【短編】アプリコットに慈愛の眼差しを
ぐらたんのすけ
アプリコットに慈愛の眼差しを
「私、桜が嫌いなんだ」
杏子は桜を眺めながら言った。
その横顔は白く半透明で、今にも消えてしまいそうなほど淡い輪郭だった。
唇と頬の赤みだけがぼんやりと宙に浮いている。
「どうして?こんなに綺麗なのに」
「こんなに綺麗だから、かな」
手を後ろで組みながら、彼女は優しく視線を落とした。
私は杏子が何を言いたいのかハッキリとは分からなかった。
けれどそれでいいのかなと、また何となく思うのだった。
杏子は昔から花の名前に詳しかった。
自分の名前に”杏”が入っているというのもあったのかも知れない。
よく何も知らない私に、花のことを教えてくれた。
「これはね、ヒメオドリコっていうの。可愛いでしょ?あまいんだよこれ」
紫の小さく可愛らしい花を千切って咥えながら微笑むのだ。
「ほら、鈴音もどうぞ?」
私の掌にもその小さな花を置く。
見様見真似で私も花の蜜を吸ってみる。
それは微かな甘味を私の味蕾に届けたが、本当に一瞬のことでよく分からなかった。
仄かな苦みだけを残すそれを私はペッと地面に吐き出す。
「あんまり甘くないね」
と言うと
「ふふっ、それハズレだったかもね」
とくすぐったく笑うのだ。
そう、とにかくよく笑う子だったのだ。
私が何を言っても、彼女にどんな災難が降りかかろうと、エヘヘの一言で済ませてしまうような楽観的性格。
そんな彼女が、唯一と言ってもいいほど、表情を曇らせるタイミングがあった。
それが、桜を見ているときだった。
私は桜が大好きだったから、その理由が分からなくて困惑したものだ。
私がどうして、と聞くのだが、杏子ははぐらかすばかりで困った表情しか見せてくれなかった。
そしてやはり桜を見ているときだけは、どこか遠いところへ視線をやって、不安げに瞳を震わせるのだ。
濡れた膜の表面は今にも決壊しそうで、こっちまで悲しくなってしまう。
だから私は杏子に理由を聞くことはなくなった。
これが何年か前の、まだ私達がランドセルを背負っている頃の話。
今ではもう、杏子とは二度と会えない。
杏子は一週間前に死んだ。先天性の持病が急に悪化したらしい。
元々虚弱体質で芯の細かった彼女のことだから、私もいつか消えてなくなってしまうんじゃないかとずっと危惧していた。
ただ実際そのことが現実になると、思いの外ショックが大きいのである。
それでも変わらずに春はやってくる。生後17度目の春だ。
満開の桜の下を歩くと、まるで夢の中にいるようだ。
花びらが舞う中で立ち止まり、空を見上げる。空は青く澄み渡り、桜の花の色がよく映えていた。
風に吹かれて舞い散る花びらが、春の訪れを告げている。
時間はゆっくりと流れていた。しばらく桜と舞い散る花びらに酔いしれていると、何処か悲しみも薄らぐようで。
私は静かに深呼吸をする。肺を満たす空気は冷たく、春らしくないなとも思った。
しかし、その冷たさが心地よい。花々の甘い香りと冷たい空気が混ざり合って私の体を満たす。
この一瞬を永遠に留めておきたいと思った。
でもそれは叶わないことだ。身を持って知っている。
花は散るし、人は死ぬ。
だけどそれでも、この一瞬に永遠を見出す。
それが生きるという事なのかもしれない。
なんてことをぼんやりと考えているうちに、ふと一つの桜の木の下に視線が向く。
そこには一人の少女が佇んでいた。
優しい黄色の髪をした少女だ。こちらに背を向けていて顔は見えない。
彼女も一人ぼっちで桜を眺めていた。その後ろ姿はとても寂しげで。
声をかけずにはいられなかった。
「桜、綺麗だね」
彼女は驚いた様子で振り返った。大きな目を見開いている。深く黄色い瞳が印象的だった。
「はい……とっても」
少女ははにかむような笑顔を見せた。まだあどけなさが残る顔立ちをしているが、どこか大人びた雰囲気を漂わせている。
「私も好きよ」と返すと、彼女はまた嬉しそうに微笑んだ。その笑顔はとても可愛らしくて思わず見とれてしまうほどだった。
それから少しの間彼女と語らった。名前は聞かなかったが、お花の好きな子らしい。
「わたし、夢があるんです」
会話の中で彼女は言った。
唐突な告白に面食らう。あまりにも自然な口調だったので一瞬聞き逃しそうになってしまった。
「夢?」
「はい」
彼女は頷き、そして言った。
それはあまりにも無謀な願いだった。だけど、それを語る彼女の瞳は真剣そのもので。冗談ではないとすぐに分かった。
「私、桜になりたいんです」
彼女は言った。その目は真っ直ぐと前を見据えている。強い意志を感じさせる目だ。私はその瞳から目を離せなかった。
「……どうして?」
思わず聞き返すと、彼女は少し考え込んだ後に答えた。
「……桜は綺麗で、ズルいからです。私も桜みたいに大きくて派手だったら、もっとみんなを笑顔にできるかも知れない」
そう言って彼女は笑った。その笑顔はとても悲しそうだった。
私は何も言えなかった。ただ彼女を見ていることしか出来なかったのだ。
その言葉がどういう意味なのか、比喩的な、将来はアイドルになりたいだとかそういうモノではないのは分かった。
それでも何かを伝えようとしていて必死な彼女の横顔を見て、黙って聞いていた。
「……桜は散ってしまうけれど……でもまた来年も咲きます」
彼女は続ける。その声はとても優しくて心地良いものだった。まるで子守唄のような。
その声色は脆く小さくか細いものだったが、ハッキリと私の鼓膜を揺らすのだ。
「桜は枯れてしまっても、また来年咲くんです。でも私はっ......私は来年になったら咲けないんです! 一度枯れてしまったら、それで終わりだからっ……」
肩を震わせながら言った。表情は見えないが、泣いているのだろうということは容易に想像できた。
「だから私は桜が嫌いですっ……羨ましくって仕方がないんです……」
最後に絞り出すように呟いた言葉には悲壮感が漂っていた。
「……そっか」
私はそれだけしか言えなかった。気の利いた言葉なんて思いつかなかったから。
でもそんな私に対して、彼女は優しく微笑んでくれた。それが救いだった。
その笑顔は何処か杏子の事を思い起こさせるようで。
それから私達はまたしばらく桜を眺めた後に別れた。
去り際に彼女が言った言葉を反芻する。『またね』
また会いに行ってやらねばと、何となく思った。
そして一週間程経った後、また同じ桜の木の下へ向かった。
そこにはもう殆ど人は居なかった。チラホラと散歩する人間が見えるだけである。
桜も満開の季節はとうに過ぎ、まだ緑の葉っぱもつけ始めるわけではないから何処かみすぼらしかった。
桜の花びらがひらひらと舞って落ちていく。弱々しく落ちていく。
それがどうという訳でもない。ただ役目を終えた花が死んだだけだ。
桜の木の根本には、一輪のたんぽぽが、綿毛を付けていた。
私は遠目にそれを眺めていた。
「桜、散っちゃったね〜」
男女の、カップルらしき二人組が桜を見上げていた。
私が少女と喋っていた場所の、直ぐ側だ。
「来年また咲くよ」
「来年?……まぁ、そっか」
「ちょっと、すいません……」
私は彼らの前まで行くと手を広げて制止した。
彼らの会話は微笑ましいなと思うだけだった。でも、彼らが歩き出した先に、たんぽぽがあったから。
あわや踏み潰される寸前というところで、私達は彼らを止めた。
男の方は怪訝な顔をし、女は嫌悪感を示すような表情をしていた。
私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらもそこは動かなかった。
私は優しくたんぽぽに触れた。ふわふわとしながらも何処か力強く、生命力が感じられる。
私がいなければ、きっとこのたんぽぽは踏み潰されていたのだろう。
そう思うと、杏子の言っていたことや、今目の前にいるこの子が言っていたことも何だか少し分かるような気がして。
世の人間、特に日本人であれば大体桜は好きだろう。
華やかで、儚く、美しい。
パッと咲いて散っていくその様はまるで花火のようで。
見惚れてしまうのだ。どんな人間でも、桜の前ではみな等しく見上げることしか出来ない。
野に咲く小さな雑草達だって、こんなに懸命に人を幸せにしようとしているのに、桜の魔力の前では敵わない。
杏子はそれを知っていたから、桜が好きだという私を否定しなかったし、あんなに寂しい目で桜を見上げていたのだ。
私はたんぽぽの綿毛をふっと吹いて飛ばした。未来へ繋ぐ、希望の種のようにも思えた。
来年ここに咲くたんぽぽは、肩を震わせ幸せを願った彼女ではないけれども、確かにその意志は私の心の中に咲いている。
それから暫くが経った。彼女の一周忌に、お墓を立てたという連絡をもらった。
私は彼女のお墓の前で何を言えばいいか、喉につっかえて言葉は出てこなかった。
黙って線香に合掌する。墓の後ろの方には、小さな杏の苗木が植えられていた。
杏は桜の親戚のようなものだ。ただ、咲く花の華やかさ、大きさ、知名度どれを取っても桜には敵わない。
それで、彼女も彼女なりに思うことがあったのかも知れない。
「杏の花が咲いたら、また来るよ」
お墓を背にすると、何処か後ろ髪を引かれるようで足が動かなかった。
そうして俯くと、数滴の涙がこぼれ落ちて、その先には小さな紫の花が咲いて見える。
何となく、彼女の隠し事を当てるように、あの頃と同じように言ってみる。
「本当は、桜が嫌いなんじゃなくて羨ましかっただけなんでしょ?見えっ張りなんだから」
脇に生えていたヒメオドリコソウを、あの日の記憶を頼りに口に咥えてみると、想像以上に甘みが口内に淡く広がって思わず微笑んだ。
――あたり。
と、どこかからくすぐったい笑い声が聞こえたような気がした。
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