第1話
溜息が白く可視化されてしまったから、
五反田駅の適当な道を少し進めば洒落た看板を掲げた店が幾つか見つかる。そのうちのひとつにふらりと入れば、微かにジャズが耳に届いた。初めて見る小さな店内は、青い間接照明で仄かに照らされており、街の喧噪と時間の流れから切り離されたような心地よさを覚えた。カウンターとテーブルに一組ずつだけカップルがいたが、あとは各々お一人様だったことで店選びに成功したとちょっと嬉しく思いながら、刹那は入口から一番遠いカウンター席に座った。注文を伺うバーテンダーにギムレットをと告げたのは、兎に角酔って気持ち良く寝られれば良いという気持ちだけから来るセレクトで、酒に強いのはこういうときコストパフォーマンスが悪くて不便だとぼんやり思った。一応煽るような真似はしなかったが、喉のヒリつく感覚の途絶えぬままにグラスを空にし、同じ物をもう一杯頼む。完成までの間に少し落ち着いてきて、流石に今度は少しずつ味わって飲もうと思い直してテーブルに置いた。どこかでからん、とグラスの中の氷が沈む音がする。
「どうして私のお願いがきけないの」
そんな静寂を巨大なメレンゲドールが蹂躙した。鼻についた甘ったるい女の台詞が、明らかにこのバーのシックな雰囲気にそぐわぬボリュームで響く。方向からしてカウンター席のカップルだろう。
「今日は私のおうちに来てくれるって言ったよね」
痴話喧嘩は犬も食わぬという。くだらない言い争いだろうが、時と場所をわきまえて欲しいものである。関わるのも愚か視界にさえ入れたくなくて、意識的に彼等が座っているのと反対側の壁へ顔を向ける。
「何それ、私じゃ物足りないって言うの」
それでも悲しいかな、空気の密度変化は鼓膜を律儀に刺激し神経は脳までその情報を運んできて、頭を抱えたくなってしまう。男の方は声量をわきまえており端に座る刹那の元まで声が届くようなことは無かったから一瞬良識があるなと思ってしまったが、いや待て女の趣味が悪すぎるだろうと頭を振った。感覚が麻痺してきている。
もういい、二杯目は味わいながら時間をかけて飲むつもりでいたが、流石に我慢の限界だ。直ぐにでも飲み終えて店を出よう。幸い前述した通り酒に強い方だから、いくら度数が高いことで有名な品と言えどこの一杯を一気飲みしたくらいで酔い潰れて帰宅できなくなるようなヘマはしない。覚悟を決めてグラスを持ち上げる。
「今まで私にくれた言葉、全部嘘だったって言うの、ハル」
気付けば双眼いっぱいに、反対端に座る男の右半身を写していた。それまで頑なに左側を見ないようにしていたことなどすっかり頭から飛んでいて、ついでに呼吸まで忘れていたから、刹那は危うく窒息するところだった。慌てて酸素を肺に送り込むものの、吸って吐くという動作を意識的に行わなければならなかった。顎先まで伸ばした飴色の髪の所為で、ハルと呼ばれた彼の横顔がほとんど隠れていたことが、淡い希望を抱かせる。だがしかし悲しいかな、三十路を目前にした酸欠の脳はそれでも夢を見きれず、未だ記憶の亡霊に縋り「ハル」という名前だけで呼吸もままならなくなる己の哀れさを客観的に嘲笑して、しかし半分では主観的に切なさで焼かれた。
「ハルなんて大っ嫌い。もう遊んであげない」
今日一番の大声で言い放った捨て台詞は狭い店内から全ての言葉を奪ってしまった。大人の隠れ家的バーの雰囲気にはぴったりの、しかし現状には全くそぐわない音響だけが、静かに行き場を失って彷徨う。店員も客も合わせた皆の冷たい視線を一身に集めていることを知ってか知らずか、女は鞄を掴むなり怒りを露わに外へ出て行った。
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