第7話 名前をよんで
瞬く間に月日が過ぎ、季節は秋から冬へと変わった。
山の冬は寒く、暖炉からパチパチと薪の
朱里は読書をする手を止めて窓の外に視線を向けると、小さくため息をついた。
――あれから約二カ月。
義父でもある林田とは毎週末会っているが、あの日以来、零とは会うことはなく、”すき”を自覚した朱里の気持ちは宙ぶらりんになっている。
「朱里様~」
声をかけてきたのは美海だった。
ひょこっと扉から顔を出した美海は何か嬉しそうな
「なあに?美海。何かいいことあった?」
「うふふ、朱里様にとっても良いことですよ~」
そう笑うと朱里のそばに寄り、そっと耳打ちした。
「今、書庫に零様がいらっしゃってます」
「!」
その一声に朱里は驚いたように顔を跳ね上げた。
にこにことした美海はついでに……と続け
「本日は堂珍が夕方まで出かけているので大丈夫です。今、この屋敷には私達と零様しかいません」
何かあったらお知らせするから行ってください、と美海が言った。
それとほぼ同時に朱里はお礼を言って廊下に飛び出す。
(零……!)
二階の朱里の私室から、ちょうど反対側の一階に位置する書庫までは中々の距離がある。
はしたないかもしれないけど、誰もいないことをいい事に朱里は階段を駆け下りた。
(あぁもう!遠い!)
もどかしさに内心文句が溢れる。
こういう時に限ってどうしてこんなにも遠く感じるのだろう?
目の前に書庫の重厚な扉が見えた時には、屋敷内だというのにすっかり息が上がってしまっていた。
はやる気持ちを抑えて呼吸を整えてから、恐る恐るドアノブに手をかける。
ギィィっと少し重めのドアを開ければ、奥の書棚の前にいた零と目が合った。
「……あ」
「……」
実にどれぐらいぶりだろう?
冬服になっても相も変わらず零は全身真っ黒で、でもそれにさえドキッとしてしまう。
(って違う違う!そうじゃなくて!)
「……ぇと、れ――」
「髪、すごいことになってるぞ」
「へ!?」
声をかけようとして逆に声をかけられた。
(髪!?あっ走ったから!?)
慌てて朱里は髪の毛を押さえる。
そう、ほぼ全力疾走でここまで来たのだ。
あわあわと髪を撫でつける朱里に、零は手にした本を置いて近づいてきた。
「というか、屋敷内を走るな」
「!?なんで知ってるの?」
「あれだけ走っていたら聞こえる」
「~~~~っ!」
書庫にいる零に聞こえるほど騒がしかっただろうか。これにはさすがの朱里も顔を赤らめる。
軽く呆れたように目を細めた零は、そっと指を伸ばし朱里の前髪を整えてくれた。
「ぅ……ぁ……ありがとう……」
もういやだ。
穴があったら入りたい。
「……そんなに急いで何か用があったのか」
「えぇと、用というか……」
零に会いたかった、とはさすがに言えなかった。
まだ片手分をちょっと過ぎたくらいしか会ったことはないし、なんなら会話なんてほぼ朱里が一方的に話しているだけで、成立しているかも怪しいものだ。
目線を上げて零を見上げる。
最後に会った時、零は林田に殴られた。でも、時間が経った今は、見る限りは痕もないし普段の彼そのものだ。
「良かった」
「……何がだ?」
「怪我、心配してたの。音葉達は大丈夫って言ってくれたんだけど。……しばらく会えなかったから、心配してた」
朱里の言葉に一瞬考えた零だったが、あぁと以前の記憶を思い出した。
朱里と会話したのを堂珍に報告された時だ。
「あれくらい問題ない。あの男の癇癪は日常茶飯事だ。……お前が気にすることじゃない」
それは零なりの慰めだったのだが、言われた朱里は何故かとても不服そうな顔をしていた。
「……なんだ?」
聞けば、むぅっと朱里が上目遣いで睨んでくる。
どうやらかなりご立腹らしい。
「朱里」
「……は?」
「だから”お前”じゃない!朱里!」
何いきなりこの女は自分の名前を言ってくるのだろう?と思ったらそういう事か。
確か初対面の時もそんなことを言われた気がする。
そんな零の心知らずに、朱里は両手を腰に当てて怒っていた。
「私だけ零の名前呼んでるなんて、なんか不公平!」
「不公平って……じゃあ別に呼ばなくてもいい」
「それは嫌!」
「……なんなんだ」
「零が名前で呼べって言った!」
「別に呼べとは言ってない。
「でも名前でいいって言ってくれたもの!」
「…………」
あぁそうだ、やっと思い出した。
この娘は顔に似合わず、我の強い猪突猛進型の性格だった。
それに気付いた零ははぁと小さくため息をつく。
朱里がわずかに
(もしかして、呆れられた……?)
名前を呼んでほしかっただけなのに、彼を困らせてしまっただろうか……。
そう思うとさっきまでの怒りは空気の抜けた風船のように急激に
しょんぼりと朱里は肩を落とした。
「
「……!」
零の声が頭上から聞こえる。
呼ばれるまま顔を上げれば漆黒の瞳と視線がぶつかった。
「……なんだ?まだ不満か?」
抑揚はないけれど、ほんの少しだけ宥めるような零の声。
びっくりしたまま朱里は固まってしまった。
(呼んでくれた……)
零が、自分の名前を呼んでくれた。
そうだ。出会ってから今日まで、名前を呼ばれたことは一度もないのだ。
(どうしよう……)
彼にとってはなんて事ないのかもしれない。
だけど、朱里にとっては違う。
(すごく、すごくうれしい)
あぁ、実感がじわじわと湧いてきて、なんともくすぐったくも温かい気持ちになる。
零が、すきな人が自分の名前を呼んでくれたのだと思うと、自然と気持ちが笑顔に溢れた。
「ありがとう」
「……ッ」
これ以上ないというほど、とろとろに蕩けた微笑み。
あまりにも嬉しそうなその顔に、さすがの零も一瞬、表情を固まらせた。
無意識に朱里に伸ばしそうになった手を、ぐっと抑え込んで背を向ける。
「大げさだ」
そう、大げさだ。ただ名前を呼んだだけで。
「嬉しいから、いいの」
えへへと背中越しに朱里が笑う。
体中から幸せが溢れだしているようだ。
(……これは、駄目だろう)
”気になる”と蓋をした気持ちの箱が激しく脈打つのが分かった。
駄目だ。
この感情は、駄目だ。
朱里は、あの男の
遠くない未来に、母と同じ道を辿る、あの男の
そう自分で考えて、頭に焼き切れそうな感情が走る。
(これは……本当に駄目だな)
朱里をふりかえ見れば、まだ嬉しそうな表情でいた。
この笑顔があと一年もしないうちに汚される。あの実父の手によって。
そう思うだけで零の中の”気になる”という感情の蓋がどこかに飛んで行った気がした。
――ああ、駄目だ。
先ほどは耐えられたはずの感情に、零はそっと朱里の頬に手を寄せる。
「へ!?」
「……あの男には気をつけろ」
「あ、あ、あの男?」
「父だ。……
「……ぁ」
柔らかい、ほんのりと熱を帯びた朱里の頬。
満面の笑みだった朱里の顔にすっと影が落ちた。
「まともな奴が、記憶喪失で倒れていた身元不明の人間に諸手をあげると思うか?」
「…………」
「保護をするのはまだ分かる。だが、記憶がなくなる以前の生活だってあるんだから、戸籍がないとはいえ、何処かに家族や知り合いがいるかもしれないこの状況で……こんな、幽閉するような真似なんて普通はしないだろう」
零の温かさを頬に感じるのに、朱里の顔は浮かない。
こんな顔をさせたい訳じゃない。
だが、どうしても言わずにはいられなかった。
さらりと朱里の髪を一束だけ触れてから零は手を離す。
「あの男は、完全に常軌を逸してる」
「……うん」
俯いた朱里もその異常さには薄々気が付いていた。
最初は混乱していたし、優しくしてくれた林田と家族のような関係になれたならいいなっと思った、その程度の軽い気持ちだったのだ。
”父”のように思ってくれたらいい、と。
自分も朱里の事を”娘”として思っている、とあの人はそう言った。
だからどうか”お父様”と呼んでおくれと……
ぎゅっと耐えるように小さな拳を握りしめ、朱里は俯いた。
「わたしは、この先どうなるの……?」
迷子の子供の様に朱里が呟く。
零には朱里の未来を口にすることが出来ず、目線を逸らした。
「しばらくは奴の”ごっこ遊び”に付き合っていればあの男も満足だろう」
「しばらくって……どれくらい?」
「……」
揺れ動く翡翠の瞳。
諦めたように零はまっすぐ朱里を見た。
「一年だ」
「……いちねん。じゃあ私は一年後……」
どうなるの?と聞きかけた声が
何とも言えない零の表情に、朱里はそれ以上何も聞くことが出来ずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます