69:砕け散ったもの

 秋のある朝。

 朝食を終えた空は、朝だというのに縁側で一人黄昏れていた。

 膝の上にはフクちゃんが乗っているが、今日はもみもみする気分にならない。ならないというか、怖くて出来ないのだ。

 フクちゃんは元気のない空を心配そうに見上げてピ、ピ、と小さな声で鳴いている。

「フクちゃん……ぼく、もうフクちゃんをもみもみできないかも……」

「ピッ、ピピッ!」

 空がしょんぼりした声で小さく呟くと、フクちゃんが励ますようにその手にフワフワした体を擦り付ける。その温かさに思わず空の手が上がるが、しかしそれはしばし迷ったあとやはり引っ込められてしまった。

「空、元気を出すのだぞ。大丈夫だ、すぐに慣れる」

「うん……」

 座り込んで背を丸める空に、やって来たヤナが優しく声をかけた。

「ほら、おやつだ。今日は芋の入った蒸しまんじゅうだぞ」

 ヤナが持ってきた大皿には、白と黄色の固まりが幾つも載っていた。ふかふかに蒸された白い生地に四角く切られたサツマイモがゴロゴロ入っている饅頭だ。漂う甘い香りに空はすんすんと鼻を動かし顔を上げた。

「早生の芋をご近所から貰ったそうだ。食べるだろう?」

「うん!」

 大人の拳くらいありそうな大きな饅頭を見て空は目を輝かせ、頷いて両手を差し出した。ヤナがその手に饅頭を一つ載せてくれる。

 空は両手で饅頭を持って、あーんと大きく口を開き――次の瞬間、饅頭はぐしゃりと手の中で潰れて千切れた。空はバラバラになってこぼれた饅頭を見て悲鳴を上げた。

「あーっ!!」

「……手づかみもダメだったか」

「ぼ、ぼくのおまんじゅう……ううう、うわぁああん!」

 朝食の席で三組の箸をへし折り、二本のスプーンをダメにした空は、ぐしゃぐしゃになった饅頭を前についに泣き出した。

 空の精神年齢は実年齢よりは高いはずだが、食べ物に関してだけはいつも著しく低下してしまう。ここ数日で溜まった不安やそれによるストレス、そして四散した饅頭への悲しみで、空はボロボロと大粒の涙をこぼした。



 そもそもの始まりは数日前。

 朝夕の空気が段々と涼しく感じるようになってきたある朝の事だった。

 空は特にいつもと変わりの無い目覚めを迎え、ヤナに声を掛けられて起き上がった。朝ご飯の香りにお腹を鳴らしながら布団から出て、洗面所へ向かおうと廊下に通じる障子戸に何気なく手を掛け――そして、その縦の枠木を、バキリとへし折った。

「……え?」

 空が手をかけた部分の木が何故か内側にひしゃげるように折れ、障子紙も破けてしまっている。

 何が起こったか良くわからなかったが、空はとりあえず慌ててヤナや雪乃に声を掛けて見てもらい、戸が傷んでいたのかもという話でその時は収まった。その日はそれ以降特に何も問題は出なかったからだ。


 しかしその次の日。

 空はいつものように朝ご飯を食べようとうきうきと箸を握り、そしてその箸をバキリとへし折った。木製の子供用の箸は真ん中から真っ二つになり、空は口に運ぼうとしていたご飯をポロリと落とし、呆気にとられて自分の手を見つめた。

「……えええ?」


 それ以降。

 空は僅か二、三日の間に毎食箸を一本は必ずへし折り、木で出来ていたスプーンもへし折り、トイレのドアノブや障子戸も一つずつダメにした。

 換えの箸は雪乃が割り箸を短く切りそろえてすぐに用意してくれたのだが、スプーンやドアノブはそうもいかない。

 しかもその換えの箸もちょっと油断するとすぐにへし折ってしまう。スプーンも金属の物を用意して貰ったが、そちらもぐにゃりと曲げてしまう結果になった。

 驚くやら申し訳ないやらで、空はすっかり家の中で何か持つのも歩き回るのも怖くなって、縁側で小さくなっていた、という訳なのだ。


 そしてついには大事な十時のおやつまで四散させてしまった。

 家族は別に気にしていない様子なのだが空にとっては一大事だ。美味しそうな饅頭がバラバラになった事はとても悲しかった。

「空、そう泣くな。柔らかい饅頭だったのだ、仕方なかろう」

「うえっく、ふえぅ……」

「ほら、空、あーん」

 膝にこぼれた饅頭の欠片をヤナはひょいひょいと拾い、その一つを空の口の中にむぎゅっと押し込む。

「んむ……」

「ほら、多少崩れても味は変わらぬだろう? 美味しいか?」

「おいひい……」

 サツマイモの優しい甘みが口の中に広がり、こぼれていた涙がそれにつられて引っ込んだ。

 ヤナは手ぬぐいを出して空の涙を優しく拭ってくれた。

「ヤナちゃん……ぼく、どうしちゃったの?」

「ほら、もう一つあーん。ふむ、どうしたかと言えば……空はな、この田舎で過ごす事で、すっかり年相応に元気になってきたのだぞ。今まで全く足りていなかった魔力が十分体に回るようになって、それによって体自体も丈夫になってきて……それで、多分ちと余りが出るようになったのだ」

「あむ……あまり……」

「はい、あーん。その余りをどこに回してどんな風に使うか。まだ空の体はそれを自分で上手に操ることができておらぬのだな」

「あーん……そういうの、みんなできるの?」

「普通はな。明良や結衣と手を繋いでも、空の手が痛いなんてことはなかったろう?」

「うん」

「空のは、器が大きく魔力が多い子供に出やすい症状だ。特に空は今まで全然足りてなかったものが急に満たされたからな。空が順調に回復し、成長している証のようなものなのだぞ」

 空はその話に少しだけ安堵した。ヤナも幸生らも空が何を壊しても怒らずニコニコしていた理由が少しわかった気がして息を吐く。

 今思えば、少し前に沢田家に出かけた時、葡萄や卵を握りつぶしてしまったのもその始まりだったのかもしれない。


「……ぼくも、できるようになる?」

 自信なさげに空が呟くと、ヤナは空の口に新しい芋饅頭を千切って放り込んだ。

「うむ。心配するな、空。何もせずとも、そのうち体の方が勝手に調整するようになるのだぞ。多少物を壊しても、直したり取り替えたりすれば良いのだから気にするな」

「そうよ、空」

 不意に雪乃に声を掛けられて空は顔を上げた。

 朝食の後に出かけていた幸生と雪乃がいつの間にか目の前に立っていた。縁側にいる空を見つけてそのまま庭に回ってきたらしい。

 雪乃は空の頭を撫でると、手に持っていた風呂敷包みを空の膝に乗せてそっと開いた。

「……おはし?」

 風呂敷に包まれていたのは、子供用の箸とスプーンだった。

「そう、スプーンもね。これなら壊れないから、もう安心よ」

 しかし空はそれを手に取らなかった。どう見ても素材が木に見えたからだ。すでに何本もへし折った身としては、さほど変わりなく見える箸を手に取る勇気が出ない。

「ぼく……またこわしちゃう」

 空がそう言うと、今度は大きな手が伸びてきて空の頭をそっと撫でた。

「それは善三が作ったやつだ。折れたりはせん」

「ぜんぞうさんの……おれないの?」

「ああ。善三はそんなもん一本で熊も倒す」

「く、くま……?」

「ああ」

「そうよ、空。善三さんに細い竹でもうんと丈夫になるように魔法を掛けて貰ったから、ぎゅっと握っても大丈夫よ」

 空は二人に励まされ、恐る恐る箸を手に取った。小さな手にしっかり持って、ぎゅっと握ってみる。竹製らしい箸は空の手にきちんと収まり、どれだけ握っても折れる様子はなかった。

「……おれない!」

「うむ」

「良かったな、空。これで安心してご飯が食べられるぞ」

「うん!」

「お家のあちこちも、後で村の大工さんに直してもらって、ちょっと丈夫にしてもらうわね」

 雪乃の言葉に空の顔にやっと笑顔が戻る。

 新しい箸とスプーンを嬉しげに見つめ、安心した空は自分のすぐ横に置いてあった皿の上に半ば無意識で手を伸ばした。

「あ、空、待て!」

 ヤナがあげた制止の声は残念ながら間に合わなかった。口を開けた空の眼前で、芋饅頭がもう一つぐしゃりと形を変え――

「ふっ、ふええぇ……」

 ――結局この日、芋饅頭をひな鳥のごとく口に運んでもらい、空は鼻を啜りながらそれを食べる羽目になったのだった。

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