やがて花と散るとも

橘 紀里

 それはおやしろだよ。そう教えてくれたのが誰だったのか、コウにはもう思い出せない。それでも彼にとっては木肌の柱の手触り、吹き抜ける風の匂い、そしてみしみしと鳴る床板の響きでさえ、かつて感じたことのない高揚をもたらした。それが何によるものなのか、ずっと考え続けているが、答えは出ていない。

 柱や壁は滑らかだが、ところどころささくれていて、かんながけされてから随分長い時間が流れているのがわかる。それまで出会ったような円柱ではなく、まっすぐな四角い柱で、上下に縁が波打った形の金具が嵌め込まれている。火炎を模しているのだという。木造の建物にあえて火を飾るのは火難けだろうか。塗装はそもそもされていなかったのか、長い時を経て風化してしまったのかはよくわからなかった。

「せめてきちんと見えれば、もう少し詳しいこともわかるのに」

「詳しいこと?」

 不意に聞こえた声にぱっと目を向ければ、社殿の中央、神奥みおの間と呼ばれるそこに、白い影のようなものが浮かび上がっていた。あたりは森に包まれていて、昼日中でも薄暗い。まして明かりの一つもともされていない社の奥は闇に包まれている。なのに、その影は人の形をしているのだとはっきりわかる。尋常なことではなかったが、それでもコウにとっては恐ろしさよりも好奇心が先に立った。


 ——その相手の姿と顔が、はっきりと見えたからだ。


 大きく目を見開いて、驚いたように見つめるコウに相手は首を傾げ、それから不意にああ、と合点したように頷いた。

「そなた、見えないのか」

「はい。だからびっくりして」

 コウの目は光を捉えることはできる。だが、全てがぼんやりとしていて、いくら顔を近づけても自分の手のひらでさえはっきりとは見えない。見える者たちからは朝靄あさもやの中にいるようなものか、と言われたが、常にそのような視界に囚われているコウにとっては朝靄も晴れた空も違いはわからなかった。

 だが今は、闇の中にたたずむその人のかおかたちがはっきりと目に映る。白い着流しに、長い黒髪。背筋が冷えるほどの伶俐な眼差しに反して、髪も着物もどこか草臥くたびれているが、それでも近寄りがたい威厳のようなものをまとっている。特別な祭事の時を除けば人の踏み入ることの許されない最奥に佇むその佳人が何者かは、問わずとも明白だった。

「我らは常人ただびとの目には映らないからな」

 つまりは常には見えぬかわりに、見えぬものがコウの目に映るのだろうか。でも、と彼はまっすぐに相手を見つめた。

「おれは見えるならおやしろが見たいです」

「社?」

 相手の声にどこか面白がるような響きが宿る。コウはただこくんと頷いた。


 はっきりとは見えぬ目のせいで、コウの世界は常にぼんやりとしていた。物の位置や場所さえ覚えておけば出歩くのにさほど不都合はなかったが、曖昧模糊とした世界をくっきりと浮かび上がらせるのは、視覚ではなく聴覚や嗅覚、そして触覚だった。コウが何より好きだったのは、建物の手触りだった。削った木肌の滑らかさ、薄く伸ばされた銅板のつめたい硬さ。無骨な鉄鋼のざらつきに、つるりと磨き上げられた玉石。どれもが違っていて、見えないコウにそれだけは鮮やかに外界のありようを伝えてくれる。

 中でもこの社は、コウにとっては特別だった。生まれ育った村を離れふらふらと何かに引き寄せられるようにして、はるか東の街にたどり着いた。戦で焼け野原になった後、なんとか建て直されたその街から少し離れた森の中。街よりも古い来歴を持つというその社は、けれど十年以上にも渡る戦火により通う者もなくなり寂れ果てていた。

 たった十年、けれどそこにまつられていたものが忘れ去られるのには十分な時であったのだ。なにより、近隣の街や村が焼き尽くされたのもそれに拍車をかけた。

 長い間、親しまれていた神の社は森に守られ無事ではあったが、人の寄り付かぬ廃墟も同然となっていた。コウがそこに引き寄せられたのは、何がしかの神性によるものだったのか。街に滞在し、繰り返し社殿へ通うこと一月半。凍りつくような冬からようやく春の芽吹きが感じられるようになった矢先、見えぬはずの視線の先にそれが現れたのだ。

「今まで訪れたどことも違う、簡素ながらも隅々まで細やかに気が配られた細工と構造。百年やそこらではない、もっとずっと長くここに在るものでしょう? ずっとずっと大切にされてきた」

「そうだな。だが、違う」

 人影は頷き、それから首を横に振った。ほんのわずか、表情が緩む。皮肉げに、どこか人懐っこさを感じさせる、やけに人じみた笑み。

「この地の縁起はもう人の記憶からは失われたらしい。なればこそ長い間在り続けられたのかもしれんがな」

 どういうことか、と首を傾げたコウに、人影はその足元に近い柱飾りを指さした。

「南に朱炎」

 社殿の入り口に配された柱の全ての上下に波打つ金属が嵌め込まれているのは何度も触れた通り。よくよく気をつけてみれば、どれも金型で作られたのとは違い、一つ一つが異なる形をしている。職人が柱ごとにその木目にでも合わせて打ち、彫金をほどこしたものであろうか。次いで左を指差す。

「西に皓刀」

 透かし彫りになった柱の渡しに、緩やかに婉曲した刀が彫り込まれている。鍔はなく、柄に当たる部分には、糸か布のようなものが実際に巻き付けられていた名残があった。木彫りながらもまるで本当に刃先に触れれば切れてしまいそうなほど鋭利に彫り込まれたそれは、なるほど刀であったのかとコウは納得する。

 続けて右にすい、と指を動かす。

「東に青樹」

 そちらの外壁一面には伸びやかな枝ぶりの大樹が彫り込まれている。幹には節が、先にいくにつれて枝分かれするその一本一本まで細やかくどれひとつとして同じ形のない、まるでそれそのものが生きている木のように複雑な陰影を描いている。見えるものが見れば本当に影ができているのに気づくだろう。

「北に玄鏡」

 振り返りもせずそう締め括ったその示す先に何があるかもコウはもちろんもう知っていた。手のひらほどの大きさの、完全な円形の玉の板。北側の木壁の中心、触れればひんやりと冷たいが、ぴったりと嵌め込まれたその黒玉と枠の間には、わずかな隙間さえもない。にかわうるしを使った形跡もなく、どうやったらこんなに正確に真円の形にくり抜けるのかと首を捻ったが、かつての職人たちの技術の高さに感嘆するより他ないのかもしれない。

「左様、あの頃の最高の職人と最高の術者たちの設計と技術の粋を尽くした代物だ。加えて四隅の柱には斜方封じの楓の芯材が使われているし、社の外、境の内には円池、守道、柳流に砂楼と正方の三つ重ね。いわば三重みえの構えだ」

 くすりと笑った涼やかな声にかげりはなかった。けれど、コウは唖然と目を見開く。自分が何をみて——感じてきたのか、全く理解していなかったことに気づいたのだ。


 緻密な細工も、壮麗な飾りも、入念に配置された神庭も、すべてが一つの目的のため。あまりに厳重なその構築物かまえは、中に在るものを守るため——ではない。

「……あなたを封じるためのもの」

「縁起が忘れられても封じは続く。さりとて守るものがなければほころびる。それ——」

 そうして指差した先にコウがそろりと近づき手を伸ばせば、長押飾りが一つ足りない。そのまましゃがみこんで探れば錆びたかけらが手に触れた。

「このままでは、社が朽ちる。千年の昔にかけられた封じも解けてしまう」

「あなたにとっては望ましいことでは?」

 封じた、と言うことは何らかの畏れを抱かれこの地に縛りつけられたはず。人とは異なる力と理を持つ存在が、それを是としているとはコウには到底思えなかった。じっと見つめたコウの眼差しを、相手は面白そうに受け止める。その瞳は闇の中でも不思議とはっきりと浮かび上がっていた。黒とも灰ともつかぬそこに、ややして不可思議な煌めきが浮かぶ。

「そうとも言えぬ。この千年、三重の封じの中で我の力は削られ均衡はかなり危うい。このまま社が朽ちて封じが解ければ、あらみたまに飲み込まれるやもしれぬ」


 神には二つの側面があるという。平穏と加護を司るにぎみたま。混沌と破壊をもたらあらみたま。いずれもが神の本質だが、両者の均衡がとれ調和してこそ安寧が保たれ畏敬の対象となる。いずれかに極めてかたよれば、ただ畏怖され忌避される。そうなれば孤立し、いずれにしても滅びる定めだ。


 というわけで、とその人影は続ける。

「そなたに頼みがある」

「頼み、ですか?」

「なに、たいしたことではない。これからしばらく毎日寄進を頼みたい」

「寄進……? しかし見ての通りおれは文無しで」

 眉根を寄せたコウに、相手は今度こそ楽しげに笑った。その表情は朗らかに明るく美しく、往年の姿はいかばかりだったかと思わせるものだった。

「そんなもの何の役に立つものか」

 言いながら差し出された手のひらの上に、黄橙の菊に似た花が現れた。その上から赤と紫の花びらが降り注ぐ。

「寄進というのはこういうものだ。あとはまあそうだな、何か甘いものでもあれば完璧だが」

 そう笑うと花はふわりとかき消えた。まっすぐにこちらを見つめる瞳の真意は読めない。コウがじっとその場で立ち尽くしていると、相手はふわりと体重を感じさせない動きで立ち上がった。瞬きの後、コウの目の前に現れた相手は彼の目を手のひらで覆った。白く美しい、柔らかで温かい手だった。

 その手が離れ、もう一度相手の顔を見て、コウは首を傾げた。何かが違う。周囲を見渡して、すぐにその理由に気づいた。炎を模した飾りはくすんだ金。柱は白木のまま、それでも滑らかに削られた跡はいまだに美しい。振り返ればまるい池、その向こうには緑の森。全てが鮮やかに見えた。

 声もないままコウが視線を戻すと、相手が艶やかに微笑んだ。

ちぎりの対価だ。そなたが寄進を続ける限り、その瞳はそなたのもの。けれど契りをたがえれば、そなたは得たものより大きなものを失うことになる」


 理不尽なそれは契りというよりは呪いであるようにも思えたが、そうとは口には出さなかった。初めて目にした外界のあまりの美しさに目を奪われていたがゆえに。それでも一つだけ、コウは忘れる前にそれを尋ねる。

「あなたを何とお呼びすれば?」

「好きに呼べ……と言いたいところだが、見えぬ中で生きてきたそなたではな」

 何が、と問いかける間もなく、相手はコウの手を取ると、その手のひらに透き通ったかけらを載せた。表面が綺麗に磨かれたそれはちょうど目の前の相手の瞳に浮かぶ光のような輝きに満ちていた。

あき。遠い昔はそう呼ばれていた。もう誰も覚えていないだろうがな」


 きらきらと光る石に目を落とし、視線を戻したときにはもうそこには闇があるだけだった。

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