きっといつかの誰かの日常
新谷式
逃避行の夜
馬鹿な女だ。
自分の復讐を果たす為ならばすべてを掛けられる。わたしはそんな彼女が好きで、好きすぎて、気が付いたらバイト中なのに告白していた。
「無理」
チヒロはわたしを一瞥し、冷たい声で言った。
わかっていた。おそらく彼女は異性が恋愛対象だろうし、ましてややるべき事があるのだからわたしと付き合う訳もない。
ただ、考える間もなく断られた事は、少しだけ寂しかった。
「まぁわかっていたけどね。これからもよいバイト仲間でいましょうよ」
気にしていませんよ、という声で提案したがチヒロからの返事はない。折角わたしからなかった事にしようと言っているのに。
憤っていると、チヒロが口を開いた。
「殺してほしい、女がいるんだ」
長いまつげが影を作った彼女の大きな瞳が、わたしをじっと見ている。唐突に発せられた言葉を冗談と捉えるには笑顔が足りない。本気だ、と思った。
「だから、何?」
「付き合うのは無理だけど、殺してくれたら好きになってあげてもいいけど?」
チヒロの上から目線。そんな言い方で他人を自由に操れると思っているのか、と思いつつも聞き返す。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。あなた、頭が悪いの?」
チヒロは心底心配しているような顔をしている。
「チヒロよりは、悪くないかな」
「じゃあわかるでしょ。どうするの? 殺すの、殺さないの」
「殺したって本当に好きになってくれるかわからないじゃん」
「感情なんて目に見えないのだから、私が真実を言おうと言うまいと、どちらでもいいのよ。要はあなたが私を信じるかって事」
「偉そうだな」
そう答えつつわたしは、好きになってもらえるならやってもいいかもと思っていた。
人殺しと恋愛感情を天秤に掛けるのはおかしい事だが、彼女を好きになった時点でもう、わたしの世界は狂っている。彼女に近付く為だけに大学を辞めて東京から仙台にあるこのコンビニにバイトとして入ったのだ。今更正常になど戻れる訳がない。
「いいじゃない。あなたは私の『好き』を手に入れられる。私はあなたの起こした行動により『復讐』を手に入れられる」
「そんなに憎いの?」
「ええ、それはもう。本当は私が殺してやりたいのだけれども、私はどうしてもできないのよ。どう考えても難しいわ」
「わたしにやらせるのはいいんだ?」
「あなたじゃなくてもいいのよ。ただ、殺してくれる人なら誰でも。あなたが一番、感情が疎くて罪悪感を持たなそうだったから。理由はそれだけ」
感情が疎いと言うところより、〝代わりはいる〟という言葉に腹が立つ。
「ひどいな。人を殺したらさすがに罪悪感は持つと思うよ」
「ストーカー行為ばかりしているような人が、そんなものを持つ訳がないわ」
返す言葉もない。チヒロは毎日のようにシフトに入っているからわたしも同じように入り、帰りは必ず彼女の後をつけて一人暮らしをしている家まで送っている。これをストーカーと言われれば否定できない。
「あなたなら、私が殺したい相手、わかっているんでしょ」
チヒロの過去を調べたから知っている。
チヒロは高校を卒業後、進学も就職もせずにこのコンビニにバイトとして働きはじめたと店長から聞いた。その理由を知りたくてチヒロに尋ねたが、「あなたに関係ある?」と言われて教えてもらえなかった。だから、自分で調べる事にした。
その結果わかったのは、 チヒロが交通事故によって姉を失くしている事だった。
赤信号を突進してきた運転手はそのままブレーキも踏まずに逃げた。目撃情報から女だとわかっている。いまだ捕まっていない。
交通事故の事をチヒロに尋ねたら、「気持ち悪い」と苛みつつも詳しく教えてくれた。
姉はチヒロを庇って車に轢かれた。チヒロは無事だったが転んだ際に頭を打ち、目を覚ました時には姉の火葬も何もかもが終わっていた。骨になった姉と対面して以降、復讐するのを夢見ている。姉を殺した女を探してこのコンビニに辿り着き、復讐の機会を狙っている。
いつも煙草を吸う女を睨みつけていたけれど、きっとあの女が姉を殺した犯人なのだろう。以前、女が住むアパートまで後をつけていたのを見た事がある。女が住んでいるであろう二階を睨みつけ、拳を握っていた。
本当に馬鹿な女だ。姉の死など忘れ、自分の幸せだけに目を向けていればいいのに。
無理なのだ。彼女はきっと、自分自身も憎んでいる。
「相手が誰かは想像つくけど……そんな事しても意味ないよ。わたしがいるじゃん。美味しいもの食べてさ、どっか行って人生を楽しもうよ」
「あなたは自分の価値がどれほどのものだと思っているの? 自惚れないで」
「け、警察は優秀だからすぐに捕まっちゃうよ」
「大丈夫よ、別の容疑者を立てればいいの」
「わたしが疑われた時、どうすればいいの? 犯行時刻にアリバイなんか作れないよ」
「ミステリ小説を読めば、アリバイトリックが見つかるんじゃない?」
「他人事……こういうのって、頼んだ方がアリバイを作ってくれるんじゃないの?」
「無理。あなたの事なんだから自分で作りなさいよ」
「うーん、じゃあまぁ、それは置いといてさ、その後は一緒に逃げてくれる?」
「あなたが望むなら、私を連れて逃げればいいわ」
「逃避行って感じ? いいね。ちょっとやる気出てきた。逃げる先はどこがいい?」
「ハワイ」
「さすがにお金がありませんな」
「嘘よ。私、暑いの嫌いだもの。北海道がいい。お姉ちゃん、北海道が好きだったの。今の季節ならラベンダー畑が見られると思うわ」
「北海道か。いいね。夕張メロンとか食べたい」
「花より団子なのね。勝手に食べてちょうだい」
「チヒロはいらないの?」
「食べられないからいらない」
「あ、そっか。なんか、旅の計画立てているみたいで楽しい」
「あなたがするのは人殺しよ」
「わたしがオーケーすると思っていない?」
「するでしょ」
「まぁ、しても、いいけど」
「だと思った。あなたのその、良心に脅かされないところは結構好きよ。よろしくね。殺した後、首を切り落とすといいわ。残忍な犯行にも見えるでしょう?」
チヒロから手渡されたのは、煙草のケースと吸殻が入ったチャック袋だった。
当日、わたしは殺人の準備を終え、現場にいた。
決行は午後六時半にするとチヒロには言ってある。女は家に一人でいるのを確認済だし、このアパートに他の住人がいない事も確認が済んでいる。
目的の部屋の明かりはついていない。取っ手を捻ると鍵は開いていた。チヒロが開けておいてくれたようだ。
玄関からベッドの上に横たわっている姿が見える。チヒロは「睡眠薬で眠っているから」と言っていた。作業は簡単に済むだろう。
古い家のせいか歩く度に畳が軋んで音を出す。驚いてベッドを見るも、起きては来ない。ちゃんと薬が効いているようだ。
ベッドの横に来ると紐を取り出した。相手の首に巻き、起きる前に殺す意気込みで一気に力を入れる。カーテンの隙間から入る夕日が血のように見えた。
――わたし、人を殺している……。
これで、本当によかったのだろうか。
悩む必要はないさ。どうせ一度は死のうとしたんだから、いいじゃないか。好きな人の役に立てるなんて、幸せだよね?
それなのに、胸が苦しいのはなぜだろう。
死に場所を求めて仙台まで来たわたしは死にきれず、コンビニに寄った。その時チヒロと出会った。彼女は今にも死にそうな儚い雰囲気を纏っていた。
――この子なら、一緒に死んでくれるかも。
きっとチヒロも一人では死ねないのだ、と勝手に決めつけて近付いた。けれど、彼女を知っていくうちに、チヒロは自殺を望んでいない事を知った。
その時点でバイトなんて辞めて一人で死ねばよかったんだ。けれどわたしはそれができなかった。
定規が入ったように伸びた背筋や影を作るまつげ。感情を抑えるとぴくぴく動く眉にイライラすると壁を蹴る癖。たまに微笑む優しい表情――。
チヒロのすべてが好きだった。もっと見ていたくて、だから死ぬのをやめたのに……。
チヒロとの事を思い出すと自然と首を絞める力が緩む。
今からでも、やめようか。そうすればなかったことにできて、この先もチヒロと一緒にいられるかもしれない。こんな事をしても、好きになってもらえたかはわからないのだし。
そんな事を思ったが、わたしがやめても別の誰かに頼むだけだろう。それならわたしがやりたい。いや、やるべきだと思う。そう決意すると、再び手に力が入った。
五分くらいして、紐から手を離した。手がじんじんする。見ると相手の首に残った痕と同じものが、くっきりとわたしの手のひらに残っていた。
服を脱ぎ、用意しておいた糸ノコを手に取った。これで死体の首を切り落とす。なかなかの重労働だったがどうにか切断できた。
切った首をビニールに包んでカバンに入れる。服を着直し、それから煙草に火を点けた。燃えるソレをベッドの横に置き、わたしは家を出た。
アパートの外に出て振り返る。ぼんやりと窓ガラスから部屋が明るいのが見えた。火はきちんと燃えてくれているようだ。やがて部屋全体を埋め尽くし、二階へも炎が到達する事だろう。
チャック袋から煙草の吸殻を取り出し敷地内の地面に落とす。煙草のケースは少し歩いてから道の途中に捨てた。
頭が入ったカバンは重かった。それを抱えて駅に向かう。どうにか最終便に間に合い、席に座った時には安堵からため息が漏れた。隣にいるチヒロはきっと「手際が悪いからよ」と思っている事だろう。
わたしたちは約束通り、北海道へと逃げる。
アパートの焼け跡からチヒロの遺体が見つかれば捜査が始まるだろう。
現場付近にはチヒロの姉を殺した女の唾液がついた煙草の吸殻と指紋のついた煙草ケースが残っている。女はアパートの二階にある自宅に一人でいるのだからアリバイもない。あとは警察がその女を疑ってくれるのを願うだけだ。
チヒロと女を結び付けるのはあの交通事故だけ。いずれ女が起こした交通事故も明るみになるだろう。
すべては、チヒロの計画通りになる。
姉を殺した女に罪を被せるならもっと利口なやり方もあっただろうに馬鹿な女だ。自分が死ぬ事はなかったんだ。そんなチヒロの計画に手を貸したわたしも馬鹿なのだ。
これで満足した? 自分自身も恨んでいるからこんな計画を立てたの?
隣に置いた鞄を見る。チャックが締まっているから表情は見えない。でもきっと「あなたに関係ある?」とチヒロは言うのだろう。
チヒロはわたしの事を好きになってくれただろうか。
窓の奥には暗闇が広がっていて、車内の明かりのせいでガラス窓に自分の顔が映る。罪悪感なんてものは持っていなかった。チヒロの言葉は正しい、と思った。
「一緒にメロン、食べたかったな」
目元から溢れる涙を隠すように、わたしは目を閉じた。
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