第4話
春来は今までたくさんの女性の家に入ったことがあるし、中には蝶よ花よと育てられたお嬢様もいた。だから、都心の見るからに高級そうなマンションのエレベーターに乗り込み最上階のボタンを迷い無く押す刹那の姿を目の当たりにしても、そこまで驚きはしなかった。それよりかは寧ろ、鍵を開けて玄関で靴を脱ぐなり無言で奥の部屋へ入ったきり出てこないと思ったら、シャワーの音が漏れ聞こえてきたことの方が心臓に悪い。
「警戒心はないんですかね、あのお姉さんには」
つい数時間前に出逢ったばかりの男をやすやすと部屋に入れた挙げ句、その男を放置して入浴するなんて、大分酔っているということを差し引いても不用心過ぎやしないか。それをさせているのは自分だということを棚に上げて、春来は彼女が心配になってしまった。
いつまでも玄関で呆けていても仕方無いので、とりあえず廊下を抜けリビングに入る。白と黒で揃えられたロイヤル調の家具類。物がきちんと整頓されているのでぱっと見は綺麗なのだが、よく見るとテレビボードやカップボードの棚の上などにうっすら埃が積もっている。意識しなければ別段気にならない程度の汚れだ。突然押し掛けてしまったからこれくらいご愛嬌だろうが、如何せん他がしっかりしているので逆に目立つ。恐らく刹那は几帳面ではあるが、こまめに掃除をする時間的ゆとりが無いといったところだろう。所在なく、部屋の中央に置かれていた黒革の二人掛けソファーに体を預ける。最初からここまで簡単に懐に入り込ませてくれる女もそういない。それでいて恋愛する気も身体を許す気も無いと宣うのだから、都合が良いを通り越して恐ろしくなってくる。利用しているつもりで、利用されているとか。
「あ」
声がして振り返ると、白いシルクのパジャマ姿の刹那が、肩に薄桃色のバスタオルをかけ髪が濡れたままの状態で立っていた。春来を見て小首を傾げたので、まさか全て忘れていて不法侵入として通報でもする気では無かろうかと一瞬慌てたが、それはどうやら杞憂だったようで大人しく隣に座った。シャンプーか何かの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
嗚呼やっぱりわざとか。何も感じなくなった心臓を抱いて、春来はつうっと髪から落ちた雫の伝う白い首筋に、静かに顔を寄せて赤い舌を出す。
「ひゃっ」
色気も何もない、素っ頓狂な声をあげてソファーの肘おきまで跳ね退ける。刹那の見開かれた瞳。
「え、今ハル何したの」
手で首を押さえる様子に、困惑する。
「ご期待に添おうと思ったのですけど、夜のお誘いをしていたんじゃないんですか」
「は、意味わからない」
真顔で返されて眩暈がする。
「そういう意図じゃなかったなら、勘違いしてすみませんでした。でもその気がないのにこんな香り放って無防備に男に近づくなんて危ないですよ」
冗談めかして告げれば、慌てるでも怒るでもなく、心底不思議そうに問う。
「そりゃ他の男だったらちゃんと警戒するけれど、ハルは女に興味がないからここにいるんじゃないの?」
「・・・・・・はぁ」
盛大なため息がこぼれる。
きょとんとしている刹那の肩からバスタオルを取り上げて、わざと乱暴に髪を拭いてやる。眼鏡がちょっとずれて、左目の泣き黒子が覗く。この女は傍からどう見られているか知ることなく、大人になってしまったのだろうか。だとしたら大問題だろう。
「恋愛のゴタゴタが面倒なだけで、性欲は普通にありますよ」
牽制と忠告の意図を兼ねて、敢えてした発言だったのだが。
「随分と正直なのは良いことだけど、それを私に言ったらここから追い出されるとは思わないわけ」
冷静だ。刹那は残酷なほどにどこまでも冷静だった。対して春来はどうやら冷静さを欠いていたようだということに、刹那の指摘でようやく理解した。調子が狂う。
「帰り道で明日も仕事だってぼやいていましたよね。早く寝てください、僕もシャワー借りたら寝ます。お風呂上がりバージョンのユリさんは初見にはなかなかに刺激が強かったので発情しただけで、もう大丈夫です。あ、ソファーで寝るので安心してくださいね」
刹那の目も見ず一気に言い切り、洗面所へ逃げ込んだ。
「……Win-Win、ねぇ」
先刻のバーでの刹那の台詞を思い出し、自然に笑ってしまう。自分は思っていた以上に良い家に拾われたのかもしれない。
浴室にはより濃く刹那の纏っていた香りが漂っていたが、春来はそのことに対してもう何の情動も働かなかった。
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