エゴになれたのなら

オオバ

1話 ささくれがいたい


 特段田舎でもなければ都会でもない場所で、特段豪華でも慎ましやかでもない生活を送っていた一般的な会社員「笹尾」はある日突然、漠然とした不安に襲われ、それがまたあくる日自殺願望へと変わった。


「……死んでみせたら慰みもんだ。」


 笹尾は親指の大きなささくれを力いっぱいに引き抜くと、唯一残された良心で人に出来るだけ迷惑のかけない死に方を模索し始めた。

 最初に手をつけたのはネット。しかしネットの情報だけで清水の舞台から飛び降りるのは、いささか準備不足に思えたので医療書やサスペンス小説等を仕事も時間も忘れ読みふけた。

 曰く、世界に死に方とその作法は、空想を除いたとて人の数だけあった。


 笹尾には自分の状況が酷く楽しく思えた。

 

 死にたいと思う人間が他の人間の明日を気にするだなんて、まるで生きていたいと思っているようじゃないか。全てを今すぐにでも投げ出したいと思う人間ならば、思いつく限りの方法ですぐに死んでみるだろう。

 痛みすらも捨てられぬ人間に自死などという勇気のいる儀式は出来ない。

 そんな矛盾と真摯に向き合う事が楽しかった。

 俗世で生きる限りは、誰もが明日を考え倫理という首輪を自身につけ飼い慣らそうとする。そんな脆き首輪を欲望と浅ましさは垂れ歪む水滴の如く錆び付かせていく。


 笹尾は一瞬の痛みや、長々と気持ちの悪くなるような今際の際を想像しては心踊らずには居られない。

 

 ある意味その瞬間こそが世に対するアンチテーゼであり、生きた意味であり、死ぬ理由なのだから。

 

 いつしか彼は気づいた。自分が一生懸命になれるのは自死を考える事だったのだと。

 生まれたのは死ぬためだったのだと。


「いきものはしねばいつかちりになる。おそかれはやかれちりになる。」


 笹尾はそんなポエムにも満たない言葉をうわ言のように、1人広くなった部屋で呟きながら、へへへ、と至福の笑みを零す。

 

 溺れゆく人も深き水の底に着く頃には、意識は朦朧としており全てを諦めざるおえない。いっそ気持ちのいいものだ。

 

 そんな生活が1ヶ月続いた。

 ある日笹尾は自分の通帳を見た。

 そこからはごっそり1ヶ月分のお金が減っていた。


 別に自暴自棄になった訳ではない。彼は普通に生活をしていたのだからそれは当然である訳だが、笹尾は狐疑を脳に寄せたが、それはすぐに解消された。


「こんなにも楽しいと、時が早いな。」


 死にたいと思う事が生きる希望。


 笹尾はそう誰が見る訳でもない遺書に文言を追加した。

世間一般的になら自分の親にでも慰みの言葉を遺すべきだろうが、笹尾の親は片方は死に、片方は蒸発済みである。学生以来の親しい友人との繋がりもいつしか切れていた。


 いくらメールが簡単に送れる時代だといえど、長く便りのない人間にいきなり軽口を叩きに行ける非常識は少ない。天性の人たらしともなれば、誰にどうしようが自分の手札で切り抜けれようか。しかし、笹尾のような中の下のコミュニュケーション能力では、投資詐欺の疑いをかけられるのがオチだろう。


 思えば何時だろうか?笑いながら話をしたのは。人の手を握ったのは?人の作る温かいご飯を食べたのは、


 その日笹尾は眉間に皺を寄せたまま、近所のファミレスへと訪れた。

 スーツに身を包み、ボサボサの頭、手には1輪の花を持って、他の人々から浮くような姿で子供のように赤いソースのかかったハンバーグを10分で平らげた。


 胸ポケットのあたりにソースがこぼれてしまったが、それもまた何かしらの赤いバッジをつけているようで笹尾には誇らしくて仕方がなかった。

 

 叫びそうになる自分を抑えながら、ドリンクバーを3回ほど行き来した後、彼は身を震わせながら暗い外の空を眺めるべく店を後にした。


 とても美味しかった。


 そのまま近くのコンビニの喫煙所でタバコを吸おうと、胸ポケットに手をやったが、そこにあるのは空になった箱だけだった。

 なんという不運、なんという管理不足。


 こんな小さな不足が積み重なって、人は自分の無力さに涙する。人はバカに出来ても、自分をバカにして嗤う事は出来ぬ。面白くもない自虐は犬すら食わぬ。


 他者がタバコを美味しそうに吸う姿を見て「体に悪いぞ」と負け惜しみを頭の中でいうことしか出来ない。

 そんな負け犬たる笹尾は生唾を重々しく呑んだ。


 何もお金が無い訳では無い。コンビニは目の前にあるのだから入って購入すればいいだけである。

 しかし、そうしてしまえば笹尾自身は喫煙所で初めてタバコを切らしていると気づいたマヌケである事が真実になってしまう。

 努力を口に出せばしょーもなくなってしまうように、マヌケは行動に出さない方がいい。人は生きる限りボロは出るのだから少ない方がいいのだ。


 笹尾はまるで誰かを待つかのように暗いままのスマホへ指でタップダンスを踊っては、独り言で「あーもう」だとか「迷ってんのかよ」だとか他の喫煙者に聞こえるか聞こえないかで3回呟いてから、不完全燃焼で帰路についた。


 ――――


「あんのクソセクハラ上司ぶっ殺してやらぁ!!」


 突然笹尾の耳に怒号が入ってきた。彼は肩をビクンと震わせ「うわ」と小さく声に出す。

 声が聞こえてきたのは公園からだった。

 家はもう目の前、街頭には蛾を筆頭に虫が光を求めて吸い付いている。


 ここの治安はどうなっているんだ。


 笹尾はそう思った。自分といい、朝の駅の吐瀉物の数量といい、今の男勝りな女性の声といい、子供が安心して暮らせぬ魑魅魍魎の巣窟では無いか。


せめて死ぬ前に多少は地域貢献をしてみようか。


 そんな気まぐれで笹尾は公園な中へと足を運ぶ。

 簡素な公園唯一の遊具であるブランコに大声女はすすり泣いていていた。


「あんのこんちくしょう!!……あ」


 OL風の女は笹尾を視界に捉えると顔を赤らめた。

 別に笹尾がアイドルのように容姿が良かったり、人を惑わす色香を漂わせている訳では無い。

 あんな醜態を誰かに聞かれていたとなれば、常人なら恥ずかしくて顔を紅潮させるだろう。


 そう顔を俯かせた女に笹尾はどう対応すればいいのか分からなかった。

 笹尾は色男でもなければ口の上手い詐欺師でもない。この状況に小粋なジョークは吐けない。


「随分とお元気な咆哮でしたね。でもその様は不審者の様ですからやめた方がいいですよ。」


 笹尾はお元気はいかがですか?といったテンションで女に声をかけた。

 初めましてにしてはブサイクで、不審者を諌めるには不自然で、女性をナンパするには不適切な対応。

 小粋なジョークは吐けずとも、つまらないジョークなら吐けるのだ。


女はそんなよく分からない男の顔を何度か見て視線を落とした後、人をバカにした笑みを見せた。


「ケチャップ零してますよ……」


「これはそういうのではなく、こういう柄なんです。」


「はい?」


「ほら、議員バッジですとか、弁護士バッジのようにオシャレでしょうよ。」


「その類のバッジはオシャレじゃないと思うんですけど……」


 笹尾と女の間には沈黙が流れる。

 笹尾の表情は苦悶の表情へと変貌を遂げ、女の顔はそんな不審者を怪しむように変わっていく。

 状況は逆転してしまったのだ。


 そんな中、笹尾は胸ポケットに花を挿して、女の隣のブランコに腰を掛けた。

女はそれに反応してブランコから飛んで離れて、柵を跨いで彼を見据えた。


「……不審者は貴方の方じゃないですか?」


「さぁ?どうでしょう。少なくとも怒号を響かせる不審者は消えたようですけれど。」


 女は顔を歪ませて口をへの字にした。

 それは怒りの表れで、眉間には怪訝ではなく先程までのような怒りで皺を作る。


「嫌味ですかっ!」


「そうでしょうね。」


「貴方性格悪くないですか!!」


「仰る通りです。声抑えた方がいいですよ。」


「うるさい!!」


 笹尾は心底後悔した。

 面倒事というものは出来るだけ背負わないのが、日々の生活において安寧を得るための最重要項。

 背負うものが重ければ苦しいというのはランドセルで習うことだ。

 今の彼の行いはそれに反しており、笹尾自身の性格からしても非常に逆効果な事は彼も認識していたはずである。やはり死への渇望が人をいかようにするのだろうか。


 女が喚き散らかすのを冷ややかに笹尾は見る。


「あっなったこっそ!!不審者だよっ!!失礼な!!あたしは……あたしは……」


 笹尾は勢いを失っていく女を見てようやく気づく。

 彼女は恥ずかしさだけで顔を赤らめていたのでは無い。お酒が入っている。

 スマホで時刻を見てみればもう既に9時を回っていた。だとすれば早上がり酔っぱらいが居てもおかしくはないだろう。

 むしろ定時退社どころか仕事が早く終わって解散になった所を引き止められて、彼女の叫びに出てくる登場人物なるクソセクハラ上司を含む飲み会に誘われた末かもしれない。そうともなればこの情緒のなさにも説明が付けられる。


「うぇぇ……」


 女の目からは大粒の涙が覗いた。

 あの涙にも飲んだお酒が含まれているのかと思えば、笑いも出そうになったが、そこまで笹尾は不謹慎な男ではない。

 彼女は膝から崩れ落ちてその場に座り込んだ。もう化粧は先程までの喚きで落ちたようで、よく見てみれば彼女の涙の行き先には黒き線が伝っていた。

 例えるなら、マイナー所の部族が崇める神様のご尊顔のようだった。

 歪み、汚れ、怒張。


「うぇぇとかおいくつなんですか。」


 笹尾の半笑い言葉は女に当然の怒りを抱かせる。

 怒りとよく分からない感情が混ざり合えば、汚い黒色になっていくのは当然である。


「じゃああなたこそ!いい年こいてスーツに物零すとか恥ずかしいんじゃないですかぁ?!」


「だからこれはオシャレだと」


「すっくなくともお!あたしから見ればとんでもなくみっともないですけどね!場末の酔っぱらいメンヘラ女にバカにされる気持ちはどうだよ!?」


「ご自身の状況を詳しく理解されてるんですね。」


「うがぁぁ!!うざっ!!」


 夜が深まる公園で酔っぱらいと屁理屈男の狂想曲が繰り広げられる。その様子はまるで下手くそで激しめのロックにも聞こえる。不協和音である。


「なんであたしに話しかけできたんですか!?妖怪バッジの人は!あ!どーせその花を押し返されて彼女か彼氏か知らんが振られたんでしょうね!」


「貴方みたいな酔っぱらいがこのまま居ると子供達が遊べないじゃないですか。そんな事実はあ」


「は?もう夜ですけど?真っ暗ですけど!」


 女の当然の指摘に笹尾は頭を抱えた。


 思えば全てがめちゃくちゃな生活をしていた訳では無いが、起きる時間と寝る時間以外はめちゃくちゃな1ヶ月を送っていたように思う。昼でも明かりをつけていることもあれば、夜に暗闇をひたすらに見つめていた事もある。かといって世界は彼を中心に回っているわけもない。


「……あーっと……ほら夜に」


「夜に遊ばせる親なんていねーよ!!ばーか!!ばーか!!あたしよりばーか!!やろっ!!」


 女は笹尾に人差し指を指したまま喚き散らかした。

 その目からは結果的に涙は消え、完全に怒りに染まりきってある。


 笹尾は突然の敗北の苦渋を自分の唇に刻む。

 プライドが高い彼は自分の失態をなんとか覆い隠す事に人生の貴重な時間を使ってしまう、所謂努力の仕方を間違えている人間である。

 そんな彼にはこの敗北は許せるものでは無かった。

 ましてや酔っぱらいに負けるなど老い先が無い予定とはいえ、一生の恥である。


「…………ぐ」


「ほらなんも言い返せない!あたしの勝ちよ!!論破!!」


 「論議に勝ち負けとかなくないですか?」


「論議にすらみたってませーん!!これはいわば酔っぱらいとバカのデスマッチですー!ほうら!かかってこいやー!!」


 あいやーとバラエティで見るようなカンフーポーズをする女。普段の笹尾ならバカバカしいと一蹴こそ出来ようが、今宵ばかりは彼女のバカは笹尾を貶める為のテトロドトキシンになりえる。

 

 名も知らぬ酔っぱらいといえど此度の狼藉はあまりに度し難い。笹尾は静かに怒りの炎を燃やしていた。

 元々何をしに来たのかも忘れ、女に食らいつこうと無い頭を働かせた。


「カス」


「は?」


「酒カス」


「バカ」


「バカとカスを合わせるとお酒の神様になりますね。やっぱりお酒は」


「はー??酒は精神安定剤なんですけどー??適当な事言わないで貰えますー??」


 不毛な争いは引くに引けぬ人間が2人以上揃った時に起こるこの世の生き地獄である。それに閻魔大王は少なくともこの世に存在しないのだから、止められる存在はない。

 無為徒食な男と酔っぱらいの女は時間が経つのも気にせずに言い争いを続けた。

 街頭の蛾がどこかへ飛んでいく頃になると、2人の元に頭からズボンまで青づくめの男が割って入った。


「ちょっとちょっと、みんな迷惑してるから。君たち知り合い?痴話?」


 笹尾の頭には自死すら出来ぬ鳥かごがよぎり、女の酔いは気持ちの悪くなるような冷め方をした。

 トドのつまるところ、この男は警官である。

 公園でかなりの時間を浪費して会話の打ちっぱなしをしていたのだから、近隣住民の我慢の緒が切れるのも無理は無い。


「……」


「……」


 笹尾と女は示し合わせをした訳でもないのに、お互いの顔を見合わせ、同じ言葉を放った。


「「この人が悪いです。」」


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る