第3話

「私は由利刹那。別段あだ名は無いから、好きなように呼んで」

「じゃあユリさんとお呼びします」

「無駄に礼儀正しいわね。悪ぶっているくせに」

 春来は目尻を下げ泣きそうに笑って、酒を煽った。ふーと長い息を吐き、刹那に向き直ると小首を傾げて問い掛ける。

「僕、悪い子に見えますか」

「そんな可愛い顔したって無駄。さっきだってどうせ、彼女に浮気でもバレたんで」

「違いますよ」

 皆まで言わせず真顔でピシャリと否定した。その剣幕に驚きつつ、じゃあ原因は何だったのかと訊ねる。

「今日はセックス出来ないって言ったら怒られました」

 余りに平然と答えたので、刹那は時間差で一人顔を火照らせることになった。

「な、何堂々ととんでもないこと言い放っているのよ」

「だって気分が乗らない日だってあるじゃないですか。大体、僕あの人のこと別に好きでもないし」

 また訳の分からないことを言い出して理解に苦しむ。

「さっきの子、彼女じゃないの?」

「いいえ、ただのパトロンですよ。ちょっとお姫様扱いしてデートして気持ち良くしてあげたら、お小遣いくれる人達の中の一人」

 はぁ、と思わず大きな溜め息が漏れる。

「どれだけ貢がれているのよ」

「まぁそれなりに。でもね、僕は別に贅沢がしたいわけじゃないですから。本当はただ衣食住を提供してもらえれば十分なんです。プレゼントもお金も愛も、要らない。寧ろ邪魔だ。それなのにみんな、僕のこと好きになっちゃうんですよね」

 儚げだと思ったのも束の間、あっけらかんと下衆なことを笑顔で口にするから、刹那はもう深く考えないことにした。バーテンダーに、空になっていた酒を再び満たしてもらう。

「よく一人で飲むんですか」

 このままでは分が悪いと悟ったのか、春来は話題を切り替えてきた。

「飲む頻度は多いけれど大抵は友達と飲むかな、話し相手してくれるし。でも時々こうやって一人になりたくなる」

 刹那から反らさぬまま目をすっと細めて、骨の形のわかる白い指が静かにグラスの縁をなぞる。その仕草に何故か、喉がヒクついて唾が食道を下った。

「ユリさん、本当は寂しいのでしょう」

 笑い飛ばせる筈だった。これまでだって何度も、三十目前で独り身なんて寂しいだろうと言われてきたし、その都度明るく「仕事が恋人だから」と返してきたではないか。だから今回だってそれをすれば良い筈で、それはとても簡単なことである筈で。

「寂しい、でしょう」

 耳からの刺激が、脳を経由せずに口をこじ開ける。

「さみ、しい」

「そうです」

 良くできましたとでも言うように、頭を優しく撫でられる。久し振りに感じた人肌の温もりは、深く心に根を張ってしまって。

「ねぇ、僕のことお持ち帰りしませんか」

 両の漆黒が、その漆の艶の中に刹那を捕らえて離さない。嗚呼、たくさんの女の子たちが春来のこの闇に呑み込まれてしまったのだなと、鼻の奥がスンとする。

「私ね、一人に飽きてきちゃって」

 左隣から視線を感じたまま前だけを向いて、ほぼ満杯のままだった酒を一気に干す。

「もう一杯」

 流れるように告げて、目を閉じる。そして瞼の裏に自分の家を投影し、そこに春来を置いてみる。空想は悪くない出来だった。

「だけど色恋する気はないし、以前からペットでも飼いたいと考えていたの。だけど躾とか手がかかるのは面倒だとも思ってずるずる先延ばしにしていて。ねぇ……ハルのこと、飼ってあげようか」

 そこでようやく顔をのぞき込むと、困惑しきった表情があって、予想通り過ぎる反応に愛着が湧いた。

「いつものように、簡単に落とせるとでも思った?」

 逆手にとって、微笑む。すると春来は一泊おいて、腹を抱えて笑い出した。

「ははっ…ユリさん最高。面白過ぎです。はぁ…良いですよ、飼われてあげましょう。躾済みの優秀な良い子です」

 乗ってきた。忘れかけていた新しいギムレットが差し出されたので、受け取ったその手を目線まであげて春来に乾杯を求めると、彼も半分消えた杯を掲げた。

「これから宜しくお願いしますにゃ」

 おどけて見せた大きな猫と、声を出して笑う。

「ハルは私を愛していない。私もハルを愛さない。分かりやすくて楽な、Win-Winの関係でしょ」

「そうですね、Win-Winだ」

 良い拾い物をしたなぁなどと呑気に考えながら、何杯目かもわからなくなった酒で唇を濡らした。


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