Awareness World

錆井

1.ヒトの国

 

 人のような、あるいは違うようなそんな何かがいた。ほかには誰もいなかった。


 空はどこまでも続きそうに、悠然と遥か上に佇んでいる。その漆黒は、生命の存在しないこの荒野が投影されたように、一切の星を映さない。


――連絡。応答。


「南東区より伝達。最後の『核』の設置完了」


「了解。手筈通り、俺が殿をする。お前らは計画通り、担当区域の巡査をしておいてくれ」


「承知した。後のことは任せる」


 ぷつりと糸が切れるように、信号が消えた。


 ゆっくりと、やがて荒野へと帰す街へ向けて歩を進める。荒野には、歩を遮るものは何もない。


 *****


 目を覚ます。午前七時。円形の壁掛け時計が指すのは、いつも通りの時刻。白い掛け毛布の柔らかなベッドから降り、毛布を整える。掛け毛布の上に青の枕を置き、その場を後にした。左足から踏み出し、木目の新たな廊下を通り、洗面所へ向かう。蛇口を四十五度上に傾け、水を手ですくい、顔を洗う。鏡にはいつも通り、不愛想な顔が映っていた。


 それが彼、夏樹なつきのルーチンワークであり、他者以外によってその行為が乱されることはない。いつも通り、同じ動作の繰り返しだ。


 キッチンで朝食をとる。同時にニュースを見る。机上では、色とりどりな、しかし無造作に置かれた野菜が、物も言わず食されるのを待っている。インスタントのコーヒーを入れて、夏樹が席に着くと、TVでは不愛想な女性キャスターが、淡々とニュースを読み上げていた。


「おはようございます。六月二十三日、朝の地球報道のお時間です。私たち人類が、この国に地球という社会を確立してから、およそ五十年。本日も再生産工場は、通常通り、稼働しております。本日のは、北西区にお住いの――」


 朝の光は、静かに部屋に差し込んでいる。照らされた床には、うっすらと埃が積もっている。窓の近くに備えられた棚は、一人暮らしには余るほど、多くの食器が収納されている。


 コーヒーを一口飲み、夏樹はテーブルの上に置いたままにしていた携帯端末から、手帳を開いた。スケジュールは、ほとんどが真っ白のままだ。六月二十三日の欄に記された、ラボへ、というメモ書きを見て、夏樹はため息をつく。


「今日は特段、面倒な日になりそうだ」


 端末を置き、夏樹は改めてニュースに目を向ける。サラダのボウルは、空になっていた。


「——以上の八名です。皆様も体調、生活習慣にはお気をつけて、自由な地球での生活をお楽しみください。本日の配給品は、木工用品です。お求めになる場合は、南東区、または北西区の再生産工場へお越しください。明日の配給品は、音楽用品を予定しております。現在、鉄道や交通の乱れはありません。本日の地球報道は、以上です。それでは、また」


 ニュースが終わると同時に、TVの電源を切る。朝食の皿を洗った後、夏樹は、出かけるために、夜間着をキッチンの回収箱に入れ、配給されていた日用着に着替えた。


 リサイクル可能な素材で作られている人々の服は、居住区のいたるところにある回収箱に入れることで、再び同じように服として帰ってくる。これはリサイクルという技術に向き合い続けた、人類の英知の結晶とも言える。支給品であるためか、単色の簡素な服であるが、文句を言う者はいない。


 夏樹は着替え終わると、一度玄関から廊下を振り返り、誰もいないことを確認した。生物の気配のしない家には、事実彼以外の生物は存在しない。一息ついてから夏樹は、目的のラボへと歩を進めた。


 質素な二階建ての一軒家。一階の寝室には、彼が日記をつけるためだけに使用しているパソコンが置いてある。他の部屋はまるで使われておらず、昼夜を問わず、電気がついている様子はない。彼の家に大きな庭はなく、掃除をするほど汚れるような空間もないためか、清掃用のキカイすらいない。そもそも、彼の家にキカイはいない。この地球では珍しいことに。


 限りない人口増加。対称に、減り続ける資源。それらは人類に、不可避の限界を指し示し、その末に彼らが行き着いた答えは、間引きであった。誰が誰の味方ともわからない世界で、国という共通の要素を持つ同士とともに、人類は戦争を始めた。


 どこが火種で、だれが敗北し、なにを失ったかは定かでない。結果、その戦争が長く続くことはなく、その様子を示す文献も後の世代によって、すべて処分されてしまった。現在残されている情報は、戦争が始まってすぐ、あるいは始まってすらいないとき、宇宙から飛来した隕石群により、地上にあった国家のほとんどが一夜にして消滅した、ということだけだ。


 残された、ある小さな島国の住民たちは、徹底された他国との情報断絶状態にあったため、しばらくの間、そのことには気づかなかった。彼らは、封鎖された環境下において、さまざまな自国文化を発展させた。


 そのうちの一つが、機械産業である。小さな島国であるため、重工業の需要は息をひそめ、人間の仕事を代替する機械を生産する、SFじみた産業が興隆した。


 そうして、限りなく人間に近い『キカイ』と呼ばれるアンドロイドが生み出され、一国民当たり一体、生活補佐役として、国から支給されるまでに発展した。キカイたちは自分の意志を持ち、その思考により、最高のパフォーマンスを維持している。


 そんなキカイの発展の裏には、機械産業と同様に大きく発展した、脳科学の存在がある。


 多くの研究の結果、人間の脳には個人の性格を司る分野があり、似た性格の人間の脳内では、似た波形の電気信号が交信されていることが明らかになった。その波形を人工的に作り出すことにより、遂には人工的な人間の脳が開発された。それが人格インプラントだ。


 人格インプラントとは、一言でいえば、人工知能のことである。しかし、旧時代のそれと違い、人格インプラントは、完成されたある人格の紋切り型である。ある性格を基にした思考ルーチンに沿って、人間として合理的な、すなわち時に機械としては非合理的な選択をするのが特徴である。やがて、それらはキカイに搭載され、キカイは自分の意思を持つに至った。


 地上国家の消滅からしばらくして、その島国に残された人間たちは、大陸の滅亡を知った。しかし彼らは絶望することなく、彼らの技術の結晶であるキカイを使い、未知の物質によって汚染された大陸各地から資源を集めた。そして彼らは、その小さな国土に理想郷を打ち建てた。後に地球という名を冠する、労働も障害も争いも無い、地上の楽園。それが、現在の文献に残された、この世界の概要である。


 *****


「あいつのラボは……ややこしいな。もう少しわかりやすい地図をよこせないのか」


 うっすらと雲がかかる空の下、夏樹は住宅の多い路地を抜け、彼の友人の実験室へと向かった。進んでいくうちに整備されていた道は消え、やがて大きな門が現れる。そこが住宅街の終点だ。


 門兵に通行証を見せると、そう時間を置かずに門が開いた。そして目前には、果てしない荒野が現れた。居住区をぐるりと囲む広大なその土地には、ぽつぽつとドーム状の建物がある。


「それにしても、最後の問診をわざわざ研究区でする必要性が理解できない。都合が悪いなら、ずらせばいいのに」


 広大な荒野は、別称を研究区といい、町の喧騒から離れ、科学者や技術者が自身の研究に没頭するための空間である。もっとも、危険な研究の余波で、市街に危険が及ばないようにするための処置としての側面のほうが大きいが。


 この地球において、労働は義務ではない。すべて機械が補っているからである。しかし、科学者や技術者、一部の職業の愛好家などは、自らの欲求のために仕事をする場合もある。実験や研究にタブーはなく、ほとんどすべてが容認されている。もっとも、それらを大っぴらに、研究していると公表する者も少ないのだが。


「ここ、で合っているよな」


 しばらく歩き、夏樹は汚れた扉の前に立つと、そうつぶやいた。眼前に建つ円形のドームは、研究者たちのラボの一つである。出自を推測しかねる金属で継ぎ接がれた外装は、到底、最新の研究が行われているとは思えないほどみすぼらしい。研究室の大きさやその見た目から、持ち主の研究には、それほど資金に余裕がないように見受けられる。もっとも、ラボの外装に資金を割く研究者も少ないものだ。


 夏樹は、ゆっくりと扉を開き、中に入る。古びた扉は、ギイギイと鳴る。


 室内は薄暗く、部屋の中心には、二基の棺桶型の機械があった。用途は不明だが、おそらく、このラボの持ち主が実験用につかうものだろう。円形の部屋の外壁には難解な図が直接描かれている。扉の向かいに置かれた広い机には、白衣を着た二人の研究者が座っていた。二人の前に置かれたパソコンは、棺桶型の機械につながっている。一人が椅子をくるりと反転させ、こちらを向いた。


「よお、久しぶりだな、夏樹。どうだ、元気にしていたか?」


 夏樹に気づき、陽気に声をかけてきたのは、このラボの主、多田陸丸ただ りくまるである。丸刈りの頭と、膝まである白衣は、ちぐはぐなようでいて、どこかはつらつとした印象を感じさせる。


「この世界で元気にしてない奴なんているのか?」


「そういやそうだな。まあ、強いて言えば、お前ぐらいのものだよ」


「……彼女は?」


 夏樹は部屋にいる、もう一人の女性に目線を送った。肩まで伸びる黒い髪は、実験室にいるような人物とは思えないほど整っている。鋭い目つきは、視力によるものか、あるいは性格によるものか。旧時代であれば一世を風靡したかもしれない出で立ちの彼女は、どうやら夏樹に難色を示しているようであった。


 陸丸は彼女を手で示しながら、説明した。


「彼女は、中井美鈴なかい みれい。俺の助手と、あと、その辺の機械を作ってくれている技術者でもある。良い人材だよ、僕が保証する」


「どうも。そんな大層な人間ではありませんが」


「いやいや、俺の実験がここまで来ることができたのも、君が助手だったからだよ」


「ところで、その青年が例の?」


 美鈴は、どこか品定めするように夏樹を見た。


「こいつは風宮夏樹。俺の知り合いで、そう、今回のだ」


「今回の被験者?おい、今日は、最後の問診だって言っていたよな。今更、新しい実験を、また俺で、臨床しようっていうのか」


 夏樹は、怒りをあらわにして陸丸に問い詰める。そんな夏樹を、やれやれとでも言うように、陸丸は苦笑いをした。


「ごめん、説明してなかったのは悪いと思っている」


 陸丸がバツの悪そうな表情で弁解していると、入口のほうから少女の声がした。


「すみませーん、多田さんの実験室はこちらでしょうか。父の言いつけでうかがった者です」


「お、きたきた。もう一人の子だ。夏樹、とりあえずはあの子と一緒に、説明だけでも聞いてくれないか」


 夏樹は憮然とした表情で、美鈴の用意した椅子に座った。


「——よし、じゃあ説明を始める。まず確認なんだが、二人はヒトの脳について、どのくらい知っている?」


 陸丸は、さながら教師のように質問した。夏樹は不満げな顔をしながらも、質問に答えた。


「大きく分けて、過去を保存する記憶野、個人を識別するための認識野、そのヒト自身を表す人格野の三つの空間がある。ヒトは生まれたときに、脳の稼働率を高めるため、手術によって脳を整理される。その手術のおかげで俺たちは、旧時代の何倍も記憶や思考ができる」


 陸丸は満足そうににっこり笑うと、「いい答えだ」と言った。


「じゃあ、ヒトとキカイの違いについて。説明できるか?」


 続けて出された問いに、夏樹とそろって座っていた少女が、明るく答えた。


「えっと、認識野の情報とか、内臓器官のシステム以外には、簡単に区別はできない、でしたよね。感情も五感もすべて、彼らは私たちと同じように感じている、と習った覚えがあります」


「ああ、今ではキカイのシステムのほうがより効率がいい、とか言って自分の体内を丸ごと機械化しちゃう人もいるぐらいだからね。その認識で、ほぼほぼ正しいと思う」


 陸丸の返答に、夏樹は訝しげに言う。


「なにか、秘密があるような口ぶりだな」


「ああ、あるとも。とっておきの、研究の成果がね」


 陸丸は襟を正すように胸を張り、被験者たちを笑顔で見つめる。


「——まず、だ。かつて、この惑星では、人同士の争いがあった。でも、このことは言論統制によって、教育の現場でも、報道の現場でも伝えられていないんだ。俺の後の世代から、つまり、ヒトの脳の整理手術が行われるようになってからね。手術のときに、争いの記憶は摘出されたんだ。あるものと一緒に」


 陸丸はもったいぶるように息を吸ってから続けた。


「それは、有史以来、人間の歴史を作ってきたといっても過言ではない感情、だ。現在のヒトは、脳の稼働率の飛躍的な向上と引き換えに、他者への敵対心、妬み嫉み、そういったあれこれを包括した怒りを捨てた。そうして、今の平和な地球がある。怒りをなくした人間は、怒りをなくしたことに怒ることもなく、平和な日々を過ごしている、だが――」


「あの、すみません」


 陸丸の話に水を差すように、少女が話し始める。


「その、怒りというのは、確かに今までに聞いたことのない感情の名前です。でも、その。、という経験はしたことがあります。でもそのことを父は――いえ、誰も注意したり、訝しんだりはしませんでした。人間が持たない、怒りという感情を持っている私は、人間ではない、のでしょうか」


 少女が言い終えると、陸丸は少女が驚くほど大きな声で笑った。


「あっはっは、大丈夫だよ。ちょうどそのことについて、話そうと思っていたところだ。夏樹も、誰かに怒った経験はあるだろう?」


 陸丸は同意を求めるように夏樹を見た。


「経験があるも何も、今、お前に対して怒っている。人間に怒りの感情がないなんて初耳だ」


 不機嫌そうに夏樹は言い捨てた。ディスプレイの光が、陸丸の背中越しに夏樹の横顔を照らす。


「そうだね、ごめん教えてなかった。まず、大事なことを一つ。君たち二人は、。だから、怒りという感情を、人格の中に持ち合わせているんだ。もちろん、君たちはキカイでもない。どういうことかっていうと、君たちは、一度人間なんだよ」


 楽しそうにそう告げた陸丸を、きょとんとした表情で少女は見た。


「殉死、ですか」


「そう、殉死。外傷も前触れも規則性もないと言われ続けている、あの殉死さ」


「お前は殉死について、何か知っているのか」


 夏樹は上目に陸丸を見た。その視線に焦点を当てずに陸丸は答える。


「うん、大体はね。殉死した死体をすぐに運んでもらって、いろいろと調べさせてもらっていたんだ。この世界には、死体を傷つけてはいけない、なんてルールはないでしょ? すると、面白いことが分かった。実は、彼らはみんな、


「思い込みで?」


「そう。死ぬ直前の彼らの記憶を調べると、彼ら自身が死ぬ様子が残されていたんだ。つまり、どういうわけか自分で自分が死ぬ様子を、俯瞰しているんだよ。刺殺、殴殺、撲殺とか方法はさまざまだった。でも、共通していることもあった。それらは全て、キカイに殺される記憶だったんだ」


「キカイに、って、キカイは人間を攻撃したりしないんじゃ?」


「そんなことはないよ。この世界にロボット三原則なんてものはないし、なんなら、キカイのほうが、ヒトよりも攻撃的だ。なぜなら、彼らは怒りを知っているからね。だけど、普通は攻撃したりしない。かつての人間がそうだったように、そんなことをしたら、彼らの命が危なくなるからね。それに、もしキカイが持ち主を襲ったんだとしても、やっぱり外傷が残るだろう」


「じゃあ、どうやって殺したって言うんです?」


 少女が純粋な疑問を投げかけると、陸丸は不敵に笑い、背面のディスプレイにいくつかの実験のデータのようなものを見せた。


「実は、面白いことにね、彼らは、持ち主の脳を書き換えていたんだ」


「脳を、書き換える? そんなことができるのか?」


「うん。基本的に今の脳は、全部電気信号で管理されているし、脳のシステムに介入できれば可能だね。まして、キカイなら簡単だろう。それに、どうやら上書きされていた脳は、一回きりの簡単なものだったらしい」


「脳に、簡単とか難しいとかが、あるんですか?」 


「ああ。さっき、脳には三つの区域がある、って言ったでしょ。そのうち、認識野と人格野はつながっていて、キカイの場合はこの両方を人工人格が補っている。これは、五年を活動限界とされたモデルだとされているから、五年経つと、信号の交信が終わって脳が動かなくなる。人間の脳は、現在でも完全に人工で再現するのは難しいんだ。キカイたちが持ち主に植え付けたのは、その人工人格の認識野の部分だけだった。つまり、自分たちの脳と同期させたんだよ」


「なぜわざわざ、そんな回りくどいことをしているんだ? 脳にアクセスできるんだったら、そのまま脳の活動を停止させればいいだけじゃないか。」


「さあ、そればっかりは、キカイに聞いてみないとね。もっとも、持ち主を殺したキカイたちは、すぐに生産工場に回されて、新しい個体として生まれ変わる。どうもこればっかりは、調査させてくれないようでね。ともかく、認識野を書き換えられた持ち主たちは、別の世界へと飛ばされてしまう」


「別の世界、ですか?」


「うん。そこで持ち主たちは殺されて、自分は死んだ、という意識だけが脳にフィードバックされ、彼らは死んでしまう。思い込みによる死だ」


 研究室に薄い緊張感が漂う。美鈴は関係なさそうに、自分の研究と向き合っている。


「君たち二人は、すでにその経験をしている。そして、僕が君たちに新たな人格インプラントの手術を行った」


「えっと、つまり、私は人間の体で、キカイの脳をしているってことですか?」


「大体合っているよ。記憶野は元のままだけどね」


「俺の脳の不調の原因も、それが理由か」


「うん、不安定だったから、定期的に検査が必要だったんだ」


 少女が現状を整理するように頭を抱える。夏樹は面倒くさそうに椅子の背もたれに体を預ける。美鈴のタイプ音が、静かに室内に反響している。


「さて、それじゃあ今回の実験の説明をしようか。君たちには、改めて人格インプラント手術を行ってもらう。と言っても、俺的にはそれは建前で、もう一つのほうが本題なんだけど」


 手を広げ、演説家のように話し始めた陸丸に、夏樹が問う。


「もう一つのほう?」


「さっきも言った通り、人間は認識野を書き換えることで、別の世界へ行くことができるようなんだ。殉死について調べていくうちにわかったことだが、認識野には主に、世界の認識、自分の体の認識、五感の認識の三つの部分がある。これらの認識をすべて、キカイたちと同期するように書き換えることで、新たな世界へ向かう。分かりやすく言うと、君たちに新しく人格を植えて、殉死者たちが見た場所について、調査をしてきてほしいんだ。」


 被験者たちは、陸丸の言葉を咀嚼するように、しばらく思考をめぐらせた。やがて、夏樹が陸丸に聞く。


「何のために?」


「この世界は確かに平和だ。でも、限界がある。もしも、僕たちが、性格が変わるというリスクだけで、他の、より平和な世界で暮らせるとしたら、僕たちは移住するべきなんだよ。でもまだ準備が必要だ。移送のための手術の成功率も、そもそもあちらが平和なのかもわからない。だから、その下見もかねて、手術をして、あちらがどんな世界であるかを見てきてほしい。どうかな、引き受けてくれるかい?」


 再び二人は考え込む。薄暗い研究室に、美鈴のタイプ音だけが響く。


 やがて、顔を上げて二人は答える。


「構わない。特に失うものもないし、それで得られるものがあるとするなら、なおさら。頼まれて受けない理由もない」


「はい、私も大丈夫です。父の言いつけですので」


「良かった。それなら一時間後に手術を開始するから、それまで時間をつぶしておいてよ」


 二人の返答を聞き、陸丸は笑顔でそう返した。薄暗い研究室のディスプレイには、もう何も映っていない。



 少しして、夏樹が実験室の扉を開けると、まぶしい光が青空から降り注いだ。思わず目を細めた夏樹は視界に、見覚えのある少女をとらえる。彼女は、薄い色の地面に膝をつき、一人うずくまっていた。


「何を、しているんだ?」


 夏樹に気づいた少女が、少し恥ずかしそうに返答する。


「あ……夏樹さん、でしたか。気に障ったのなら、申し訳ありません」


「いや、構わないが。今の、祈りかい? この世界に、神を信奉している者がいるとは思っていなかったが」


「そうですね。現在の社会様式に移行してから、宗教のような、未知のものに縋る方は、めっきりいなくなったと聞きます。でも、これは私の父の教えなのです。『自分を見失いそうなときは神に祈れ。心から神を仰げるのは、ヒトだけなのだから』」


「君の父は、ずいぶんと高尚な考えをお持ちのようだ」


 夏樹は、少し皮肉を込めて苦笑いした。


「はい! 父は素晴らしいヒトです。いつか私も、父の跡を継いで、立派なヒトになるのです。そのために、私は生きているのですから」


 少女は夏樹の意図に気づかなかったのか、天真爛漫に語った。


「君の父は、どういったヒトなんだ?」


「父は、ヒトクローン開発の第一人者です。ヒトの脳を複製できれば、それをキカイに搭載して、ヒトを新たなステージに進められると、いつも言っていました。それが父の望みであり、私もそのために、この身を捧げるつもりです」


「ヒトクローン、か。名前だけは聞いたことがある。確か、市街地の南西エリアで研究者の有志を集めていたな」


「はい! あ、そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたね。私は小倉おぐら三橋みつはし小倉です!」


「俺は風宮夏樹。よろしく。」


 手を差し出した小倉に、夏樹も握手を返す。広大な地に涼やかな風が吹き、砂塵を舞わせた。


「はい! そういえば、夏樹さんはのですか? その、さっきの説明の時も、ずいぶんと博識な印象を受けましたが」


「ああ。何か気に障ったかな」


「いいえ、ただ、珍しいなと。もう教育は自由ですから、趣味に没頭されるヒトは受けない方がほとんどですし」


 小倉は、思い出すように宙を見つめた。


「そうだな。うちは両親が熱心でね。今は脳の稼働率が、昔と比べてよくなったとはいえ、『幼少期からの勉強が無いと脳が小さくなってしまう』とか言って勉強させられたんだ」


「ご両親は、夏樹さんのことを、きちんと考えておられたのでしょうね」


「ああ。あの人たちとの、唯一の思い出だ。だから、今でも勉強は続けている、意味なんてないのだけどね」


「いえ、そんなことはないですよ。私も幼少期から、父に勉強をさせられてきました。父はいつも私をほめてくれるんです。『お前は神の子だ。そして唯一の、私の子だ。』って」


 小倉は心から嬉しそうに、笑顔で語る。その様子に感化されてか、夏樹も嬉しそうに言った。


「いい父親だな」


「はい。私が殉死したとき、と言っても私は死んでいないのですが、父は血相を変えて、私を陸丸さんの研究室に運んでくれたんです」


「陸丸と君の父親は知り合いなのか?」


「はい。父は、陸丸さんの研究に投資をしているのです。私が今回の被験者に選ばれたのも、父が手をまわしてくれたからだと聞いています。これも、父のような素晴らしい人になるために、必要な過程だと」


 夏樹はしばらく考えこんで、少し悲しそうな表情をした。


「……もうそろそろ時間だ。ラボに戻ろう。」


「はい! そうですね。」


 *****


 薄暗い研究室に立つ、二つの白衣の影。棺桶型の機械に入った二人は、死んだように目を閉じている。


「それじゃあ、二人とも、準備はいいかな? そういえば、言い忘れていたけれど、あちらの世界で死ぬと、殉死と同じように死んでしまうから、気を付けてね!」


「それは、手術前に言うべきことだと思いますが。もう彼らに意識はありませんよ」


「知っているさ。さて、僕たちも作業に戻ろうか」


 陸丸が機械に背を向けると、被験者たちの肉体はいつの間にか消え、自動的に棺桶の蓋が閉められた。陸丸は気に留める様子もなく、自身の作業に戻った。


「多田さん」


 作業の手を止めずに、私はもう五年ほどの付き合いになる研究者の名を呼んだ。


「陸丸で構わない、と言わなかったかな。どうしたの?」


「いえ、前々から気になっていたことなのですが、殉死についてのレポートは、政府に提出されないのですか? 地球全体からの支援があったほうが研究もはかどりますし、一般の方も、殉死について知りたがっているようですが」


 陸丸は一瞬手を止め、私の質問を鼻で笑った。静かなタイプ音の響く空間で、陸丸は答える。


「相変わらず君は、面白いことを言うね。殉死の研究結果を報告? 。僕なんかの研究一つで、殉死がなくなったら困るよ。殉死は、地球に必要なシステムの一つなんだ。人間の生活圏は小さい。旧時代と比べれば、有害物質の排出量も減ったし、そもそも人口が大きく減った。でもね、この地球の資源はとっくに枯れているんだ。再生産なんて体のいいことばかり言って、新たなキカイが作られないのがその証拠だよ。地球外に探索に行ったキカイたちは、口をそろえて、大陸にも資源が存在しないことを報告した。今の地球の安寧を守るには、殉死による間引きと、その資源の再利用が必要なんだ」


 茶化すような動作でごまかそうとする彼に、言葉を重ねる。


「では、この実験もその間引きとやらの一環である、と?」


 少し間を開けて、陸丸は聞き返した。


「それはどういう意味だい?」


「人格を司る脳を摘出するとはいえ、完全に取り除けるわけではありませんし、人間の脳では、別の新たな人格を同じ脳で受け入れることは困難です。キカイと違って人間の脳は、人格が似ていても個人ごとに、信号のパターンがほんの少し異なる。その違いは人格乖離、あるいはうつ病に近い症状を引き起こし、やがて被検体は、自殺を選ぶでしょう」


 陸丸は微塵の動揺も見せない。作業の手を止めずに答えた。


「そうだね。普通の人間であれば、そうなる。だからこそ、この実験はまだ試験段階なんだ。彼らは、普通の人間という紋切り型にはまらない、特別な人間だ。

 小倉は殉死によって、人格野の大半を失った状態で持ち込まれた、稀有な殉死の生存者だ。夏樹に関しても、家族とともに殉死し、脳のほとんどを失ったにもかかわらず生きている、言うなれば『無』の人格を持つ、たった一人の人間だ」


「脳の使用率が少ない人間であれば、もう一つ脳を入れても問題はない、と?」


 私の質問に、それは違うよ、と答え陸丸は続ける。


「二人はね、今の時代のヒトよりも、はるかに脳の容量が大きいんだ。いやあ、親御さんの教育の賜物だね。だからこそ、今のヒトの平均サイズくらいなら、二つの世界分の脳を持つことができるかもしれない。キカイみたいに、上手くこちらとあちらで、人格を切り替えられたら一番いいのだけどね」


 陸丸はやれやれというように手をひらひらと振った。


「二つの人格が同時に顕現したら、人格乖離、あるいは二重人格になることは避けられません。最悪の場合、二つの人格が争えば……」


 一介の研究者として、被検体の出自に興味を持たないつもりでいたが、研究に支障が出るならば別だろう。陸丸は何を考えているのだろうか。彼の心はいつも読めない。


「強いほうが残るか、どちらもなくなるか。どちらにせよ、肉体の負担は大きいだろうね。二人のこちらにおける、自分の体についての認識は、ここで固定されるようにしておいたから、帰ってきたらすぐわかるし、あちらで死んでも体はこっちに戻ってくるはずだよ」


「帰ってこさせる気はないのでしょうに、よくもまあ」


「そんな、そこまで僕は非道じゃないよ。あちらから帰ってくる手段はある。僕からは、何もできないけどね。もし、帰ってこられたなら、僕にとっても大きな収穫になる」


「やはりあなたは、研究者よりもペテン師のほうが向いています」


「はは、そんなもの、今の時代には需要がないからね」


 陸丸は私のほうに向きなおり、茶化すような手ぶりをした。研究室に響き渡っていたタイプ音は消え、私も静かに陸丸のほうを見た。


「陸丸、あなたはどこまで知っているのですか?」


 陸丸はバツが悪そうに視線をそらした。


「それは、何について聞いているのかな。のことか、のことか、それとも、か」


 緊張。やはり彼は気づいていた。そのうえで、ここに残しているのだ。ならば、隠す必要もないだろうと思い、私は、いつかどこかのヒトに言うつもりだった口上を使う。


「……陸丸。あなたは先ほど、キカイが持ち主に同期することで、あちらの世界へ送っているのだと言いましたね。それは正確ではありません。私たちは、ヒトに思い出させているのです。このような世界を作るにまで至った、その醜い排他性は、自身にも向けられて然るべきものだ、ということを」


「それをキカイがするっていうのなら、なるほど。ではあちらは、まさしく『キカイの国』と言うべきか。」


 私は強く歯をかみしめ、陸丸をにらんだ。それが、彼の言うキカイの姿のはずだから。


「私たちは、ヒトを決して許しません」


「それなら良かった。許されたりなんかしたら、キカイみたいに、笑顔で死んでしまうところだったよ」


 それでも陸丸は不敵に笑い、場を茶化すように両の手を大きく宙に掲げた。

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