管理人さん

 守口さんが以前住んでいたアパートでのことだ。


 はっきり言って建っているのが不思議なくらいのボロボロのアパートだった。しかしそこで初めての一人暮らしをするには十分だった。当時の話なので今ではすっかり取り壊されたが、そこでの思い出を未だに覚えているそうだ。


「初めて奇妙な経験をしたのは風邪をひいた日でしたね。意識が朦朧としたまま暑い部屋で布団に寝転んで治るのを待ってましたよ。当時は解熱剤でさえ結構高いと思う程度には貧乏でしたから」


 そうしてぼーっと意識がなくなりそうな中、早く日が沈んで少しでも涼しくならないものかと思いながら寝込んでいた。


 意識がぼんやりとしている時、額に何か妙に冷たい者が触れた。氷ともまた違う、何か優しい冷たさだった。そしてハッと気が付いた頃にはすっかり体調が良くなっていた。あの時触れたものが何だったのかと思いつつ、熱に浮かされてみた幻覚だろうかと思った。それにしてはやけにリアルな感触が残っていたが……


 またある日、なんとなく腹が減ったのでコロッケを作ろうとしていた。店で買うより安いと思って作ろうとしたのだが、思った以上に面倒くさかった。肉の入っていない野菜のみのコロッケに衣をつけてあげようとしたところで電話が鳴った。


 誰からだと思いつつ受話器を上げると昔の友人が近くに来ているし会わないかと言う誘いだった。あいにく都合が悪かったのでやんわり断って電話で旧交を温めた。


 そうして少ししてから気が付いたのだが、コロッケを作ろうとしていたので油を火にかけっぱなしだった。慌てて急ぎだから悪いとだけ言い、キッチンに走った。しかし危惧していたようなことはなく、ガスコンロの火はすっかり消えていた。当時はまだまだ自動オフの安全装置など無く、火をつけるとガスが続く限り燃え続けるものだった。


 火をつけた記憶ははっきりしているのだが、消した記憶はさっぱり無い。どうしてだろうと思いつつ、無意識で切ったのだろうと納得をした。


 ある日は部屋の風呂を入れていたのだが、湯を入れている途中で寝てしまった。携帯電話も無いような時代でタイマーなどかけていなかった。目が覚めたら青ざめて風呂場に向かったのだが、そこにはきちんと湯船にちょうどいいところまで湯がはってあった。


 こうも奇妙な事が続くと何とも疑いたくなるのだが、悪いことが会ったわけでは無いのでそのまま生活していた。


 ある日、近所を歩いていた時、一人のおじいさんに話しかけられた。


「アンタ、あそこに住んでおるんか? あそこは快適だろう? ワシもお世話になったもんだよ」


 なんとも含みのある発言だったので話を聞いた。その老人の話によると、あのアパートは戦前に田舎から出てきた夫婦が建てて、それから管理をしていたそうだが、戦争になると夫は徴兵されて、残念なことに奥さんは未亡人になったそうだ。しかしあのアパートの家賃収入でなんとか生活が出来ていたという。奥さんは入居者の面倒見が良く、非常に好評だったそうだ。


 建物が古いが、それでもしっかりと掃除が行き届いていたりと、建て直すことはなかったが、奥さんが亡くなるまで立派に彼女に生活費を与えてくれていたそうだ。


 その話を聞いてなんとなく時々起きる不始末の世話を誰がやっているのか分かってしまった。入居の時には不動産屋で借りたが、その管理人さんは出会っていない。話に効く存命ではないそうだが……。だからなんとなくだが居心地の良いアパートであることに納得してしまった。


 結局、そのアパートを出るまで平穏無事な生活が送れていた。


 今住んでいるマンションでは、確かに快適ではあるのだが、時折無性にあの人間味のあるアパートを懐かしむことがあるそうだ。

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