彼女は文芸部を辞めた。

朝霧 藍

彼女は文芸部を辞めた。

 彼女は文芸部を辞めた。

 それは面と向かって別れを告げたわけではなく、気づいたらこの部屋から彼女の愛読書である、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』が消えていた。

 理由は誰も知らない。それもそのはず、彼女は優れた“小説家”であったからだ。

 県のコンクールで一年生で優秀賞、二年では最優秀賞を取るほどの実力が彼女にはあった。繊細かつ巧妙な文体で、話も深みのある純小説は、誰が見ても同世代の作品から頭ひとつ飛び抜けていた。それに彼女は僕らを圧倒する小説をたった一ヶ月ほどで書き上げてしまうのだ。僕は、彼女の原稿を出版社に持ち込めば、きっと遠くない未来にプロの小説家デビューするだろうと勝手に想像していた。

 それなのに、誰もが羨む才能の塊は、跡形もなくこの部活を去った。




「あ」

 

 ある日のことだった。部活に向かう途中、廊下で窓の外を眺めていた彼女と会った。


「君か。元気にやってる?」

 

 彼女はこちらに顔を向け、優美に微笑む。背中の真ん中ほどまでの黒髪は、太陽を反射しさらに黒く輝いた。


「まあね。そっちは?」


「ああ、部活というしがらみから解放されるのも悪くない。自由な時間が増えたよ。足が伸ばしやすい」


「そう……あのさ」


 聞いてもいいか、一瞬迷った。だけど言葉は僕の掌をつるりと滑り落ちて出てしまった。


「なんで部活やめたの?」


 彼女は刹那目を見開き、それから窓の向こうを向き直して口を開く。


「私にとって、あの場所は……そうだな、嫌いじゃないけど、合わなかったみたいだ」


 彼女の視線を追い、窓の外を眺める。学校の隣の家の屋根の上で、二匹の猫が丸くなっていた。どこからそんなところまで登ったのだろうか。


「君は、私の小説好きだったか? 私の小説のことどう思っていた?」


「……そりゃあもちろん好きだったよ。すごく洗練されていて、まるでガラス細工みたいに美しいと思っていた。僕はあの鋭さを持ち合わせていないからさ。道端の雑草のようにどこにでもある文章しか書けない。本当羨ましい限りだよ」


 そこまで言うと、彼女は寂しそうに笑った。髪の毛とは裏腹に少し茶色がかった瞳は、ここではないどこかを見つめている。


「私はね、嫌いだったよ」


 静寂に包まれた廊下に響き渡る。エコーがかかっているように僕の頭にも鳴り響いた。

 

「本当は、あんなの私の小説じゃない。私はもっと、娯楽的な大衆文学が好きなんだ。推理小説とか、SF小説とか。でも、たまたま作った純文学がコンクールで受賞しちゃって。その時は純粋に嬉しかった。こういうものを書けば評価されるんだって知った。でも、それがよくなかった」


 そこまで話すと彼女は深く息を吐いた。


「君も知っているはずだ。コンクールなんて、深みがあって難しい小説を書けば大体賞がもらえて、純粋に面白い小説はすぐに切り捨てられる。なんでだろうね」


 そして今度はその場で回れ右をし、窓に背中を預けて話を続ける。


「私は貪欲だから。書きたいことを我慢して、上から綺麗な色で塗り固め続けた。そしたら周りはもっと私のことを褒め称える。偽物の私の小説を。そうしているうちに、本当の私の文章がわからなくなった。いくら言葉を重ねても、この小説を書いているのは私じゃない気がするの。またうわべだけの文章を並べているようで、そしたら手がピタッと止まって進めなくなった。ほんとバカだよ」


 彼女は僕を見つめた。大きな二つの瞳が、僕を捉える。こうして向き合うと、彼女も僕と同い年のもの書きであったのだと実感する。何も変わりない、等身大の学生でしかない。

 また僕も、彼女に期待を寄せ、手放しに持ち上げる人間だったのだ。それが彼女にとって苦しみになっていただなんてつゆ知らずに。


「そっか。知れてよかった」


 心のどこかで、僕は彼女を文芸部に連れもどそうとしていたのかもしれない。だから無条件に、帰ってきてよ、なんて口にせずに済んでよかった。そんなことを言っていたら彼女は僕に心底失望しただろうな。


「君は道を踏みはずすんじゃないぞ。君の小説もまた、道端の雑草のように強く、美しいから」


 ひだまりのように暖かい言葉と微笑みを残し、彼女は僕の横を素早く通り過ぎていった。

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彼女は文芸部を辞めた。 朝霧 藍 @Kamekichi-2525

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