第29話 文字と言葉

 病院食というものは味気ない品ばかりだと思っていた。でも実際は、味が少しだけ薄いだけで美味しいし、デザートだってある。量が少ないのが欠点だが、不満は無い。記憶が戻って退院したら、ラーメンを食べに行こう。




 食事と健診を済ませた後、昨日に引き続きトレーニングルームで運動を開始した。昨日と同じく、テニスボールを壁に打って、返すの繰り返しを昼飯まで続ける。ぶっ通しで過剰に体に負荷を掛けるのではなく、適度に休みながら。




 午前十一時を過ぎ、リハビリを切り上げ、病室に戻っていった。廊下を歩いていると、同じく病室に戻ろうとしていた同室の女性と出くわした。今日も杖を使わずに廊下を歩いている。リハビリをする空間があるのに、どうしてこの人は廊下でリハビリをしているのだろうか。




 女性を通り過ぎて歩いていくと、後ろから床を手で叩いた音が聴こえてきた。振り向くと、女性は床に倒れていて、俺に視線を送っていた。しばらく様子をうかがっていると、女性はワザとらしく苦しみだした。昨日の今日で、すっかり味を占めてる。




 病室まで女性を背負い、彼女のベッドに運び込んだ。彼女は足を伸ばして横になると、笑みを浮かべて俺を見ていた。昨日見た儚い笑顔ではなく、悪戯気な笑み。完全に俺を便利な乗り物として見ている。




 俺は自分のベッドに飛び込み、見舞い品のリンゴを一つ手に取って噛り付き、昼飯が運ばれて来るのを待った。


       


「……あ……の」




「ん?」




「な……ま……え……」




 おそらく名前を聞きたいのだろう。しかし、彼女は言葉を発するだけでも難しい程に体が弱っている。彼女が言い終わるまで待っていては、日が暮れてしまう。




 俺は紙とペンを彼女に渡し、椅子を彼女のベッドの傍に置いて座った。




「話したい事があるなら文字にしろ。声に出すよりは楽だろ?」




 リンゴを齧りながら、彼女が書き終わるのを待った。文字を書く手は震え、汚い字が並べられていくが、読めない程じゃない。それに文字の汚さなら、俺だって彼女の事を悪く言えない程に汚い。  




 彼女は書き終わった自分の文を一度確認した後、口に出したい言葉を書いた紙を俺に見せてきた。




【名前を教えてください】




「名前ね。俺は相馬響。お前は?」




 俺からの質問に、彼女は書いた文の下に矢印を付け、言葉を続けた。




【篠田真理】




「篠田さんって呼べばいい? 真理さんって呼べばいい? それともさん付け無しの名字か名前?」




【お好きにどうぞ】




「じゃあ篠田で。よろしく」




【よろしく。相馬】




「お前、なんで杖使って廊下を歩かないんだ? 初めて会った時は、お前杖使ってたよな?」




【お前?】




「はいはい、お前じゃなくて篠田ね。で、杖を使わない理由は?」




 篠田は言葉を書き終えると、少し躊躇った後、俺に見せてきた。




【嫌になった】




「嫌になったって、杖を使う事が?」




【みんな杖を使わずに歩いてる】




「お前は違うだろ。杖が無きゃ、歩く事もままならないじゃないか」




【それでも、杖を使わずに歩きたい】




 大人しそうな見た目の割に、意外とアクティブなんだな。体は弱っていても、心は健康そのものだから、杖を使う事に抵抗が出るのだろう。患っている病気は違うが、鈍った体を早く戻そうとしている俺も同じようなものだ。現に今も、自分の動きの悪さに嫌悪感すら抱いている。




【相馬は何で入院してるの?】




「見て分かんない?」




【分かんないから聞いてる】




「記憶喪失。それから急激な身体能力の低下。まぁ、俺からしたら記憶喪失はオマケだ」




【大変だね。家族はお見舞いに来ないの? メイドさんなら見かけたけど】




「いや、あれは別の奴のメイドだ。家族は……どうだろうな。人物関係の記憶がこれっぽっちも残っていないから、名前も思い出せない」




【思い出せたらいいね】




「そうだな。思い出せたらいいな」




 どうしてだろう。家族に関する記憶を思い出したくない自分がいる。俺は家族に関する何かを恐れているのか?




 篠田と会話を交わしていると、病室の扉が開いた。現れたのは、かなり若い容姿の看護婦。昼飯を乗せた台車を押して入って来ると、先に篠田の方に配膳していく。




「相馬さんも自分のベッドに戻って」




「え? あ、はい」




 この病院で何人かの職員と挨拶交じりの会話をした事はあるが、命令口調で話してくる人は初めてだ。それに俺に向けてきたあの眼。他人に向けるものでも、友人に向けるものでもない。自分の子供に向けるような母の眼だった。俺はどうしてそう思ってるのだろうか。




 大人しく自分のベッドに戻り、配膳されていく昼飯を眺めていく。今日は随分と量が多く盛られているな。全体的に色も濃いし、肉と魚ばかりで野菜の類が無い。




「早く思い出せるといいね」




 看護婦は俺の頬から唇の先を指で撫でると、病室から出ていった。随分とフレンドリーな看護婦もいたもんだ。若さ故の接し方とでも言うべきか。




 箸を持ち、並べられた昼飯の中から味噌汁を最初に口にした。




「……は? 美味過ぎだろ」




 これ以上の美味い料理が無いと思える程に、本当に美味しい。味噌汁だけでなく、他の品も美味く、昔から食べ慣れた美味しさがあった。

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