雨ではない日

 木曽さんの体験と後悔だそうだ。


 まだ小学生だった頃、私が住んでいたのは大きな川の近くだったが、アレが起きるまでは気にしたこともない普通の川だったそうだ。


 学校を終え、友達とキャッチボールをする約束をして帰宅した。当時はまだ野球が大人気のスポーツで、毎晩のようにテレビ中継をされていた。


 そのため、結構な人数が自分用のグローブを持っていた。そんなわけで友人とキャッチボールをしようと約束をして早々に帰宅した。


 ちゃちゃっと宿題を片付ける。漢字の書き取りにどれほど意味があるのだろうと思いながら、同じ漢字を延々と書いていった。今だから言えるが手書きできる必要がどれほどあるのかは当時考えられていなかった。まだパソコンのIMEがあまり賢くなかった頃の話だ。


 宿題を一気に片付けたらみんなの待っている公園に向かった。自分がそれほど出来る方だとは思っていないので、友人たちはもう遊んでいるだろうと思いつつ、玄関でグローブを持って出ていく。


 そうして近くの公園に行くと、案の定みんなキャッチボールをしていた。自分も混ぜてくれと言って一人とボールを投げ合った。当時はボール遊びを公園でしようと何も言われなかった。まだおおらかな時代だったということになる。


「いくぞ」


「おー」


 キャッチボールをしながら適当に学校の愚痴を言い合って笑った。宿題が多いなんていうその場のほぼ全員が思っていたことを言いながら盛り上がる。他愛のない会話をしていると、ついそれに気を取られて暴投をしてしまった。


 手からすっぽ抜けたボールは明後日の方向に飛んでいき、公園の隅にある地蔵に当たった。


「何やってんだよ」


「悪い悪い」


 そう言いながらボールを取りにいった。そこでそう言えばこの地蔵は慰霊碑も兼ねてこのあたりの洪水被害者の鎮魂のために建てられたのだと口を酸っぱくしていっている教師がいたのを思いだした。ただ、そんなことは話半分で聞いていたので誰が言ったかまでは覚えていない。


 ボールを取ろうとすると、その地蔵が、地蔵の割にはむすっとした顔をしているのが目に入った。なぜ地蔵を不機嫌な顔で作ったのかは釈然としないが、ボールを拾ってすぐにキャッチボールを再開した。


 そうして夕暮れまで遊んでみんなそれぞれ帰っていった。自宅に帰ると夕食を食べ、湯船にザブンと浸かって烏の行水をした後にすぐに寝ることにした。自室に布団を敷いて寝ようとすると、そこで急に雨音がすごい勢いで鳴り始めた。そのときはもう寝る前だったので明日は晴れていると良いなと思いながら寝た。


 その夢の中では洪水で川が氾濫し、周囲が水浸しになっている様子を見た。水に一人、また一人と飲み込まれていく。ただそれを見ているだけしか出来ないのでその映像をもどかしい気持ちのまま見ていた。


 翌朝起きると、季節を考慮しても尋常ではない汗をかいていた。夢なのは間違いないが、気分の良いものではない。


 朝食を食べている時に母親に咎めるような口調で声をかけられた。


「あんた、別に川で遊ぶなとは言わないけど、せめて靴が濡れたなら言ってちょうだい、昨日の夜に気が付いたから新聞紙を詰めといたけど、気づかなかったらまだ乾いてないのよ」


 そんな小言を言われたのだが心当たりがないので相槌で理解した振りをしてから朝食を食べ終わると玄関に行った。そこには確かに新聞紙を詰められた靴がおいてある。触って見ると湿っぽいが履けないわけでもない。何故濡れたのかはともかく、その靴を履いて登校したのだが、その途中にあるあの地蔵が関係しているような気がしてならなかった。あそこに行くと少しだけ公園に入ってあの地蔵を見てみた。昨日見た時は確かに気難しそうな顔をしていたのだが、今度はきちんと普通の地蔵と同じような表情になっていた。


 そう言えば昔はこのあたりの治水工事で死者が何人も出たのだと授業で郷土研究をした時に教えてもらったような気がする。だから祟られても良いというわけではないのだが、もう少し神社やお寺に敬意を払おうとそのときに思い、今でも地蔵を見かけると拝んでいる。

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