夢の宮殿
イソラズ
鷾空図 過去話
いつからか、そこに居た。
───四角形の部屋で、僕はその部屋唯一の家具である小さなタンスと、その上に乗った水槽を眺めていた。
水槽は、触ると少しだけひんやりとする。
大きさは·····、縦に三十センチ、横五十センチ程だろうか。
僕は昔から生き物が好きだから分かるが、水槽の中ではやや小さめの部類に入る。
水槽の中には、黒い砂利が敷かれ、物言わぬ小さな水草が生えている。
そして、その水草の上を、赤いヒレをひらひらさせた魚が泳ぐ。
ベタという種類だろう。
グッピーよりも大きく、品のある泳ぎ方をする魚だ。
その美しさから様々な品種改良がなされており、非常に多くの色と形を持っている。
魚が·····ベタが水の中を泳いでいる。
もうさすがに見飽きたので、僕は部屋の窓の方に向き直った。
だが、窓から見える景色は、とても日常と言えるようなものじゃなかった。
·····部屋の外には、何も無い白い大地が続いている。
本当に何も無い。
地面なんて、まるでまだ絵の具に侵されていないキャンバスの様な色をしている······つまり白だ。
升目を書けば、きっと良い方眼用紙になるだろう。
───とにかく、そんな地面が地平線まで伸びている。
そしてその上には、青黒くて半透明で、雲一つない、宇宙のような空が覆っている。
巨大で、自分という存在が包み込まれて潰されそうな、そんな恐ろしい青色だ。
この部屋の外に出たことは無いが、きっと僕の居る部屋は、この海の底のように青黒い空と、どこまでも続く広い白紙のノートの上に立てられているんだろう。
四角くて、何も無い部屋。
あるのは一つの窓と、ベタの入った水槽と、それを乗せるタンスだけだ。
僕がここに居るのには、多分理由があるんだろう。
·····水槽を泳ぐベタを見て、僕はそんなことを思った。
僕がここに来てから、もうしばらく経つ。
ここに来たばかりの頃、僕は非常に困惑した。当たり前だ。
目が覚めたら、こんな所にいたのだから。
でも、何日かするうちに、自分の中からどんどんと記憶が消えていった。
自分の名前、家族の顔、家、自分の生きてきた人生·····。
全部が、まるでドライアイスから出る煙かなにかみたいに、溶けてしまった。
だから、僕は今自分が何者か思い出せないまま、窓の外を見たり、水槽で泳ぐベタを見たりしている。
「あー·····」
ベタを眺めていると、時間が飛ぶように過ぎていく。
もしかしたら僕は、自分をベタに重ねてるのかもしれない。
ベタも僕も、自分が何者なのか知らないまま、日がな一日泳いでいる。
·····いや、別にベタは自分が何者かなんて考えないか。
だが、僕は密かに、このベタが僕と同じように、外から連れてこられた憐れな魚であることを祈っている。
人は自分以外の被害者がいるだけで、なんだか安心するものだから。
ベタがパクリと泡を吐いた。
僕も意味なく息をした。
空の上は青黒い。
どこまで行っても青黒い。
それしかないし、それだけでいい。
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