もっと!ポイエーシス

てると

社会というエゴイズムについて

 健康とは、なんだろうか。

 私は不健康だったので、健康のことを気にかけて暮らしてきたが、ある程度回復した今、健康ということがわからなくなった。

 また、思うことがある。私は、自分らしさを失うことで、それとの取引で健康になれるようだ。

 教養、ということは聞こえはいいけれど、実際には、過去からの履歴の長い記憶に覆い被せて、古い自分に死に、新しい自分に生きることだ。

 これを私は、「愚かになることではじめて成長できる」と言い慣わしてきたが、果たして、それは良かったことなのだろうか、疑問符がつく。

 だから、私は、古い自分に死んだと言っても、その死人の遺した一つ一つの言葉、思い、良心、純粋さ……。そういったものを大切に引き継ぎたい。

 それはきっと、重荷を捨てずに背負い続ける、ということだろうが、この重荷を背負って言葉を紡ぎ、行動を起こすことが、きっと誰かまだ見ぬ子どもたちの最も幸せな自由に寄与できるのだ。パウロのエゴイズム。

 去年、ドストエフスキーとユングを読んだが、彼らはまさにある重荷を捨てなかったからこそ、仕事ができたのではないか。言語性で戦っていく人が、重荷を捨ててしまったら、ただの空虚な教養主義に堕ちてしまうんじゃないか。そんなことを考える。

 もっと凄いのは、生の哲学で戦った、ショーペンハウアーやニーチェという人たちだと思う。キルケゴールも、彼の哲学が彼の親から始まったことを考えると、そうだろう。彼らも、重荷を捨てなかった。あまりにも重荷を捨てなかった。ニーチェは、まさに彼の生の根源に重荷を委ねることを拒絶して超克しようとした。キルケゴールは、重荷を委ねる先が呪いの絶望だった。

 しかし、メンヘラ芸や、憎悪、なんていうのは、既に純粋さを失ってしまった高校生が、無理に自分の実存の根拠を確保しようとする意味のないあがきだ。子どもたちの楽しみというのはそんなところではなく、楽しいゲームを自由にすること、親の意向で他の子どもたちに対して引け目を感じないこと、そんなところにあるような気がする。

 もっと自由に、楽しく。我欲すという意志は、やがて幼子の精神になるという。幼子は、表象の世界に遊ぶ。そこでは、夢の中か、現実か、ということは問題にならない。しかし子どもも、ゲームの中で楽しむことと、現実ですることの区別をよく知っている。ゲームという夢の中ですることが現実と変わりないと言うなら、それは愚かな大人が子どもからゲームを取り上げるのと同じになってしまう。子どもは既に愚かではない。大人にもその基本は生きながらえているので、大人も、意識なんかで制御しなくたって、誰に対してはどんな対応をするのか、よくわかって使い分けている。しかもそれは作りものではない。人間は、賢い。

 私は、そんな人間の、目に見えないところの賢さに信頼して、しかもより楽しく自由な、そのうえで言葉にしなくてもよい愛のある、そんな希望を抱いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る