2話 うつらうつら
「ふぁぁ〜 眠い……」
まんじりともせず、笹尾は日課の散歩をしていた。
まだ彼が働いていた頃は日曜だけの習慣、いわば週慣であったが、辞表を出してからは日課となった。
朝の10時から11時くらいの散歩はとても気持ちがいい。夏は流石にもうちょっと早い方が良いだろうが、冬は物憂げに浸るのには満ち足りすぎている。
時折すれ違う顔見知りのお元気なご老体の方々に挨拶をしながら、適当に公園を周回する。
ここは昨夜の団地近くの小さな公園とは違い、広く自然豊かであり遊歩道が整備されている。健康を気にする人間にとっては非常に有益な場所だ。
笹尾がこう油売のおじさんをしている間にも世界は、社会は動いている。皆時間に追われて、満員電車に乗り、窮屈な思いをしながら出勤したかと思えば、新人の頃は上司に理不尽に怒鳴られ、上司になれば部下からパワハラトレーディングカードゲームを仕掛けられる。
上手く生きる。
それがたいそう難しい世である。
笹尾は少し曇りのある空を見上げた。
そういえば昼からは1時間か2時間か、雨が降るらしい。80パーセント。
その20パーセントに賭けてみるかな、と笹尾は近くのベンチに腰を掛けた。
それなりの池が彼の目に映る。カモが逢い引きをしている。鴨肉が鴨肉を増やそうとしているのだ。
いやしかし、多分に無粋な物言いか。
閑話休題、笹尾は頭の中でため息をついた。
笹尾はそんな社会を生きた自分と、そんな社会を生きる勇者達を尊敬すると同時に、憐れんでいた。
諦めてしまえば楽だというこそ楽だが、諦めるのには勇気がいる。明日以降ををめちゃくちゃにしてしまってもいいという責任の放棄という名前の泥水を一滴残らず飲み込まなければならない。
だからこそ人は背水だと思い込んでその身を削る。自分の居場所を守ろうとする。御託じゃなく、悲しい事実である。人は皆賢いわけでもなければ、兎のように視野がとてつもなく広い訳でもないのだから。
「……ねむ……いな……」
笹尾は自分のつまらない思考に飽き飽きとしていた。
深まれば深まるほど、昨日恥ずかしさで眠れなかった反動がくる。
昨夜は警官に粛々と説教をされ、あの酔っぱらいと猫のように睨み合ったあと、大地を踏み抜いて帰った。
スーツはもう着る気が無いから、袋に詰め込んで押し入れの奥に放り込み、適当に風呂に入って、適当に好きなお笑い番組を見て、気障にお気に入りのクラシックを聞いて眠りについた。ボレロが20周した所までは覚えている。それで起きたのは旧出勤時間なのだから、自分の体は面白くない。
目を瞑ってみると、風が体を撫でていくのが鮮明になる。
ああ、外で昼寝する人の気持ちが分かる。
幸い貴重品は持っていない。盗まれる物があるとすれば、高校生時代から着ている緑色のこのジャージだけだ。
笹尾は行儀悪くベンチに横になった。
そういえば高校の時に今と同じジャージで、スカートを覗こうとベンチに横になった事があった。
男3人、犬1匹。代わり代わりにやったのだが、笹尾の番にはスパッツを履いた女子しか通らなかった。
今思えばバカも通せばいつしかモラルを失わせる依存性を持っている事が分かる。
「……あいつら元気にしてるかな……わん吉は死んだよ……21歳……大往生すぎた……」
自分の腕を枕にして、体を縮こまらせる。
ひゅーひゅーと風に吹かれては股間すらも縮まりこんで消えてしまいそうになるが、仕事無き今、睡眠欲は本来の強さを放つ。
泥のように眠るとはこの事だろう。
笹尾の瞼は閉じられた。
――――
「――――」
笹尾の微睡みに優しい声色が差された。
遠い場所から聞こえてくるその低くも美しい音色に、瞼は彼の言うことを効かない。
こんなのは大学生の時に彼女に膝枕をして貰った時以来じゃないか。起き抜けに生きた人間の声がすると言うのは心地がいい。
故に自分には勿体ない人だった。彼女の選択は間違っていないのである。
「――――」
体が揺さぶられて少しずつ意識がハッキリしてくる。
今は過去では無い。残酷な事実だ。
雨の音と、それが遮られる音。どうやら傘を差してもらっているらしい。
「起きてください。風邪引きますよー。」
瞼を開くとそこには黒のワンピースにフードを着こなす女が笹尾を見下げていた。
何故か昨夜のあの酔っぱらいと顔が瓜二つである。
とりあえずビニール傘越しに空を見る。雨が降っていて暗い。
「あ、起きましたね。良かったぁ……どうしたんですか?体、悪くないですか?」
いやはや、よくよく見てみれば昨夜の女よりも美人なのである。目鼻立ちこそ似ているが、声もそうだが態度もいい、つまり質が違う。
笹尾は思った。他人の空似か姉妹もしくはそれに近しい間柄だろう。
あの近縁にこんな良き方がいらっしゃるわけがなし、恐らく他人の空似だ。
笹尾はジャージの襟を正すと、情けない震えた声を出した。
「ひあ、はい、あの。あり、がと、うご」
笹尾の唇は紫に、酷く震えていた。冬に雨ざらしだったのだから、体が凍えてしまうのだ。
はっはっと、息を吸って吐いては言葉を捻り出すが発音が怪しい。
「あ、冷えちゃったんですね……足までは傘じゃカバー出来ませんでしたから……失礼します。」
笹尾のミイラのように強ばりクロスされた腕に、生暖かい感触が這う。
あの女性は何を思ったか、見知らぬ男の手を握る等という男たらしな行動に出たのだ。
「……?!」
「ふふ……僕、昔から体温が高いんです。」
笹尾は不覚にも、いや、当然だ。キュンとさせられたのである。「僕」という情報などノイズにも満たず、ただ笹尾の空虚で虚ろな心に太陽が差した。何せボクという一人称に性別の壁は無いのだから。
荒れ果てた大地には太陽を見つめる向日葵が無数に生えて、ゴッホの精錬された1画のように彩られていく。
もしもこれが少年漫画であったのなら、これは第1話のヒロインとの出会いだ。しかし、彼女はまだしも自分は三十路を数年後に控えた男だ。
そんな男が空いた左手で自身の顔を隠している光景は彼女にどう映るのだろうか。
「……雨の音って心地がいいですよね。」
「このまま話をされるんですかっ……!」
笹尾は何とか素早く体を起こしてベンチに座り直した。
ビシャ濡れになったジャージと荒れた髪が笹尾を捨て犬のような風体へと加速させていた。
「……お隣失礼しますね。」
女性は濡れたベンチに、濡れるのも気にせずに座り込んだ。
その横顔にはとても長いまつ毛と、艶やかな肌、そして茶色混ざりの黒い綺麗な目が長い黒髪を引き立てる。どこか儚いその表情に、笹尾の心臓の鼓動は遅くなる事を知らない。
「あ!あのぅ、あらがとうごぜぇました!」
「いえ、濡れちゃってますから……僕が来たのはついさっきですし。むしろ席を譲ってくれて、こちらこそありがとうございます。」
ニッコリと女性は優しく笑みを一瞬だけ見せた。
笹尾はこんな時分に散歩か、と引っかかっりかけたが、自身の事もあり雨に流れゆく。
「いや、俺がマナー悪いだけなんで……」
「こんな所で昼寝だなんて何か思い詰めることでもありましたか?行きずりの僕ですから、お話、良かったら聞かせてください。」
「ま……眩しい……貴方は自分の尊さを理解していませんよ……」
「……僕は可愛く、美人にって努力してますから。でも、褒めて貰えて嬉しいです。」
最早言わずもがなである、天使の笑みは笹尾をポカンとさせるには余りにも破壊力がありすぎた。
端的に表現すれば、笹尾は彼女に恋をした。
いってしまえば笹尾はちょろい男である。容姿のいい人間が優しければすぐにその背を追うようになる。
社会人になってからはそのなりを潜めていたが、もう彼の心を束縛していた憎き会社はいない。
ぽっと顔を赤くした笹尾は、池を見る女性の顔を見つめたままフリーズする。
雨の波紋が広がって、音がするのに静かで鮮やかな空間が2人の間には確かにあった。
「なんだか雰囲気のいいカフェみたいで……すよね!」
笹尾は言葉の途中で唾を飲んだ。
ガタガタと肩を揺らす彼はさながら産まれたばかりの子鹿である。
「……そうなんですか?僕、余りそういった綺麗な場所には縁がなくて……」
「カフェが……綺麗な場所ですか?」
「変でしょうか?」
「いえ、俺は余りそういう表現をしないので。珍しいな、と。お気になさらず。素敵だと思いますよ!その感性。」
笹尾にとってカフェは待ち時間を潰し、強がってブラックコーヒーを飲む場所であった。
ある時、カフェで放心状態でコーヒーを飲んで吹き出して出禁を食らったのも最早セピア色の思い出である。
それもあって彼にとってカフェは楽しい場所なのだ。
「感性……ありがとうございます。大事にします。」
「……?」
笹尾はキョトンと顔を曲げそうになって、意識的に我慢した。
細かいすり合わせなど今はどうでもいい。今優先すべき事はまた出会う予定を立てたり、連絡先をなんとか交換してもらうことである。
「あ、それならこの雨は……なんて例えるんですか?」
「そうですね……やっぱり心地が良くて……自分が嫌いで嫌になります。言葉にするなら、人をダメにする優しい毒でしょうか。」
笹尾はシンパシーと類は友を呼ぶという言葉を始めて強く意識した。今、池を見つめて微笑んでいる女性は笹尾の精神状態と似た所があるらしい。
彼は運命を感じずには居られなかった。
「なんだかロマンチックですね……」
「ふふ……本気で言ってます?」
「俺は嘘をこんな顔でつけるほど器用じゃないので。」
笹尾は自信満々に自身最大のドヤ顔をしていた。
口角は上がり、眉はチェックマークの様に鋭角に近く、寒さに震えながらも女性の目を見つめた。
「……かっこいいですね……あの人もそれだけ思い切りが良かったらな……」
「あの人?」
「僕が……今この世で1番愛してる人です。」
「……へ?」
「ふふっ……僕には双子の姉が居るんです。その人の事ですよ。」
女性は妖しく目を輝かせた。
もう笹尾の下心はすっかり手の平で滑稽に転がされている。その宣言に他ならなかった。
「俺はそういうのもありだと思います。誰にも迷惑かけてませんし。」
黙々と棒読みをする笹尾。
そも笹尾は1枚上手、と表すのは適切ではないだろう。中々に掴み所の薄い人間であった。
彼の頭の中には百合の花を女体化したアダムとイヴが大事そうに抱えている荘厳な画が浮かんでいた。
「いやいや!僕、あの人の事……そういうんじゃないんで……家族として……」
慌てて弁解をしながら立ち上がる女性。傘が揺れて2人の肩に雨がかかる。
笹尾も立ち上がり傘へ手を伸ばした。
「俺に持たせて貰えませんか?」
少し顔を赤らめながら「ありがとうございます」と女性は笹尾にビニール傘の主導権を譲った。
俯く彼女と自身の背は驚くべき事にあまり違いがなかった。ヒールでも履かれれば自分などちんまりしてしまうだろう。自身の身長はまあ高いという訳では無い。つまり彼女の背が高い。きっと立ち姿は凛々しく綺麗なのだろう。
2人は一息はいて、またベンチに体重を掛けた。
先程よりも距離は少し近い。
雨足は少しずつ弱まりつつあった。
心地の良い沈黙の後、口を先に開けたのは女性だった。
「……貴方といると肩の荷が少し軽くなるような気がします。」
「きっとそれは俺に悩みが無いからかもですね。」
「悩みが……ない?」
「ええ。好き勝手に生きて、曇り空を見て眠くなったからってその場で昼寝をする。貴方は俺の事を心配してくれましたが、この状況は因果応報の1つに過ぎない。俺にとって今日と明日の境界は眠りを通して辛うじて感じているだけに過ぎない。だから悩みが無くて、楽しいとは違うかもしれませんが、幸せです。」
笹尾は長々と冗長に語った事を後悔した。
女性はキョトンと口を開けて、何を言おうか考えている。
それを見かねた笹尾は思わず口を開く。
「要は最後の幸せです。が本心ですよ。だから貴方の」
「貴方は幸せなんて言うけれど、笑ってない。それは今も貴方が悩みの中でもがき苦しんでいるからじゃないんでしょうか?」
食い気味に女性は笹尾の言葉を遮った。
彼女の考えは聞き覚えがある、というより考え憶えといおう。似た議題を頭の中で取り扱った事が何度もあった。でもその度に頭が出す答えは
「生き物ですから。」
「……?」
笹尾が呟くように放った言葉は、弱くなった雨足を潜り抜けて女性の耳へと入った。
「生きてたら考えは止まりませんからね。このモヤモヤ感もまた幸せの1部だと俺は信じてみたいです。」
幸せは1度手に入れれば失うのが怖くなる。
そんな割れ物だ。
「悩みも幸せの1部……ですか?」
「きっと貴方の悩みも不幸せじゃない。幸せになる為に必要な事なんだと思います。」
「……なんだか懺悔室みたいですねっ……」
女性はぷぷぷと可愛らしく口を抑えた。
「へぇ〜 懺悔室に行ったことがあるんですか?どんな感じなんですか?気になります!」
「いえ、ドラマで見ただけなので……想像です。」
雨が止んで、光が差し始める。
女性は続ける。
「でも……僕、ちょっと救われました。」
彼女は先程の自分のようにビニール傘越しに晴れた空を見上げている。
雨宿りは終わりらしい。
目の前で女性は立ち上がると、笹尾の方へと会釈をした。
「僕……頑張ってみます!待ってろよ!えんちゃん!」
「応援してますから。」
女性は公園を後にしていく。その立ち姿はとても凛々しく綺麗だった。
笹尾はビニール傘を握りしめたまま、達成感を噛み締める。なにせ憧れの人とお近付きになれたのだから。
「……傘返してないし、名前聞いてないし……」
笹尾の達成感の余韻は押し寄せた波の如く、すぐにさらわれていった。
そうしてただ彼の頭には、日課を欠かさないようにしようという決意が立てられたのであった。
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