花は散りゆく

第28話 リハビリ

 糖分過剰摂取によって、俺は記憶喪失になった。時間が経てば治る記憶喪失らしいが、具体的な期間は分からない。一応は病気だから、病気が治るまでは病院で生活する事になった。つまり、無期限監禁生活の始まりだ。




 だが、俺は植物のように花が咲くまでジッとしているつもりはない。この病院には体を動かせるトレーニングルームがある。今の俺の体は鉛で固められたような感じで、まるで役に立たない。記憶が戻るまでの間、ここで体を動かして、記憶を失う前の状態に体を戻す。




 テニスボールを壁に打ち、跳ね返って来たテニスボールをまた壁に打ち返す。これを手足が動かなくなるまで永遠と続ける。単純だが、跳ね返って来る軌道を変えれば飽きが来ない。




「すっかり元気になられましたね」




 いつの間にか、視界の端にルミナスがいた。声を掛けられるまで気配すら感じられなかった。 




「どのくらいこれを続けているのですか?」




「二時間ちょっと!」




「休憩を挟まずにですか? 凄いじゃないですか。体のキレも、球を打つ力も全力をキープ出来ていますよ」




「全然だ! たった二時間で、息が上がってきている! 俺はこの程度じゃない!」




「疲れが出始めたのなら、少し休憩なされては? 体を動かし続けるだけでは、かえって怪我のもととなります。人間の体は、単一なものではございませんから」




「……そうか。なら、少しだけ休もう」




 跳ね返って来たボールを掴み、壁に寄りかかった。体の動きを止めてみると、動いていた時よりも疲れが顕著に表れてきた。今の自分の体たらくぶりが情けない。本来の能力を引き出せず、ぐずっているみたいだ。




「どうです? 休む事も大事だと思いませんか?」




「……ここまで疲労してたのに、気付かなかった」




「体を動かしている時と、止めた時の感覚は別ですからね。よろしければ、こちらをお召し上がりになられますか?」




 ルミナスは手に持っていた袋からタッパーを取り出した。封を開けると、中から強烈な蜂蜜臭が漂い、見ると、臭いの正体はレモンの蜂蜜漬け。六個のレモンの輪切りに対し、タッパーの許容限界まで蜂蜜が入っている。これでは蜂蜜のレモン添えだ。




 渡されたフォークで一つ口にしてみると、ネットリとした蜂蜜の甘さが口の中に広がった。そこに、レモンの存在など無い。




「お味はどうですか?」




「……ゲロ甘い」




「それは良かったです! 疲れた時は甘い物が必要ですからね!」




「ならレモンも仲間に入れてあげてよ。本来レモンが主役だろ」




 ようやく一つ食べ終え、ここに来る前に買っておいた水で口の中の甘さを流そうとした。普通の水を買ったはずなのに、蜂蜜の味がする。何の役にも立たない。確か自販機にブラックコーヒーがあったはず。それに賭けるしかない。




 もう一つ食わせようとしてくるルミナスを押しのけ、俺は自販機が置いてある休憩所に向かった。目当てのブラックコーヒーを選び、ゴクゴクと飲んでいくと、少しだけ口の甘さが軽減された。




「なるほど。俺が記憶を失った原因は、あの女か」




 あのレモンの蜂蜜漬けでかなりの甘さだったが、口の中が気持ち悪くなった程度。つまり、記憶を失う前の俺が口にしたのは、あれ以上の甘さか。記憶を失うのも無理は無い。




 口の中の甘さを完全に消す為に、二本目のコーヒーを買おうとした時、廊下の方で何かが倒れる音を耳にした。




 廊下に出てみると、休憩所のすぐ近くで女性が倒れていた。彼女は、俺と同じ病室にいる女性だった。初めて顔を合わせた時に使っていた杖は何処にも無く、ここまで杖無しで歩いてきたようだ。




「大丈夫か?」




 俺が手を差し伸べると、彼女は少し迷った後、ゆっくりと手を伸ばしてきた。潰れないように慎重に手を掴むと、改めて彼女の細さを実感した。このまま手を引っ張れば、骨が外れてしまう恐れがあって、引っ張ろうにも引っ張れない。




 いつまでも手を握ったままの俺を困惑の表情を浮かべる彼女に、俺は提案してみた。




「抱き起こしていい?」


 


 彼女は目を大きく見開くと、軽蔑の眼差しを向けてきた。言った後に、自分でもデリカシーが無いと思った。これでは彼女の体に触れたい変態みたいじゃないか。




 俺を信用出来なくなってか、彼女は俺の手を振り解いた。しかし、本当に体が弱いのか、振り解いた勢いに負けて、再び床に倒れてしまった。自力で立ち上がろうとするが、彼女の細い両腕では自身の体を起き上がらせる事も出来ない。




 見ていられなくなり、彼女の了承も得ずに、正面から彼女の体を抱きしめた。あまり強くしめないように気を付け、彼女のペースに合わせて自分の体を上にあげていく。立ち上がるだけでも時間が掛かる彼女に、俺は勝手に悲しくなった。




 ゆっくりと病室まで肩を貸して歩き、彼女のベッドまで無事に送り届けた。俺は自分の体が鉛で固められたようだと思っていたが、彼女の場合は鉛そのものだ。足を一歩前に出すだけでも、苦悶の表情を浮かべていた。




「それじゃ、俺は戻ります」




「……あ」




「ん?」




「あ……り……と」




 一文字言葉にするだけで必死になっているところから察するに、彼女は、声が上手く出せないようだ。言い終えた彼女の表情は、ついさっきまでの苦悶の表情とは裏腹に、穏やかで、儚げな笑顔を浮かべていた。




 体を動かしに戻ろうとしていたが、彼女の姿を見て、俺はここから離れられなくなった。

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