第21話 決意

 

 あの後、涙の止まらないシュエルを宥めながらもルシフェルは再度、己の気持ちを伝えた。

 

 シュエルを愛する気持ちに偽りはないし、自ら堕天を選んだことに後悔もないのだと。

 シュエルに対して何かを強要するつもりはないが、どうか自分を選んで欲しいと。


 そう願えばシュエルは涙ながらに頷き、ルシフェルに抱きつく。

 一糸纏わぬ柔らかい肢体に眩暈がしそうだった。


 (この、裸でいても平気な癖はやめさせないとな……)


 シュエルをエデンの外に出すにあたっての、一番の懸念がそれだ。

 

 あまりにもひとりの時間が長すぎたせいなのか、その辺りには無頓着なシュエルをどう説得したものかとしばらくは頭を悩ませることになる。

 ひとまず、その日はなんとか自身の欲情を抑え込んで彼女を着替えさせた。

 

 (ただでさえ欲の制御が効きづらいのだから本当に勘弁してほしい)

 

 ルシフェルの心知らず、シュエルは彼が持ってきた食事を食べながらきょとんとしている。


 「……とにかく、エデンここが主の目に触れにくい場所だといってもあまり時間はない。もしかしたら急に事態が動くことになるかもしれないから、それだけは覚悟しておいてくれ」

 

 幼い時からエデンで暮らしているシュエルは地の果てどころか天使達が生活する界下かいかさえまともに知らない。

 不安は残るが、ここで待っている事しか出来ない以上、できるのは心構えくらいだ。

 

 分かったと頷いて、シュエルはデザートを口にする。

 

 細部まで話を詰めていないからと詳しくは教えてもらえなかったが、どうやらルシフェルと同じ天使のバアルも一緒に堕天することになったらしい。

 

 何がどうなって天使が二人も堕天することになったのかは全然意味不明だが、シュエルがバアルに雷を落とす機会がどうやらそう遠くない未来に訪れそうで安心した。

 

 そう、シュエルは忘れていない。

 

 バアルかれがルシフェルにを教えた張本人だという事を。

 

 「絶対に許さないんだから」

 「……?何がだ?」

 「大丈夫、ルシフェルの事じゃないの」

 

 小さく呟いた声にルシフェルが首を傾げたが、最後の一口を飲み込んでシュエルは何でもないと誤魔化した。

 

「でも、ずっと外に行きたいとは思ってはいたけど……いざ出るってなるとちょっと寂しい気もするね」

 

 少しだけ切なげに笑ったシュエルの頬をルシフェルはそっと撫でる。

 施設での時間以外をこのエデンでひとりで生きてきたのだからそれはそうだろうし、堕天という答えを出したからと言ってその恐怖が拭い去られるわけではない。


 今だってふたりの間にはエデンの門という物理的な距離もある。

 

 ずっとそばにいてやれるわけではないのだ。

 

 「寂しくさせて、すまない」

 「……うんん。大丈夫」

 

 ちらりと、シュエルが時間を確認する。

 ルシフェルはもうに帰さねばならない。

 

 「ね、門まで送っていい?」

 「……だが」

 

 シュエルはルシフェルといる時は飛ぶよりも、少しでも長く一緒にいたいと歩くことを好む。

 一応、自覚はあるので気遣わしげにルシフェルが視線を向けるが、当のシュエルはふるふると頭を振って微笑んだ。

 

 

 「送りたい気分なの」

 




 

 飛べば数十秒もかからぬエデンの門に向かってシュエルとルシフェルはお互いの手を繋ぎゆっくりと歩く。

 他愛のない話をしながら、寄り添えるこの時が何よりも幸せだったから。

 

 愛を知り、愛を乞い、愛を返して罪を重ねた二人には、安息の地などないのかもしれない。

 それでも尚、二人はこの手を離さないと何度も確かめるように誓った。

 

 「シュエル」

 

 幸せな時間はあっという間に終わり、目の前にはそびえ立つエデンの門がせまる。

 ここから先は、今のシュエルには越えることが出来ない。

 

 泣き虫になってしまったシュエルを心配したようにルシフェルは頬を撫でた。

 

 「帰れるか?」

 「ふふ、大丈夫。帰りはちゃんと飛んで帰るから」

 

 名残惜しくもあるが、先ほどまでの悲壮感はない。

 

 (夢とは違うの)


 それだけでシュエルはこの囚われた檻エデンで待っていられる。

 

 「私は大丈夫。だからルシフェルも気を付けて。……無理はしないで」

 

 エデンにいる自分よりも彼の方がよっぽど危険なのだ。

 彼に何かあったらそれこそ耐えられない。

 

 あぁと返事を返し、ルシフェルはシュエルを抱き寄せてそっと髪に口づけた。

 門を開けてしまえば、もう触れ合うことはできないから。

 

 「いってらっしゃい、ルシフェル」


 彼の帰る場所が、いつだって自分であるように。

 

 そうシュエルが柔らかく微笑めば、一瞬目を見張ったルシフェルが僅かに表情を緩めた。

 

 「……あぁ、行ってくる」

 

 ぎぃぃぃとエデンの門が開かれ、ばさりとシュエルは空に舞い上がる。

 

 小さくなるルシフェルの姿を空から見送り、門が閉じ切る前にシュエルとルシフェルは視線だけで微笑んだ。


 


 「おーおールシフェルさま~、遅いお帰りでー」

 「えぇえぇバアル様、全くです。職務に忠実なのはルシフェル様の良いところですが、最近は過労死するんじゃないかという心配さえ覚えますよこのわたくしめは」

 「……」

 

 即座に踵を返してエデンに帰りたくなった。

 なんて面倒な二人が揃っているんだ。

 

 しかも一人は我がもの顔でソファーにふんぞり返って酒を飲んでるし、もう一人は自分で茶を入れながら来客用の菓子をばりばりと貪っている。

 

 「なんでお前たちが揃いに揃ってまた居るんだ……」

 

 どっと疲れた。

 見ているだけで疲れるとかどんだけなんだ。

 

 階段をひとかけで舞い降りて、ルシフェルは視線を問題児共に向ける。

 

 (嫌な予感しかしない……)

 

 表情が明らかに企んでいる。

 今すぐシュエルの元に帰りたい。

 

 そんなルシフェルの様子にバアルは二本目の葡萄酒に手を付けながら笑った。

 

 「そんな顔すんなよ~いくらシュエル様の傍から離れて寂しいからって」

 「お前……!」

 

 思わず体が戦闘態勢になった。

 ここには事情を知らないサタナエルがいるのだ。

 

 ルシフェルの険のこもった声に即座に反応したのはそのサタナエル本人だった。

 

 「問題ございませんよ、ルシフェル様。事情はバアル様よりお伺いしております。いやはやこのサタナエル、我が上司がこんな無謀なチャレンジャーとはいざ知らずに、からかうキッカケを逃して大変残念に思っております。あぁ惜しいことをいたしました」

 

 とぽとぽとぽと新しいお茶が注がれる。

 香りを堪能してから一口飲むとサタナエルはにっこりとルシフェルに微笑んだ。

 

 「あぁちなみにわたくしめも共に堕天することにいたしました。今後ともよろしくお願いいたしますね、再雇用の際には是非御贔屓に」

 「…………」

 

 あぁ……頭痛が痛い、とはこの事だろうか。

 

 勿論言葉が可笑しいというのは重々に理解しているが、そうとしか言い表せない疲労感にルシフェルは深い深いため息をつく。

 なんだか急に馬鹿らしくなって戦闘態勢を崩してソファーに身を沈めた。

 

 けらけらとバアルが腹を抱えて笑う。

 

 「くはは、驚いたか?だって時間がないから俺が色々手回ししてやったの!ついでにサヤリヤとアメンもね、あいつらも堕天するって」

 「…………なんでそんなに人数が増えてるんだ……しかも上位天使ばかり」

 

 智天使のサヤリヤと彼の副官のアメン、自分の副官のサタナエルだってアメンと同じ座天使だ。

 

 それに天使の自分とバアル。

 揃いに揃って全員が上位天使とはいったいどういう事だ。大丈夫か、この神の国くには。

 

 ルシフェルの考えを読み取ったようにバアルは葡萄酒をあおりながら笑う。

 

 「ま、しょーがないよねぇ。階級が上がれば上がるほどこの天界の歪さに気付くんだからさ。……心配しなくてもみんな自分の為に堕天する」

 

 お前はきっかけにすぎないよ、とどこかフォローめいた事を言われたが果たして本当にそうだろうか。

 

 うんうん頷きながらサタナエルが続ける。

 

 「そうでございますよ。皆、どこか天界の歪さは感じておりました。ただ、どうしてもその一歩が踏み出せずにいるところに我らの天使長自ら先陣をきって下さったのです!あぁ!さすがはルシフェル様です!ちなみにわたくしめの可愛い子羊たちは全員連れて行きますのでその辺りも作戦に加えていただければ幸いでございます。えぇえぇ!」

 

 いつになく流暢に喋る副官にもうルシフェルは何も言わなかった。

 

 彼の子羊とは恐らく、彼が築いたハーレムの面々の事だろう。

 どれだけの人数がいるかは知らないが、サタナエルは愛する子羊たちを囲っている。

 

 つまり、本当に自分やシュエルはただのきっかけのようだった。

 

 (つまりなんだ。俺達が堕天するのを皮切りに一緒に堕ちてしまおうと。そういう事か)

 

 もう勝手に好きにしてほしい。

 自分とシュエルのあの罪の葛藤はなんだったのか。

 

 喉を鳴らしながら笑うバアルが思い出したようにルシフェルに向き合う。

 

 「んでな、お前に会ってもらいたい奴がいるんだけど」

 「……なんだ、まだ増えるのか?」

 

 エデンの門の影響か、この城内も神の威光は届きにくいという事は天使以外にはあまり知られてない。

 それ以外にも天使が特別加護を施した……例えばバアルの執務室なども実は目が届きにくい場所だったりする。

 

 こんな危険な話を堂々と出来るのは天使やエデンの門番という役職が何より神から信頼されているという事他ならなかったが、今はそれを逆手にとってただの密会所となっていた。

 

 疲れた顔色のルシフェルにいやいやと人差し指を振る。

 

 「会わせたいのは今回の最大の協力者だよ」

 「……?」

 

 一体誰だ、と視線を向けるルシフェルにバアルはニヤリとした。

 

 これぞ満を持してってやつだ。

 

 「――サタネル」

 「!」

 

 思わずルシフェルもサタナエルも目を見張った。

 その穢れた名は天界中の天使が知っている。

 

 神への恭順を選ばずに追放された元天使。

 

 今はそう……確か別の名で呼ばれていたはずだ。


 

 堕天使・サタンと――

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