第1章 始まり

1-1.解放

「ええと、301号室。東階段三階を左に行って、突き当たり……東階段は東にあるよ、と言われてもなあ」

 窓から差し込む光を見、いつもポケットに忍ばせている方位磁石も確認してみたけれど、自分のすぐ東はただの壁、見回しても東に伸びる通路も見当たらない。

 説明してくれた受付の人には悪いけれど、と思いつつ、フィルは廊下の中途で立ち止まり、うめいた。

 

 方向感覚はそう悪くないと思っていたけれど、実はそうでもないのだろうか。迷い込んだ深遠な森の中で、一本一本の木を見分けることは出来る。けれど、今歩いている廊下がさっき歩いたところか、違うところなのかはさっぱりわからない。

「ここ、さっき通った……?」

 今フィルの前方に伸びているのは、身を隠す場所すらない、ひどく真っ直ぐ伸びた空間だ。足元の石造りの床は凹凸が全くない上に、色合いまで均質。同じく石で出来た右の壁には窓があるが、それにしたってひどく規則的。射し込む日差しがそんな空間の端から端まで等間隔に、しかも切り取られた四角そのままに並んでいる光景は、余計奇妙に見えた。

「見事に同じだ…」

 フィルはこれまで歩いてきた背後を振り返って、溜め息をつく。ちなみに、街の中もそう。どの通りも同じに見えてしょうがない。

(これって典型的な田舎者というやつ……って、田舎者だった、正真正銘の)

 そんな新たな発見も、目の前の問題を欠片も解決してくれない。


「うーん」

 フィルは馴染みのない廊下の真ん中に佇んで、眉を顰めたまま、進むべきか戻るべきか考える。

(森なら引き返すべき。けど、ここは王都の真ん中、しかも建物の中、迷ったからって死ぬことはさすがにないだろうし)

「……よし」

 今日は新たな始まりの日、ここは景気よく前に進むべきに違いない――楽観一杯にそう結論付けて足を踏み出したところで、背後に人の気配を感じて、再度振り返った。

 

「あ、やっぱり。君、試験の時の131番の人でしょう?」

 奇妙に角ばった細長い空間の向こうから、茶色の瞳をキラキラさせて駆け寄ってくるのは、同じ年頃の可愛い顔をした少年。彼は息を切らせてフィルの側までやって来て、窓横に立ち止まった。

「僕、ヘンリック・バードナー。試験の時、君の横の横に居たんだ」

 彼は少し目じりの下がった大きめの瞳を緩ませ、満面の笑みを浮かべて、手を差し出してきた。

「あ、と…」

 突然のことで驚いたものの、彼の人懐っこい笑みにつられて思わずその手を握り返し、返答の為に口を開く。

「フィリ……ザ、ディラン」

 けれど、言葉はスムーズに出てこなかった。初対面の自己紹介だというのにつかえてしまい、しかも小さくなってしまった声に、「え」とヘンリックが聞き返してくる。

 誤魔化すように笑って、再度「フィル・ディラン」とはっきり言い直した。

(そう、“ディラン”――これからの私だ)

 

 

 部屋への道は未だに見当がつかないけれど、既に昼時をすぎているとあって、ヘンリックに誘われて先に食堂に行くことにした。手にしている荷物も、二、三泊の旅行程度の量しかなかったので、さほど苦にならない。

 部屋探しは少しぐらい大丈夫だと思うことにした。部屋が見つからないといったって、日が暮れるまで後六時間以上あるのだし、いざとなれば迷った洞窟を抜ける方法――決めた方の壁沿いに延々と歩く。

 ちなみにヘンリックは既に入室を済ませたそうで、同室兼相方は気の良さそうな三十代半ばの人らしい。

 同室の人と相方――自分にも出来るであろう、まだ見ぬその存在に想いを馳せると自然と眉根が寄ってしまう。

(いい人だといいな。けど、私の場合、それ以外にも色々あるし……)

 部屋探しを後回しにしてしまったのも、実はそれを先送りにしたいという願望故なのかもしれないと思いついて、フィルは横の彼に悟られないように自嘲を零した。

 

 食堂への道すがら、食事の配膳を待つために並んでいる最中、席について食事を始めてから、とにかくヘンリックはよくしゃべった。

 王都に隣接するトーベ地方の裕福な商家の出であること、兄二人姉三人の兄弟の末っ子であること、試験に際してはこちらで伯父夫婦の家に滞在していたこと、 隊商を率いる際に身を守る必要性から剣を習い始めてはまったこと、メアリーというかわいい幼馴染が王都にいて、その子と頻繁に会えるようになったこと、などなど他にもいっぱい。

 既に昼時を過ぎているからだろう、人気の少ない、広めの食堂に彼の少し幼さを残した声が響いては散っていく。

 対するフィルは相槌を打つので精一杯だった。元々話すのはあまり得意じゃない上に、見知らぬ相手。しかも変化した環境と、抱える秘密に緊張していることもあって、彼に圧倒されてしまう。

 

(あの舌、よくもつれもせずに動くなあ……)

 感心に逃避がまざって、匙を動かす手が知らぬ間に止まった。そうして、フィルは彼をまじまじと見つめてしまっていたらしい。

「……」

 目の前のヘンリックの可愛い顔が少し赤くなった。

「ええと、その、ごめん。いつもはそんなにしゃべるわけじゃなくって、いや、しゃべるけどこれほどじゃないというか。ただ試験の時のフィルすごかったから、友達になれてちょっと興奮しちゃって」

「友達……」

(私が、か?)

 その言葉に一瞬呆然とし、そして、フィルは唐突に理解した。

(そうか、もう自由、なんだ。だって友達って……)

 

 そう自覚して歓喜が体中に走り抜けるのと同時に、足元が揺れた気がする。

 ――デハ、ワタシハイッタイナニ?

 『役に立たない』『出て行け、名乗るな』

 冷たい目と声、自由の代償に失ったものの数々が頭を過ぎった。


「…フィル?」

 無表情に沈黙したフィルを訝ったのだろう、ヘンリックが心配そうな顔をした。

「……」

 今日はじめて会った、以前の自分を知らない相手だ。

 それだけじゃない。迷ってばかりで目的地にたどり着けない見知らぬ場所と、まだ見ぬ相方、明日を無事に迎えられるかもわからない状況……。

 

(それでも自由になって新たに得たものとこれから得るものがあるはず――)

 残りわずかとなったスープ皿に降ろしていた、匙を握る右手にフィルはぎゅっと力を込める。

(先はわからない。けど、それを選んだのは私だ。じゃあ、覚悟を決めて頑張るしかないじゃないか)

 それから、大きく息を吸い込み、決意を込めてにっと笑ってみた。そうしたら本当に大丈夫になれる気がする、と言ったのは祖父だったけれど、本当にその通り。

 フィルは頭半分下のヘンリックに改めて視線を合わせる。そして、「ありがとう、ヘンリック」と告げれば、再び赤くなった彼はそこで初めて口を閉じた。


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