いつか雨が上がるのなら

何もかんもダルい

第1話 雨雲の切れ目

 母さんが死んだ。心筋梗塞だった。

 

 あんまりにも唐突過ぎて、泣くことすらできなくて。火葬が終わって家に帰って、全ての手続きが終わって一息ついて。もう居ないんだということにようやく気付いて泣き崩れるまで、1か月もかかった。

 俺は母子家庭で育った。父親の顔は写真でしか知らない。元々長く生きられないと言われていた人で、俺が母親の腹の中に居た頃に力尽きてしまったらしい。

 

 母親を失った時、俺は高校に進学したばかりだった。入学式を終えて、一緒に撮った写真が最後の一枚になってしまった。

 どんな娯楽にも手が伸びなくなって、学校に行く気力すらなくなってしまって、カーテンを閉じ切った自室で天井を見上げたまま一日を過ごすことが多くなった。それだけ、俺にとって母という存在は大きかったのだと失ってから改めて実感した。

 

 そうして引き籠り始めて1か月が過ぎたころ、高校を辞めた。たった3か月の学校生活は――後半は喪失感に苛まれてあまり覚えていないけれど――まぁ楽しかった。友達になれたんじゃないかな、という人物も幾らか居たし、引き籠ってから時折配布物を届けに来てくれた人もいた。名前を殆ど知らずに去ってしまったのは少しだけ惜しかったかなとも思うけれど、それ以上に耐えられなかった。目の前に現れる同年代にはちゃんと家族がいるんだという現実に、嫉妬する前に心が折れてしまいそうで駄目だった。

 唯一の血縁となった叔父は「自分の心を守れたのは偉いことだ」と慰めてくれたけれど、それ以上に自分が惨めで情けなくて、涙が止まらなかった。


 思うに、俺はきっと心が人より弱いのだろう。たった一人の家族の死を、葬儀から3か月が経っても尚飲み込めていない。ずっと外へ行く勇気がなくて、ずっと泣き暮らしている。最後にまともな食事をとったのは何時だったろうか。そうして思い出すのは母親の姿ばかりで、それでまた泣き崩れる。


 ああ、なんて救えないほどに脆いのか。他の人だったらもっと早く、自分がちゃんとしないといけないとばかりに日常へと戻るはずなのに。


「……電話」


 机の上に置いたスマートフォンが振動する。画面を見れば、叔父の名前。力の入らない手でどうにか耳に当てる。


『生きているか、りん

「なんとか」

『そうか』


 仏頂面が頭に浮かぶようなその声に苦笑する。

 あまり顔を合わせたことはないが、しばしば電話を掛けてくるからどんな性格なのかはよく知っていた。受動的で大人しく、よく口を閉ざして自分の意見を曲げるが、自分が絶対に正しいと思う部分だけはどれだけ言い争いになっても折らない人だった。


「それで、どうかした?」

『お前、就職先は決まっているのか?』

「……全く、だけど」


 一瞬嫌味かと顔を顰めたが、叔父がそういう人ではないのを思い起こして踏み留まる。合理的というか、冗談をほとんど言わない人だ。その分言い方に棘があるが、今みたいに何かを問いかける時は字面以上の意味を含めない。


『俺の職場で一人分空きが出来た。引っ越しさえ了承出来るなら俺の伝手でお前を捩じ込むこともできる……どうだ』

「どうだ、って」

『働いてみる気は無いか』


 端的で余分のない勧誘。叔父が何の仕事をしているのかは全く知らないが、環境保全にまつわる何かだと聞いたことはある。

 

『人里離れた場所で暮らすことになる。不便だが、気は休まるだろう。そのまま心が壊死する生活がいいというのなら止めない。まだ生きる意思が残っているのなら来い』

「……」

『すぐには決まらんだろう。3日後に掛け直す。その時に答えを聞く』


 此方の逡巡を見抜いてか、伝えるべき事は伝えたとばかりに通話は切れる。直後に送信された画像は2枚。1枚は就職に関する契約書で、もう一枚は職場になるであろう場所の写真だった。

 

 岩肌が剥き出しの荒野の中に佇むベースキャンプらしき建物を映した、大地の雄大さと人のいない寂しさを感じる写真。降り積もった雪が風で煽られて砂嵐のように吹き荒んでおり、動物の群れらしき小さな影が点々と見える。

 合成やAI画像生成による悪戯も疑ったが、あの叔父がそんな回りくどい真似をしてまで騙そうとするとは思えない。となれば必然、これは就職先はこういう場所だと言外に示すものなのだろう。

 せめて地名くらいはと1枚目の契約書の画像に目を通していると、それはあった。


「タルミナ虚数公園、管理棟公社……」

 

 スマートフォンで馬鹿正直に調べるも当然ヒットなどしない。管理棟と言うからには孤立しているかのような建造物がそれなのだろうが、どうにも管理棟という言葉から考えられる仕事をしているとは思えない。写っている地形からしても南極観測隊のような組織を連想させる。

 であれば、高校中退の子供など職員として受け入れる暇があるのだろうか。そう言う場所は一定の専門知識などを持った、所謂優秀で相応な人材しか必要としていないのではないか? 幾ら叔父がそこに勤めているからと言ってコネ入社のような真似ができるとは考えにくい。

 

 端的に、情報不足が過ぎる。何一つ分かりやしない。


「眩暈してきた……」


 就職するにせよしないにせよ、答えを出すのは再び電話を掛けてくるであろう3日後。それまでに考えればいいやと思考を投げ、もう一度ベッドに身も心も投げ出した。



 眠りと覚醒の間を揺蕩うように横になること1時間。浮上する意識と共に、体が栄養を求めて胃袋を唸らせ始めた。思えば昨日から何も食べていない。ここ最近は1日2日程度なら食べないこともざらになっていたから、日に日に体が弱っているのを感じる。


 ――――まだ生きる意思が残っているのなら来い。


「……難しいな」


 靴を履いて玄関を出ながらぽつりと漏れた独り言は、ほんの先ほど聞いた叔父の言葉への返答。

 母さんへの恩返しという生きる理由が突然絶たれて、手元に残っている理由が何もないのだ。生きていようと死んでいようと大して変わらない。死んだところで悔いもない。けれど、何の理由もなく生きることが苦しくて仕方ない。


 街灯が照らす雪の道を歩いていく。自分は何かやりたいことがあっただろうかと考える。

 大学を目指していた。それは良い就職先を探すためで、給料をしっかり手に入れられるようになれば母さんの生活を今よりずっと楽にしてられるはずだと信じていたから。やりたい事だとか、自分の夢はとか、一度も考えた事なんて無かった。


 コンビニで総菜パンを買う。人間、意外と栄養不足でも動けるには動けると益体もないことを考える。

 少なくとも徒歩10分程度は余裕なのだと感じる。これが世間一般からして打たれ強い内に入るのだろうか。であれば、叔父が求めたのはそういう部分なのだろうか?

 叔父が単に「可哀想だから」というだけで勧誘や推薦の類をするとは思っていない。仮にあったとして、その上で必要な何かが俺にあるから誘ったのだろう。そういう人だ。情もあるけれど無情な判断ができる。


 コンビニを出て、寒い中近くの公園に寄る。少し気を抜くと歯が鳴るような底冷えする冷気が身を刺してくるけれど、誰も居ない家に帰る方がずっと苦しいから、逃避に走る。

 ベンチに座ってもう一度過去に思いを馳せるも、自分を育ててくれた母さんへの恩以外で何かをした事なんて無かった。それ以外を――――それこそ自分のために、自分本位で動いた事なんて一度もありはしなかったのだ。

 だから分からない。これから何をすべきか、何をしたいのか。何一つ分からないまま、探そうという気概すら消え失せてしまっている。


 結局、今も尚俺は判断の全てを母親に依存しているのだろう。あの強くも優しかった人に。いつだって俺の味方であろうとしてくれた人を、忘れられない。踏み出せない。

 込み上げる熱い鉛を飲み下せば、それはそのまま目元へと逆流して溢れ出す。15にもなってみっともなく夜中の公園で独り泣いている。15年も目をかけてもらって尚このザマなのかという情けなさに耐えられなくて、頬を焼くような熱さの涙を止められない。

 このまま消えてしまいたい。この寒さの中に居れば、眠るように死ねるだろうか。

 叔父にとってはいい迷惑だろうが、やっぱり駄目だ。こんな弱くて脆い奴を抱えたところで重荷以外の何にもなりやしない。居るだけ邪魔でしかないだろう。

 

 だから、このまま鼓動が止まるまでここに居よう――――と、そう考えた直後。視界を照らしていた街灯の光が遮られた。


「ハロ〜?」

「……百鬼なきり


 顔を上げれば、そこにいたのは中学からの顔馴染み。金髪に深海のような暗い青の瞳の少年、百鬼柚子ゆず

 いつも通りの――――母が死んでから会っていなかったが――――ニヤニヤ顔でこっちを覗き込んで、そのまま隣に腰掛けた。ついでにこっちの手にあった惣菜パンを一つ掻っ攫っていく行儀の悪さも相変わらず。


「しばらく顔見ねぇなと思ったけど、やっぱ死に急いでたか」

「急いではないけど……死にたかったのは、まぁ、合ってる」

「自分が情けなくてか?」

「よく分かるな」

「3年も顔突き合わせたんだぞ? そんくらい分からんでどうするよ」


 どこか嘲るような、その実本当に心を許した相手にしか見せない表情で茶化してくる。普段なら睨みの一つ利かせていたかもしれないが、今はその気安さが有り難かった。


「母さんが死んだのは……お前に言ったっけ」

「んや、聞いてねぇ。けど察せたぜ? あんだけいつもニコニコしてた奴が急に音信不通になったんだ、何が起きたかくらい絞り込める」

「そっか」

「ゲームもチャットもログインすらしなくなって1ヶ月、大丈夫かっつって連絡寄越したのに帰ってきたのが無言のスタンプ。そんでもって既読無視と来た。もう役満だ、お前なら失恋でもこうはならねぇさ、マザコンめ」

「俺のこと理解しすぎだろ、気持ち悪いぞこの野郎?」

「オメェが分かりやす過ぎるんだよバカタレめ」


 惣菜パンに齧り付きながら笑う。一日ぶりの食事にもたつく顎をどうにか動かしながら飲み込もうとしていると、横から差し出される紙コップ。

 視線をやれば水筒を手にしている百鬼の姿。背負っていたリュックサックに入れていたらしいが、その用意周到さにまた笑ってしまう。


「準備万端過ぎるだろ、何する気だったんだよ」

「ちょっと高台まで突っ走って天体観測でもしようかとな。まぁ飲んどけ。俺の奢りだ」

「奢りって、ただの白湯じゃん」

「いらねぇなら飲んじまうぞ」

「いるいる……ありがとな、本当に」


 大人しく紙コップを受け取って、湯気を立てる白湯に口を付ける。暖かいものを口にしたのはいつぶりだっただろうか? 少なくとも母さんが逝ってからは全く飲み食いした覚えがなかった。

 だからだろうか。喉を通るただの湯の暖かさにすら、母さんの影を思い出してしまって、みっともなく涙を溢してしまう。流石の百鬼も茶化せなかったのか、重症だなと一言呟いたっきり口を閉ざしてしまった。


 そのまま時間だけが過ぎて、ふと思いついたように自分の口が動いた。


「俺さ、この街から居なくなるかもしれん」

「理由は?」

「叔父さんに誘われて。どっかの自然公園に就職するかも」

「かもって、決めたんじゃねぇのかよ?」

「……悩んでる。俺なんかが行ってもいいのか、って」


 興味の欠片も無さそうな相槌の後、不意に百鬼は此方の目を見据えた。深海のような瞳は内心まで見抜かれているかのような錯覚を覚えてしまう。


「で? んだよ」

「どうしたいって、だからそれを――」

「あのなぁ、お前のソレは悩んでるって言わねぇんだよ。行かない理由を考えてるって言うんだ」


 バッサリと此方の逡巡を一刀で切り捨てられた。いつもの笑みは鳴りを潜めて、どこか苛立っているかのような空気すら漂わせて真剣に此方を観ている。


「オメェの叔父さん、何か言ってたのか」

「……まだ生きる意思があるなら来い、って」

「ならお前のお悩みとやらは戯言以下だな。叔父さんの話何も聞いちゃいねぇ」

「だから、どういう――――」

、お前はどっちなんだっつってんだよ。つらつらと言い訳考える前に、そこの二択どうなんだ? えェ?」


 苛立ちの次は呆れ。頬杖を突いて、馬鹿を見るような半眼で睨みつけられる。

 

 死にたい訳じゃないけれど、生きている理由ももう無い。だけど、それは理由がないだけで――――


「生きたい」

「理由は?」

「分からない……けど、生きる理由を探したい」

「ならもう答えなんて決まってんじゃねぇか、阿呆らしい」


 鼻で笑われた。そのまま百鬼は立ち上がって公園の外に停められていた自転車へ向かう。

 それは気が済んだと言うよりは、用事を済ませたかのような雰囲気。そのせいか、まるで此方の背中を押すためだけに立ち寄ったかのように思えてしまう。

 我ながら単純だが、この短い問答の間に迷いは吹っ切れていた。胸の奥から込み上げる悲しみは止まってくれないけれど、一歩踏み出す理由は得ることが出来ていた。


「ありがとう。行ってくる」

「なーに覚悟決めたようなツラしてんだよ。たかが就職だろうよ」

「……それもそうか。じゃあな、またいつか」

「おう。またどっかでな」


 悪友は最後まで性格の悪い笑みを絶やさないまま、後ろ手で手を振って、自転車を漕いで行ってしまった。



 ◇


 鞄に荷物を詰め込んでいく。

 ほとんど引っ越しと同じだから、家にあるものはほぼ全て段ボールに詰め込んで家の前に泊まっているトラックの荷台へと移している。残るは自室の物品だけだ。


 思い出を抱えたまま、ここを立ち去ることになる。この家は故郷ではなくなり、どこかの誰かに買われるまで単なる空き家になる……その事に、思う事が無かった訳じゃない。

 

 15年の思い出は、持ち出せるだけ持ち出した。後に残る面影だけ、ここに置いていく。


 ボストンバッグとキャリーケースを荷台へ放り込んで封をする。閉ざされる扉に霊柩車へ運び込まれる棺を想起してしまってまた泣きそうになるけれど、それをどうにか抑えて助手席へ腰掛けた。

 それを見届けて、運転席の叔父はエンジンを始動する。慣れた手つきで動かされたトラックが、滑らかに走り出して思い出の跡地から遠ざかっていく。

 

「本当に良かったのか?」

「うん」

「そうか」


 何が、とか、何を、とか。色々聞くべきだったんだろうが、あえて聞かない。

 住み慣れた地を離れること、思い出の残る家を捨てていくこと、見知らぬ土地へと半ば永住すること、あるいは、ろくな説明もないまま叔父の勧誘に乗ること。全部込みで、「これでいい」。

 それでも零れる涙を、どうにか拭う。


「涙脆いな」

「……まだ、振り切れた訳じゃないから」

「好きなだけ泣け。涙が枯れたら前を向けばいい」

「…………うん」


 不器用すぎる優しさを感じながら、疲れて眠ってしまうまで泣き続けた。

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