59:晴天に飛ぶ
「あ、ねぇそらちゃん、みて、これすごいよ!」
カブトムシ取りの見物などすっかり忘れて葉っぱ探しに夢中になることしばし。
結衣が声を上げて差し出した葉を見て、空は目をぱちくりとさせた。結衣の手に握られた白詰草は、もはや緑色の菊か何かのように数え切れないくらいの葉が重なっている。
「ほんとだ……いくつあるか、ユイちゃんかぞえられる?」
「むり! わたし、まだにじゅうまでしかわかんない!」
「にじゅうでもすごい……そのはっぱがゆうしょうだね!」
今日一番の葉がもう決まってしまったが、そこまで葉が多いといっそ勝ち負けなど超えて別の植物に出会ったような謎の感動がある。
「ぼく、かぞえてみたい」
「いいよー、ハイ!」
空はそれを結衣から受け取ると、いち、に、と真剣に葉を数え始めた。
自分の勝ちが決まった結衣はその姿を微笑ましく眺めていたが、突然聞こえた大きな声とドスン、と響いた音にふと顔を上げた。
「えっ」
結衣の視界に飛び込んだのは、こちらに向かって転がってくる茶色くて大きな何かだった。その正体を考える間もなく、それはすごい勢いでこちらに近づいてくる。反射的に結衣はしゃがみ込んでいる空の腕を引っ張って立ち上がらせた。
「そらちゃん、あぶないっ!」
「えっ、わっ!?」
急に引っ張られて体勢を崩した空を結衣が抱き留める。結衣はそのまま空を持ち上げ逃げようとしたが、しかしそれは間に合わなかった。
「きゃあっ!」
「うえっ!?」
結衣に半ば抱き上げられた空の背に、ドンッと何かが激しくぶつかった。しかし衝撃だけで、不思議と痛みはなかった。それはもちろん草鞋のおかげだったのだが、痛みはなくとも衝撃と速度は殺しきれず、その何かに押されて結衣の肩に空の顔がぎゅむっと埋まる。
お互いにしがみ付いたまま体が勢いよくぐるりと回り、結衣と空はぶつかった何かと一緒になってごろごろと地面を転がった。
「ひきゃぁぁっ!?」
草むらを転がる結衣の悲鳴が耳元で甲高く響く。
ぐるぐると上下もわからないような衝撃が何度か続き、そしてそれは始まった時と同じように唐突に終わった。
(と、止まった……?)
空は動かなくなった体に安堵し、恐る恐る目を開けた。目の前には結衣のピンク色のTシャツの肩と緑色の草むらが見える。どうやら倒れた結衣の上に乗り上げてしまっているらしいと、空は身じろぎをした。しかし何故か体が思ったように動かない。
「ユイちゃ……」
結衣に声を掛けようと顔を少し上げた時、空の後ろに視線を向けた結衣がパカリと口を開けた。
「きゃあぁぁ!!」
再び上がった大音量の叫び声に、空の体がビクリと跳ねる。空は結衣が視線を向けている方に、恐る恐る振り向き――
「ぴきゃあぁぁぁっ!?」
――次いで同じく盛大に叫んだ。
なんと、空の背中に巨大なカブトムシががっしりとくっついている。
地面に倒れ込んだ空と結衣にカブトムシが覆い被さる状態になっているのだ。
間近で見る巨大なその顔に空の意識が遠のきかける。カブトムシも戸惑っているのか動きを止めているが、それでも余りの大きさにもうチビってしまいそうなほど怖い。
キチキチと動く口と触角のどアップが心底気持ち悪いと思うのに怖すぎて逆に目も逸らせず、空はハクハクと口を開け浅い息を吐いた。
「結衣、空ー!」
「そらー!!」
遠くから武志らが呼ぶ声が聞こえる。
その声に結衣はハッと我に返り、空を掴んでいた手をさっと持ち上げた。
「やだもー! あっちいって!!」
叫びと共にその手の先に炎が灯る。
「ほのお!」
言葉と共に放たれた炎の玉は、至近距離でカブトムシの口元にボンッと当たった。それを嫌がったカブトムシが背を反らしのけぞる。すると空の体がぐいっとそちらに引っ張られた。
「ぴぇっ!?」
ぎゅっと後ろに引っ張られて空は慌てた。急いで自分の体を見下ろせば、カブトムシのとげとげしい足が空の甚平の脇辺りに引っかかり、しっかりと絡みついている。
外して逃げなければと手を伸ばすより先に、ブゥンと言う低い羽音が耳を打った。
「ヤバい、とぶぞ――」
誰かの叫ぶ声が聞こえる。
カブトムシの羽音が強くなり、引っかかったままの空の体がふわりと宙に浮いた。
「そらちゃん! やだっ!」
結衣が慌てて空に手を伸ばし、甚平の襟を強く掴んだ。
体が浮いた恐怖に空も手を足をばたつかせ、結衣の手を取ろうとして、その腕を見た。
そして空は気が付いた。ピンク色のTシャツから伸びた肘が擦り剥け、赤い血が滲んでいる事に。
(ユイちゃん、怪我!? そうだ、わらじ……履いてない!)
あれだけ転がってもカブトムシに下敷きにされても、空の体には怪我どころか痛いところの一つもない。それは空が草鞋に守られ、そして結衣に守られたからだ。しかしその結衣は空と同じ草鞋を履いていない。
結衣が村の子らしく空よりはるかに強くて丈夫とはいえ、怪我をしないなんてことはないのだ。
カブトムシが更に浮き上がり、空に掴まった結衣の足もふっと一瞬浮く。空は結衣の体が浮き上がって揺れたのを見た瞬間、覚悟を決めた。
「ゆいちゃん、だめ!」
空はパシッと結衣の手を下からせいっぱいの力で弾き、己の服から外させた。
「そらちゃんっ!?」
どさりと尻餅をついた結衣が必死で手を伸ばすが、その手はもう空には届かなかった。
(僕は、多分、きっと、大丈夫……!)
「空!」
「そらーっ!」
武志と明良の声を足下に聞きながら、空の体が高く高く持ち上がる。
どこか痛めたのか空という重しがあるせいか、カブトムシの飛行はぐらぐらと不安定に激しく揺れた。空は揺れる視界に半ば目を回しながら、眼下に広がる草むらを、少し離れた家並みを、そして青空を見て、耐えきれず固く目を瞑った。
(怖いっ、怖い怖い怖い――じぃじ! ばぁば! パパ、ママ、ヤナちゃん――誰か……誰か)
助けて、と強く思った次の瞬間――
カッと突然胸が熱くなり、その熱が失われる寸前の意識をつなぎ止める。空は驚いてうっすらと目を開けた。
「っ!?」
しかしすぐに視界を焼いた眩しさにまた目を瞑る。胸元から真っ白な光が迸り、まるで太陽でも抱え込んだかのように熱く眩しい。それなのに空の体は何故か貧血でも起こしたように、手足の先からすうっと冷えて行く。
もしかして死ぬのだろうか、と空が思ったその刹那、ビュンッと一筋の鋭い風が頬をかすめ、空の背後のカブトムシに突き刺さった。
何が起こったのか空にはもうわからなかった。
ただかろうじてわかったのは、ギィッという叫びのような音が聞こえたすぐ後、空の体は上へと引かれていた力を失い今度は下に向かってぐるぐると回りながら落ちた事。
そして今度こそ耐えきれず気を失うその瞬間に、何か柔らかな物に受け止められたような、そんな気がしたことだけだった。
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