第6話 メイドのルーナ

「ま、待ってくださいフレン様……っ!」


 神殿を出た僕を追いかけてきたのはルーナだった。

 彼女は息を切らしながら、困惑と心配が入り混じった表情で僕を見つめている。


「ん、どうしたのルーナ?」

「どうしたのじゃありませんよ! 一体どうなされたのですか。あの態度と言い、口調まで……まるで別人のようではありませんか」


 なるほど、僕が見せた変わりように驚いているのだろう。

 確かに、僕自身も驚いている。スルースキルを手にしてから、まさかこんなふうに心が冷めてしまうなんて。


「まぁ……スキルのせいでこうなったみたいだよ」

「スキルのせいで……?」


 ルーナは目を見開き、少し理解できないというように首を傾げる。

 あまりにも簡潔に言いすぎたかと思い、もう少し丁寧に説明してみるものの、彼女の戸惑いは消えないようだった。

 心配性な彼女はしばらく黙り込んだ後、やがて思い詰めた顔で口を開く。


「なるほど……分かりました。では今から私が掛け合ってみます。そんなことでフレン様が家を追い出されるなんて、あまりにも酷すぎます」


 ルーナの必死な言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 けれど、彼女のその気持ちとは裏腹に、家族にとっては僕の選択がどうしても受け入れられないものだということもわかっている。


「ありがとう、ルーナ。でも……掛け合わなくてもいいよ」


 僕はそう言い、彼女の肩にそっと手を置いた。

 気持ちは本当にありがたい。

 でも、家族がこれを聞き入れるとは到底思えないし、何を言ってもまた些細なことで難癖をつけ、僕をさらに追い詰めるだけだろう。


 世間体や家の名声を守ることにこだわるあの人たちと一緒に暮らしていく未来が、どうしても見えない。


「で、ですが……」


 ルーナは悲しそうに目を伏せるが、それでも何か言い返そうと口を開きかけた。

 しかし、僕は静かに微笑んで彼女の言葉を遮った。


「大丈夫だよ、一人でも生きていけるから」


 そう言う僕の口調に、少しの不安も迷いもないことに彼女は気づいたのか、戸惑った表情で僕を見つめる。


「でも、フレン様……一人で生きていくなんて……」

「うん、もう決めたんだ。ありがとう、ルーナ。僕のことを思ってくれて……でもね、もう、これでいいんだ」


 ルーナはなおも言葉を飲み込めないようだが


「そうですか……分かりました」


 静かに頷いた。

 何気なく言った言葉だったが、彼女には伝わったようだ。


 これまでの僕は、いつも物事を複雑に考えすぎていたのかもしれない。だから言葉に詰まり、自信のないように見えてしまっていたのだ。スルースキルのおかげで周囲の評価を気にせず、自分の意思を貫ける。これからの人生に、きっと役立つだろう。


「それでは、これを受け取ってください」

「えっ、これは……?」


 ルーナが差し出したのは金貨一枚。

 りんごが銅貨一枚分だとすると、金貨では千個も買えてしまう大金だ。


「いやいや、受け取れるわけないじゃないか」

「どうしてですか?」

「どうしてもなにも……ルーナにとっては大金だよ」


 貴族にとってはさして大きな額ではないが、庶民であるルーナにとっては貴重な財産のはずだ。そんなものを受け取るなんて、さすがに気が引ける。


「これから没落貴族気分を味わえるんだから、金なんていらないさ」

「もう、またご冗談を」


 と、ルーナは微笑む。

 あれ……彼女はこんなに過保護だっただろうか。

 妙にしっかりした口調で、僕のことを放っておく気がなさそうだ。


「フレン様、旅の途中で万が一食べる物がなくなったらどうするんです? 食べ物は意外とお金がかかりますし、お身体を壊されたら大変です」

「いや、そんな簡単に倒れないよ……なんとかなるって」

「ダメです。旅の最中は何があるかわかりません。ですから金貨一枚では不安なので、こちらもどうぞ」


 そう言ってルーナはもう一枚、金貨を差し出してきた。


「だから要らないって」


 僕が呆れて拒否すると、彼女は真剣な顔で続ける。


「道中は疲れるでしょうから、しっかりと宿を取りなさい。野宿なんて絶対にさせませんから」

「なんで急に命令口調なの? お母さんなの? 野宿くらい……まあ平気だよ。少しぐらいならどうってことないし……」

「いけません。フレン様は貴族でいらっしゃるのですから、それにふさわしい生活を心がけてください。ですので、ちゃんとした宿に泊まり、十分に休養を取ることが大切です」


 どこまでも気を配るルーナに、さすがに圧倒されてしまう。


「それに、この予備のマントもどうぞ。寒い夜にはしっかり包まってくださいね。それから、これもお持ちください」


 彼女が取り出したのは、食料の保存用に丁寧に包まれた小さな包みや、道具のセット、薬草まで詰め込んだ袋。

 まるで出発前からすでに冒険の準備を万全に整えてくれているようだった。


「なんでここまで準備がいいの?」

「いつかフレン様がお出掛けになる時のことを考えて、前もって準備をしていました」

「お出掛けのレベルが高すぎるよ。家出なら分かるけど」


 前までの自分なら、ツッコミどころ満載の旅支度に圧倒されていたんだろうなと思ってしまう。だけど、ルーナは困ったような表情で笑っていた。


「ご家庭でのフレン様はとてもお辛そうでしたから、これを持って逃げてくださらないかとずっと考えていました。私は貴方のことがずっと心配だったのです」


 僕は勘違いをしていた。

 これはルーナだからこその気遣いだったのだ。


「そっか、ごめん気付いてあげられなくて」


 そして、僕は彼女に言った。


「ルーナ、君の優しさに何度も救われたんだ。だからこれ以上迷惑をかけたくない……気持ちは分かってくれないか」


 ルーナは一瞬ためらい、そして小さく頷く。

 そして、彼女が柔らかな声で言った。


「今のフレン様は……とても素敵ですね。立派になられました」

「そうかな。性格が悪くなっただけだと思うけど」

「いいえ、毅然とした立ち振る舞いはまるで剣星様のようです」


 自分では気づかないうちに、大人としての自分が少しだけ顔を出しているのかもしれない。とはいえ、女性に褒められてばかりでは気恥ずかしい。


「僕なんかよりも、ルーナの方がずっと素敵だよ」

「まぁ……」


 ルーナがほんの少し照れたように視線を逸らす姿が、妙に可愛らしい。

 彼女は強くて優しい心を持っていて、いつも僕の弱さに寄り添ってくれた。

 僕にとって、彼女はまるで英雄のような存在だったのだ。

 だから、思わず素直な気持ちが口をついて出た。


「強くて優しいルーナのことは、ずっと好きだったよ」

「……っ!」


 ルーナの整った顔が一瞬で赤く染まった。

 彼女にしては珍しい反応だ。何かあったのかと思うほどに。


「ずっと一緒にいたかったし、離れるのは正直、寂しい」


 これまでは恥ずかしくて言えなかったことだが、素直に伝えるなら、こういう言葉がいい。

 僕はそう思いながら、ようやく本当の気持ちを伝えることができた。


「そうでしたか……」


 彼女は一瞬呆れた顔をしつつも、心の底から喜んでいるようだった。

 僕の言葉に笑顔を浮かべたその表情は、ただ真っ直ぐな温かさに満ちていた。


「……では、フレン様」

「ん? どうしたの、ルーナ?」

「私も、お供させていただきますね」


 突然の申し出に、思わず目を丸くした。

 まさか彼女が同行を申し出るとは——いや、ここはスルースキルで断ってみせる。


「いやいや、ルーナは家に残るべきだよ。僕はどこへ行くかもわからないし、危険な旅になる。君に迷惑をかけたくない」

「フレン様が本当に私に迷惑をかけたくないと思っておられるなら、そもそもお一人で無謀な旅に出ようとなさらないのでは?」


 ……鋭い。

 思わず怯むが、ここで引き下がるわけにはいかない。


「そうは言っても、僕にはスルースキルがあるからね。危険は自分で回避できるし、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」

「そのスルースキルで“回避”するというのは、具体的にはどういうことですか?」

「文字どおり、危険な場面を避けたり、やり過ごしたりする」

「なるほど。つまり、フレン様は“困っている人も、助けるべきことも、すべてスルーして”進むつもりと?」

「え、そんなことは」


 僕は言葉に詰まった。ルーナの視線はさらに鋭くなる。


「一つお聞きしますが、貴族としての義務を果たすべき場面で、フレン様がそれを“スルー”して通り過ぎたとすれば、それは貴族としてあるまじき姿だと思いませんか?」

「……それは危機回避のためにそういうことは、しないつもりだけど」

「“つもり”ではなく、断言できますか?たとえスルースキルがあっても、目の前で困っている人を見過ごすことなどしないと、はっきりおっしゃることができますか?」


 ルーナの真剣な瞳に見据えられて、言葉が出ない。

 確かにスルースキルを持っていると、無意識に周囲の面倒事を避けようとしてしまう傾向があるのも事実だ。

 回避スキルをもってしても、彼女の視線から逃れられない。


「フレン様、どうかご理解ください。貴族の義務を果たさず、“スルー”して歩くなど、許されるはずがありません。それを避けるためにも、私が一緒に行く必要があるのです」


 ルーナのまっすぐな視線が僕に突き刺さる。

 その表情には、一切の迷いもなく、彼女の言葉一つ一つが鋭く胸に響いてくる。


「……ルーナ、君は本気なんだね」

「はい、フレン様。たとえスルースキルで多くのことを回避できるとしても、貴方が本当に“何もかもスルーするだけの人”であってほしくないんです」


 ルーナの真剣さに、僕はついに降参する気持ちになった。

 スルースキルを持っているからといって、彼女のような人の思いまでも無視して生きていけるわけではないらしい。

 もしかすると、このスキルの使い方次第で、僕自身の本質が問われてくるのかもしれない。


 心の奥でひそかにため息をつきながらも、僕は自然と微笑みが浮かんでいた。


「……わかったよ。そこまで言われたら、ついてきてもらうしかないな」


 ルーナは満足そうに微笑んだ。

 どうやら、スルースキルも万能というわけではないらしい——少なくとも、彼女の前では。

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