知っているのも、『信号』が途切れた事を知ったから───これも確かインデックスから聞いた。

 けど、それはインデックスも分かっていたはずだ。

 分かっていながら、それでも『歩く教会』の防御力に頼ってきたらしいんだから。

 けど、それなら彼女は一体何のためにここまで戻ってきた? 破壊されて使えもしない『歩く教会』の一部をどうして回収する必要がある? 上条の右手のせいでもう『歩く教会』全体そのものが使い物にならなくなったのなら、その一部フードを回収したって何の意味もないというのに……。


『……、じゃあ。私と一緒に地獄の底までついてきてくれる?』


 不意に、全てがつながった。

 上条は思い出す。上条の部屋に置き去りにした『歩く教会』の残骸フード。上条は、アレには触れていない。つまり被り物には魔力が残っている。それを探知して魔術師がやってきてしまうかもしれないと、彼女は考えた。

 だから、インデックスはわざわざ危険を冒して『戻ってきた』。

「……、ばっかやろう」

 そんな事する必要はないのに。『歩く教会』を壊したのはかみじようの不手際だし、部屋に忘れた被り物フードにしたって上条は気づいていながらわざと部屋に放置しておいた。そして何より───インデックスは、上条の人生を守り抜く義理も義務も権利だってありはしないはずなのに。

 それでも、彼女は引き返さなければ気が済まなかった。

 赤の他人の、出会って三〇分もっていない上条とうの事を。

 命をけて、魔術師達との戦いに巻き込ませないために。

 戻ってこなければ、気が済まなかった。

「───ばっかやろうが!!」

 ピクリとも動かないインデックスの背中が、妙にかんに障った。

 前に、上条の『不幸』はこの右手のせいらしい、という話をインデックスから聞いた。

 何でも『神様のご加護』とか『運命の赤い糸』とか、そういう微弱な『異能の力』さえ、右手は無意識の内に打ち消してしまっているらしい。

 そして、上条が不用意に右手で彼女に触れなければ、修道服『歩く教会』を壊していなければ、少なくても彼女が戻ってくる事はなかった。

 いや、良い。そんな言い訳はどうでも良い。

 右手が何だろうが『歩く教会』が壊れていようが、彼女がここに戻ってくる必要はなかった。

 上条が、『つながり』なんぞ求めなければ。

 あの時、あの瞬間。キチンと彼女が落としたフードを返していれば。

「うん? うんうんうん? 嫌だな、そんな目で見られても困るんだけどね」魔術師は口元の煙草たばこを揺らし、「ソレをったのは僕じゃないし、かんざきだって何も血まみれにするつもりなどなかったんじゃないかな。『歩く教会』は絶対防御として知られるからね。本来ならあれぐらいじゃ傷もつかないはずだったのさ。……まったく、何の因果でアレが砕けたのか。セントジョージのドラゴンでも再来しない限り、法王級の結界が破られるなんてありえないんだけどね」

 言葉の終わりは独り言のように、それでいて笑みが消えていた。

 だが、それも一瞬。すぐに思い出したように口の端の煙草が小さく揺れる。

「なんで、だよ?」思わず、答えを期待していないのに上条の口は動いていた。「何でだよ。おれは魔術なんて絵本メルヘン信じらんねえし魔術師テメエらみてえな生き物は理解できねえよ。それでもお前達にも正義と悪ってモンがあるんだろ? 守る物とか護る者とかあるんだろ……?」

 そんな事、偽善使いフオツクスワードに言えた義理ではない事は良く分かっている。

 上条当麻は、去っていくインデックスをそのまま見捨てて日常へ帰ったんだから。

 それでも、言わない訳にはいかなかった。

「こんな小さな女の子を、寄ってたかって追い回して、血まみれにして。これだけの現実リアルを前に! テメェ、まだ自分の正義を語る事ができんのかよ!!」

「だから、血まみれにしたのは僕じゃなくて神裂なんだけどね」

 なのに、魔術師は一言で断じた。じん欠片かけらも、響いていなかった。

「もっとも、血まみれだろうが血まみれじゃなかろうが、回収するものは回収するけどね」

「かい、しゅう?」意味が分からない。

「うん? ああそうか、魔術師なんて言葉を知ってるから全部つつけかと思ってたけど。ソレは君を巻き込むのがこわかったみたいだね」魔術師は煙草たばこの煙を吐いて、「そう、回収だよ回収。正確にはソレじゃなくて、ソレの持ってる一〇万三〇〇〇冊の魔道書だけどね」

 ……また、『一〇万三〇〇〇冊の魔道書』だ。

「そうかそうか、この国は宗教観が薄いから分からないかもしれないね」魔術師は笑っているのにつまらなそうな声で、「Index-Librorum-Prohibitorum──この国ではきんしよもくろくって所か。これは教会が『目を通しただけで魂まで汚れる』と指定したじやほんあくしよをズラリと並べたリストの事さ。危険な本が出回っていると伝令しても、タイトルが分からなければ知らず知らずの内に手に取ってしまうかもしれないからね。───かくして、ソレは一〇万三〇〇〇冊もの『悪い見本』を抱えた、どくしよ坩堝るつぼと化したって訳だ。ああ、注意したまえ。ソレが持ってる本ね、宗教観の薄いこの国の住人なら、一冊でも目を通せば廃人コースは確定だから」

 そんな事を言ったって、インデックスは一冊の本も持っていない。あんな体のラインがはっきり見える修道服なら服の下に隠したって分かるはずだ。大体、一〇万冊もの本を抱えて人が歩けるはずがない。一〇万冊って……それは図書館一つ分もあるんだから。

「ふ、ざけんなよ! そんなもん、一体どこにあるって言うんだ!?」

「あるさ。ソレの記憶あたまの中に」

 サラリと。魔術師は当然のように答えた。

「完全記憶能力、って言葉は知ってるかな? 何でも、『一度見たものを一瞬で覚えて、一字一句を永遠に記憶し続ける能力』だそうだよ。簡単に言えば人間スキャナだね」魔術師はつまらなそうに笑い、「これは僕達みたいな魔術オカルトでも君達みたいな超能力SFでもなく、単なる体質らしいけど。彼女の頭はね、大英博物館、ルーブル美術館、バチカン図書館、華子城パータリプトラ遺跡、コンピエーニュ古城、モン=サン=ミシェル修道院……。これら世界各地に封印され持ち出す事のできない『魔道書』を、保管している『魔道図書館』って訳なのさ」

 信じられる、はずがない。

 魔道書なんて言葉も、完全記憶能力なんて言葉も。

 だけど、重要なのはそれが『正しい』かどうかじゃない。こうして目の前に、実際にそれを正しいと『信じて』少女の背中をり刻んだ人間がいる事だ。

「ま、彼女自身は魔力をる力がないから無害なんだけど」魔術師は愉快げに口の端の煙草を揺らし、「そんな安全装置ストツパーを用意する辺り、『教会』にもいろいろ考えがあるんだろうね。まぁ魔術師の僕には関係ないけど。とにかくその一〇万三〇〇〇冊は少々危険な代物なんだ。だから、使に連れ去られる前にこうして僕達が保護しにやってきた、って訳さ」

「ほ……、ご?」

 かみじようがくぜんとした。これだけ真っ赤な光景を前に、この男は今なんて言った?

「そうだよ、そうさ。保護だよ保護。ソレにいくら良識と良心があったってごうもんと薬物には耐えられないだろうしね。そんな連中に女の子の体を預けるなんて考えたら心が痛むだろう?」

「……、」

 カチカチと。体のどこかが震えていた。

 それは単純な怒りではない。現に上条の腕には鳥肌が立っている。目の前の男の、自分だけは正しいという考え方。自分の間違いが見えないという生き方。それらすべてが、まるで何万匹ものナメクジで満たしたに突き飛ばされたみたいな悪寒を全身に駆けずり回らせる。

 狂信集団マツドカルト、という言葉がじわりと脳に染み込んでくる。

 そんな根拠も理論もない『もうしん』のために人間狩りをする魔術師に頭の神経がブチ切れて、

「て─────メェ、何様だ!!」

 バギン、と、右手が怒りに呼応するように熱を帯びたような気がした。

 地面にい留められていた二本の脚が、考えるより早く動く。血と肉の詰まった鈍重な体が弾丸みたいに魔術師へ向かう。右手を、五本の指を粉々に砕く勢いで握り締める。

 右手なんて役に立たない。不良の一人も倒せずテストの点も上がらず女の子にもモテない。

 だけど右手はとても便利だ。目の前の、クソ野郎を殴り飛ばす機能があるんだから。

「ステイル=マグヌスと名乗りたい所だけど、ここはFortis931と言っておこうかな」

 なのに、魔術師は口の端をゆがめて煙草たばこを揺らしているだけだった。

 口の中で何かをつぶやいた後、まるで自慢の黒猫でも紹介するように上条に告げる。

「魔法名だよ、聞き慣れないかな? 僕達魔術師って生き物は、何でも魔術を使う時にはを名乗ってはいけないそうだ。古い因習だから僕には理解ができないんだけどね」

 両者の距離は十五メートル。

 上条とうはたった三歩でその距離を半分に縮める。

「Fortis───日本語では強者と言った所か。ま、語源はどうだって良い。重要なのはこの名を名乗りあげた事でね、僕達の間では、魔術を使う魔法名というよりも、むしろ───」

 さらに二歩、上条当麻は勢い良く通路を駆け抜ける。

 それでも魔術師は笑みを崩さない。上条では笑みを消す相手にもならないとでも言うように。

「─────?」

 魔術師、ステイル=マグヌスは口の煙草を手に取ると、指ではじいて横合いへと投げ捨てた。

 火のついた煙草は水平に飛んで、金属の手すりを越え、隣のビルの壁に当たる。

 オレンジ色の軌跡ラインが残像のように煙草の後を追い、壁に当たって火の粉を散らす。

炎よKenaz────」

 ステイルが呟いた瞬間、オレンジの軌跡ラインごう! と爆発した。

 まるで消火ホースの中にガソリンを詰めて噴いたように、一直線に炎の剣が生み出される。

 ジリジリと、写真をライターであぶるようにそうが変色していく。

 触れてもいないのに、それを見ただけで目を焼かれるような気がして、かみじようは思わず足を止めて両手で顔をかばっていた。

 ザグン! と上条の足が地面にくいで打ちつけられたように止まってしまう。

 ふとした、疑問。

 幻想殺しイマジンブレイカーはあらゆる『異能の力』を一撃で打ち消す事ができる。それは『災害級レベル5』と呼ばれる、核シェルターさえ一撃で破壊しかねない御坂美琴ビリビリおんな超電磁砲レールガンでさえも例外ではない。

 けれど、逆に言えば。

 上条はいまだ『超能力』以外の『異能の力』を見た事がない。

 つまり、試した事がない。

 

 

「────巨人に苦痛の贈り物をPurisazNaupizGebo

 顔をかばった両手の向こうで、魔術師は笑っていた。

 ステイル=マグヌスは笑いながら、しやくねつえんけんを横殴りに上条とうたたき付けた。

 それは触れた瞬間にカタチを失い、まるで火山のほんりゆうのように辺り構わずすべてを爆破した。


 熱波とせんこうと爆音と黒煙が吹き荒れる。

「やりすぎたか、な?」

 まさしく爆弾による爆破事件を前に、ステイルはぼりぼりと頭をいた。一応、辺り一帯の人の出入りはチェックしている。夏休み初日の男子寮という事でほとんどの住人は外に出払っていた。が、友達のいない引きこもりがいるとなると少しやつかいになる。

 眼前は黒煙と火炎のスクリーンに覆われている。

 だが、いちいち見なくても分かる。今の一撃はせつ三〇〇〇度の炎の地獄だ。人肉は二〇〇〇度以上の高熱では『焼ける』前に『溶ける』らしいから、あめ細工のようにひしゃげた金属の手すりと同じく、学生寮の壁に吐き捨てたガムのようにべっとりこびりついている事だろう。

 つくづく、あの少年をインデックスから引きがして正解だったとステイルは息を吐いた。あそこで傷だらけのインデックスを盾にされたら少し厄介な展開になっていただろう。

 ……しっかし、これではインデックスを回収できないな。

 ステイルはため息をつく。炎の壁を挟んで通路の向こうにいるインデックスの元まで歩いていく事はできない。通路の反対側に非常階段でもあれば良いが、回り道をしている間にインデックスが炎に巻かれてしまっては笑い話にもならない。

 ステイルはやれやれと首を振りながら、もう一度だけ煙の中を透かし見るように、言った。

「ご苦労様、お疲れ様、残念だったね。ま、そんな程度じゃ一〇〇〇回やっても勝てないって事だよ」


だれが、何回やっても勝てねえって?」


 ギクリ、と。炎の地獄の中から聞こえてきた声に、魔術師の動きが一瞬で凍結する。

 ごう! と辺り一面の火炎と黒煙が渦を巻いて吹き飛ばされた。

 まるで、火炎と黒煙の中央でいきなり現れた竜巻がすべてを吹き飛ばすように。

 かみじようとうはそこにいた。

 あめ細工のように金属の手すりはひしゃげ、床や壁のそうはめくれ上がり、蛍光灯は高熱で溶けてしたたり落ち───そんな炎としやくねつの地獄の中、傷一つなく少年はそこにたたずんでいた。

「……、ったく。そうだよ、何をビビってやがんだ────」

 上条は、本当につまらなそうに口の端をゆがめて一人でつぶやいた。

「────

 上条は正直、『魔術』なんて言われても何も理解できない。

 それがどんな仕組みで動いているものなのか、見えない所で一体何が起きているのか。上条はきっと一から十まで説明されたって半分も理解できないだろう。

 だけど、バカな上条でも一つだけ分かる事がある。


 しよせん、ただの『異能の力』だ。


 吹き飛ばされた真紅の火炎は、完全には消滅しない。

 まるで上条を取り囲むように、れいな円を描いてジリジリと燃え続けている、が。

「邪魔だ」

 一言。せつ三〇〇〇度の魔術の炎に上条の右手が触れた瞬間、全ての炎が同時に消し飛んだ。

 まるで、バースデーケーキに刺さったロウソクをまとめて吹き消すように。

 上条当麻は目の前の魔術師を見る。

 目の前の魔術師は、突然の『予想外』に対し、人間みたいにうろたえていた。

 いいや、は人間だった。

 ぶん殴れば痛みを感じるし、一個一〇〇円のカッターで切りつければ赤い血を流す、

 

 もう上条は、恐怖で足がすくんだり、緊張で体が固まったりはしない。

 いつものように、手足は動く。

 動く!

「───────、な」

 その一方で、ステイルは目の前の理解不能な現象に危うく一歩後ろへ下がる所だった。

 周囲の状況を見れば、先の一撃が不発だったとは考えられない。だとすれば、あの少年は生身の体でせつ三〇〇〇度を受け止めるほどの強度があるのか? いや、それはもう人間ではない。

 かみじようとうはステイルの混乱など気にも留めない。

 熱を帯びる右手を岩のように強く握り締めながら、ゆらりとステイルの元へ、一歩

「チッ!!」

 ステイルは右手を水平に振るう。生み出されるえんけんを同じように、勢い良くたたきつける。

 爆発が起きた。火炎と黒煙がき散らされた。

 けれど、火炎と黒煙が吹き飛ばされた後には、やはり上条当麻は同じようにたたずんでいる。

 ……、まさか。魔術を─────?

 ステイルは口の中でつぶやいたが、即座に否定する。こんな魔術はおろか降誕祭クリスマス交尾デートの日としか感じないようなとぼけた国に魔術師なんているはずがない。

 それに、───それに、魔力を持たないインデックスが『魔術師』と手を組めば、そもそも『逃げ出す』必要はどこにもない。それほどまでにインデックスの記憶は危険なのだ。

 一〇万三〇〇〇冊の魔道書とは、単に核ミサイルを持つのとは訳が違う。

 生き物は必ず死ぬ、上から落としたリンゴは下に落ちる、1+1=2……。そんな、世界としては当たり前で、変えようのない『ルール』そのものを破壊し、組み替え、生み出す事ができる。1+1は3になり、下から落としたリンゴは上に落ち、死んだ生き物が必ず生き返る。

 魔術師達は、その名を魔神と呼ぶ。

 魔界の神ではなく、魔術を極めて神の領域にまで辿たどり着いた魔術師、という意味の。

 魔神。

 しかし、目の前の少年からは『魔力』を感じられない。

 魔術師ならば、一目で見れば分かる。あれには魔術師という『同じ世界のにおい』がしない。

 ならば、

「!!」

 ぶるっと。全身に走る震えをごまかすように、さらに炎剣を生み出し上条へたたきつける。

 今度は爆発さえ起きなかった。

 上条が羽虫でも振り払うように右手で炎剣を叩いた瞬間、ガラスが砕けるように炎剣が粉々に砕け散り、虚空へ溶けるように消えてしまった。

 摂氏三〇〇〇度の炎の剣を、何の魔術強化も施していない生身の右手で、叩き砕いた。

「──────、ぁ」

 唐突に。本当に唐突に、ステイル=マグヌスの脳裏に何かが浮かぶ。

 インデックスの修道服『歩く教会』は法王級ぜつたいで、その結界の力はロンドンの大聖堂に匹敵する。アレを破壊するには伝説にあるセントジョージのドラゴンでも現れない限り絶対に不可能だ。

 しかし、現にかんざきられたインデックスの『歩く教会』は完膚なきまで破壊されていた。

 一体、だれが? 全体、どうやって?

「………………………………………………………………………………………………………、」

 かみじようとうはもうステイルの目の前まで歩いてきている。

 あと一歩踏み込んだだけで、殴りかかれるほど近くまで。

「────世界MT構築WOる五TF元素FT一つO偉大IIGOIIO炎よF

 ステイルの全身から嫌な汗が噴き出した。目の前の夏服を着た生き物が、人間のカタチをしているからこそ。その皮の中には、血や肉ではなくもっと得体の知れないドロドロした何かが詰まっているような気がして、ステイルは背骨が震えるかと思った。

それはI生命をI育む恵Bみの光OにしてL邪悪Aを罰IするI裁きAの光OなりE

 それは穏Iやかな幸I福を満たMすと同時H冷たきA闇をI滅するI凍えBる不幸OなりD

 そのIINFそのIIMS

 ICせよR我がM身を喰MらいBて力とG為せP───────────────ッ!」

 ステイルの修道服の胸元が大きくふくらんだ瞬間、内側からの力でボタンがはじけ飛んだ。

 ごう! という炎が酸素を吸い込む音と同時───服の内側から巨大な炎の塊が飛び出した。

 それはただの炎の塊ではなかった。

 真紅に燃え盛る炎の中で、重油のような黒くドロドロしたモノが『しん』になっている。それは人間のカタチをしていた。タンカーが海で事故を起こした時、海鳥が真っ黒な重油でドロドロに汚れたような───そんなイメージを植え付けるモノが、永遠に燃え続けている。

 その名は『魔女狩りの王イノケンテイウス』。その意味は『必ず殺す』。

 必殺の意味を背負う炎の巨神は両手を広げ、それこそ砲弾のように上条当麻へ突き進み、


「邪魔だ」


 ボン!! と。

 うらけん気味に、目の前のクモの巣を振り払うぐらいの面倒臭さで。

 上条当麻はステイル=マグヌスの最後の切り札を吹き飛ばした。まるで水風船を針で刺したように、炎の巨神をかたどる重油の人型は、飛沫しぶきとなって辺り一面に飛び散った。

「……、?」

 その時。上条当麻が最後の一歩を踏み込まなかったのは、何か理屈があった訳ではない。

 だが、最後の切り札をつぶされたステイルはそれでも笑っていた。その表情が、不用意に最後の一歩を踏み込む事をためらわせた。

 ビュルン!! と粘性の液体が飛び跳ねる音が四方八方から響き渡る。

「な、──────ッ!?」

 驚いてかみじようが一歩後ろへ下がった瞬間、四方八方から戻ってきた黒い飛沫しぶきが空中で寄り集まり、再び人のカタチを作り上げた。

 あのまま一歩進んでいれば、間違いなく四方八方から襲いかかる炎の中へ取り込まれていた。

 上条は目の前の光景に混乱しそうになる。上条の右手『幻想殺しイマジンブレイカー』のうたい文句が正しければ、それは神話に出てくる神様の奇跡システムさえ一撃で打ち消してしまう。アレが『魔術』とかいう『異能の力』である以上、たった一度触れただけで『すべてを無効化』させるはずなのに……。

 炎の中の重油はのたくり、カタチを変え、まるで両手で剣を持っているような形になる。

 いや、それは剣ではない。人間でもはりつけにするような、二メートル以上の巨大な十字架だ。

 ソレは大きく両腕を振り上げると、ツルハシでも振り下ろすように上条の頭に襲いかかる。

「……っ!!」

 上条はとっさに右手で受け止めた。元より上条は右手を除けば単なる高校生だ。目の前の攻撃を見切って避けるような戦闘スキルは持ち合わせない。

 ガギン! と十字架と右手がぶつかり合う。

 今度は『消える』事さえなかった。まるでゴムの塊でも握り締めているように、ともすれば上条の指の方が押し負かされそうになる。相手は両手で、こちらは右手しか使えない。ジリジリと。炎の十字架が上条の顔へと一ミリ一ミリ近づいてくる。

 混乱する上条は、かろうじて気づく事ができた。この炎の塊『魔女狩りの王イノケンテイウス』は確かに上条の幻想殺しイマジンブレイカーに反応している。だが、消滅した直後に復活しているのだ。おそらく消滅と復活のタイムラグは一秒の一〇分の一にも満たないだろう。

 右手を、封じられた。

 たった一瞬でも手を離せば、おそらくその瞬間に『魔女狩りの王』に灰にされる。

「────ルーン」

 と、上条とうの耳が何かをとらえた。

 目の前の危機のせいで後ろを振り返る訳にはいかない。だが、だれの声かは一瞬で分かった。

「───『神秘』『秘密』を指し示す二四の文字にして、ゲルマン民族により一世紀から使われる魔術言語で、古代英語のルーツと

 だが、上条はそれがインデックスの声だと分かっているのに、信じられなかった。

「な……、」

 

「───『魔女狩りの王』を攻撃しても効果はありません。壁、床、天井。辺りに刻んだ『ルーンの刻印』を消さない限り、何度でもよみがえります」

 押される右手の手首を左手でつかんで、かろうじて上条当麻は十字架との均衡を保つ。

 かみじようは、振り返る。

 そこには、確かに一人の少女が倒れていた。けれど、上条は『それ』をインデックスと呼ぶ事ができなかった。まるで機械のような、あまりにも感情の欠落したひとみ

 一言一言、告げるたびに背中の傷から血があふれていく。

 そんな事にも全く気に留めない、まさしく魔術を説明するためだけの『装置システム』。

「お、まえ─────インデックス、だよな?」

「はい。私はイギリス清教内、第ゼロ聖堂区『』所属の魔道書図書館です。正式名称はIndex-Librorum-Prohibitorumですが、呼び名は略称の禁書目録インデツクスで結構です」

 魔道書図書館───禁書目録という生き方に、上条は自分を殺そうとする炎の巨神イノケンテイウスの事さえ忘れそうになってしまう。それほどまでの『寒気』がそこにある。

「自己紹介が済みましたら、元のルーン魔術に説明を戻します。───それは簡単に言えば、夜の湖に映る月と同じ……いくらみなつるぎで切り裂いても意味はありません。水面に映る月をりたければ、まずは夜空に浮かぶ本物の月にやいばを向けなければ」

 そこまで『説明』されて、上条はようやく目の前の敵イノケンテイウスの事を思い出した。

 ようは、これは『異能の力』のではない、という事か? 写真とネガのように、どこかでこの炎の巨神を作っている『他の異能の力』をつぶさない限り、何度でも復活してしまう……?

 この期に及んで、上条はまだインデックスの言葉を完全に信じられなかった。

 どこまで行っても、魔術なんて存在しないという『常識』という言葉が胸にこびりつく。

 しかし、『魔女狩りの王イノケンテイウス』に右手を封じられて身動きが取れない状態では、どの道試してみる事もできない。血まみれのインデックスに協力を仰ぐというのも難しい話だろう。

灰は灰にAshToAsh────」

 ギョッとした。炎の巨神の向こうで、ステイルは右手に炎剣を生み出している。

「────塵は塵にDustToDust────」

 さらにもう一本。左手には青白く燃えるえんけんが音もなく伸びる。

「────────────吸血殺しの紅十字Squeamish Bloody Rood!」

 力ある言葉と同時、左右から炎の巨神ごと引き裂くように、大ハサミのように二本の炎剣が水平に襲いかかる。『魔女狩りの王』に右手を封じられた上条はこれ以上防ぐ事ができない。

(ヤ、バ…………とりあえず、逃げ──────ッ!!)

 上条とうが何かを叫ぶ前に。

 二本の炎剣と炎の巨神が激突し、一つの巨大な爆弾と化して大爆発を巻き起こした。

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