家庭科室の扉を開けた菜絵は、そこに柚希の姿がないことを確認して肩を落とした。後輩たちのミシンの音が止まると、菜絵が二人に確認するよりも早く「柚希先輩なら来ていませんよ」と向居むかい広則ひろのりの低い声が教えた。

「一学期は来てくれたのに、どうして来なくなってしまったのかな」

「大学受験を控えた三年生は任意参加ですし」

「夏休みにも会えなかったのに」

「元気出して菜絵先輩!」

 天谷あまたに道佳みちかが朗らかな声と共にチョコを押し付けに来る。

「ありがとう、道佳ちゃん」

 愁いを隠せなかった菜絵は、チョコを口にすると少しばかり笑顔を取り戻した。

「気になるなら連絡してみてはいかがでしょう」

「もうしたよ。行けたら行くって返ってきた」

「わあ、来てくれなさそうですねえ」

 どうすることもできないと分かった後輩たちは個々のテーブルに戻り、遠慮なくミシンを再稼働させる。菜絵も準備室からミシンを運び出し、長い髪を束ねると作りかけのワンピースを広げた。

 洋裁部は一年生の広則と道佳、二年生の菜絵、そして三年生の柚希の四人で活動していた。服のみならず色々作りたい人は大抵手芸部に入る。今年は三人分くらいの元気を持っている道佳と、二人分くらいの圧がある大柄な広則が入ったことで、一年前と比べたらにぎやかになったと菜絵は錯覚している。

 断続的なミシンの音が響く。一人ひとつずつテーブルを占拠しているが、アイロンは共有のため別テーブルに置かれている。それを使うために立ち上がる気配が時折、空気を揺らす。行ったり来たり。ミシンの始まりと終わりも行ったり来たり。

 放課後の喧騒は遠く、足音は家庭科室まで届かずに消えてしまう。柚希から「行かない」という言葉を受け取らない限り、そろそろ来るかもしれないという希望を菜絵は捨てられなかった。

 

 初めて柚希と顔を合わせた日のことを菜絵はよく覚えている。

 洋裁部の顧問になったばかりの先生に活動日と場所を確認した菜絵は、脇目も振らず家庭科室に訪れた。扉の向こうは明るい春の陽気に満ちていた。

 一人で作業していた当時二年生の柚希は、裁縫の手を止めて真っ直ぐに菜絵を見た。

 瞬きも挨拶も忘れた柚希の丸い目は深く澄んでいた。

「はじめまして、洋裁部はこちらですか?」

 柚希の返事があるまで時が止まったように静かだった。ようやく入部希望者として認識してもらった菜絵は、案内を受けて柚希の正面に座った。

「二年の八代柚希です。三年生が卒業してしまって、今は一人で活動しています。洋裁部は週に一回、この家庭科室に集まって各々好きな服を作っていますが……服を仕立てたことはありますか?」

「すみません、ないです。でも、ワンピースを作ってみたいんです。去年の文化祭で展示されていた『チョコレート色のワンピース』に憧れて……こちらの先輩が作ったものかと思い、ここに来ました」

「チョコレート色の、ワンピース」

「はい。襟と袖口が白くて、長袖はふんわりしていて、スカートの部分が裾に向かってゆったりと広がっている上品な……」

 具体的に思い出そうと菜絵は頭をひねる。袖口に付いていたはずの、キラリと光る飾りボタンの色。そんな細かい情報はいらないか、などと考えていた菜絵は、柚希の返事が遅いことに気がつかなかった。

 中学三年生のときに訪れた文化祭で、菜絵はそのワンピースに一目惚れした。小さな用紙に部活名と『チョコレート色のワンピース』というタイトルが丸っこい字で書かれている以外に作者の情報はなかった。

 もしこの高校に入ったらきっと洋裁部に入ろう、と菜絵はチョコレート色のワンピースに誓った。

 グラウンドの喧騒が一瞬近づいて、我に返った菜絵は本当に洋裁部で合っていたのかと一抹の不安を覚えた。

「こちらの先輩が作ったのではないとか……?」

 柚希の瞳が揺れた。

「あのワンピースは」

 歯切れが悪いものの菜絵が説明したワンピースを知っている様子である。

 柚希は伏し目がちに答えた。

「私が、作った」

 硬い声だった。柚希の手元にある淡い緑色の美しい生地は握りしめられ、皺が寄っている。

 憧れのワンピースを作ったという先輩を前にした菜絵は、喜びのあまり前のめりに言った。

「私、一からがんばります。どうか先輩のおそばで洋服を作らせてください」

 緩慢に顔を上げた柚希の眼差しは、きらめく春の光を湛えているかのようだった。

 

 袖下と脇を縫い終えた菜絵は、いつものひと息つく場所がないことを思いながら後輩たちを眺めた。作業がひと段落したとき、音を立てずにそっと柚希のそばに座り、丁寧な手元や真剣な横顔を見る時間が菜絵の休憩であり、特別でもあった。

「そういえば」

 道佳の声がのびのびと響く。

「柚希先輩の教室には行ったんですか?」

 問いと視線を受けて、菜絵は首を横に振る。

「行ってない。特に用事があるわけでもないから」

「あるんですよ、用事は!」

 確信に満ちた道佳の人差し指が菜絵を捉える。ちらりと様子を見た広則が「指さしちゃだめだよ道佳さん」と優しく伝えたところ、道佳の手はひらかれ、くるりと手の平が上を向いた。観客に手を差し伸べる舞台スターのような構えである。

「菜絵先輩には、柚希先輩に会うという重大な用事があるんです! そうでしょう。それでも会いに行きづらいというなら」

 道佳は駆けてくると、菜絵の手にハッカ飴を握らせた。

「かわいい後輩から飴を預かっているという用事を追加します!」

 広則は「走ると危ないよ」と注意してから菜絵を見てほほえんだ。

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