第2話 絶望の中に吹く風

 だいぶ遠くまで走ってきたような気がする。

 住み慣れた街並みではない、人気のない工場地帯に迷い込んでいた。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 膝に手を着いて息を整える。

 かつてこの辺りは活気に溢れた地帯だったらしいが、見渡す限り閑静な雰囲気でとてもそうだったとは思えない。

 だが今の僕には好都合だった。

 目についた廃工場の門を跨いで乗り越え、敷地内に侵入する。


「……ここなら大丈夫かも」


 やはり人の気配はない。

 走り続けで両足は小刻みに震えている。

 やり過ごすだけなら十分な場所かもしれない。


「よし……」


 意を決して薄暗い工場内に入っていく。

 設備が稼働していないためか、或いは緊張の糸が張り詰めているせいか、慎重に歩いているはずなのに足音が敏感に聞こえる。

 奥まで歩いていくと、検査室の表札が貼られた扉を見つけた。

 ガラス張りになっていて中を見通せる――人はおらず、放置されたままの設備が綺麗に残されていた。

 ゆっくりと検査室に入り、扉の内鍵を閉め、動かせるテーブルや椅子でバリゲードを固める。

 そこまでしてようやく、全身の力が抜けて床にへたり込んだ。


「……はぁー」


 長く息を吐き捨てる。

 そのまま寝転がりたかったが、いつ化け物が来るか分からない。

 せめて抵抗するために使えるものはないか、部屋の中を物色する。


「スマホは教室だし、この部屋に電話はあるけど……内線じゃダメか」


 外部との連絡は取れそうにない。

 工場にいるので鉄パイプなど武器になりそうな金属類はないか探すが、部屋の中には置いていなかった。

 また、部屋に来るまでの道中、設備こそあれど工具の類は見当たらなかった。

 どうやら抵抗する際に使えそうなのは、バリゲードに使わなかった余りの椅子ぐらいしかないらしい。


「外、どうなってるんだろう……」


 部屋の奥にある窓から外を眺める。

 辺りは暗くなっていて、もうすぐ夜が来るのだと分かる。

 それ以外に得られる情報といえば、この廃工場の敷地は思ったよりも広いということだけだった。

 化け物に見つからないようにブラインドを閉める。

 やる事がなくなり、途端に脱力感に襲われる。


「……父さんと母さんは無事かな」


 脳裏を過ぎるのは、僕に襲い掛かる圭一の姿。

 どう見ても正気を失っていた。

 まるで何かに取り憑かれたかのような、異様なオーラを放っていた。

 もし父さんと母さんがああなっていたら? ――考えたくないけど考えてしまう。


「僕は、これからどうすれば……」


 今日をここで上手くやり過ごせたとして、明日になったら警察や自衛隊が僕らを助けに来てくれるだろうか。

 あの化け物たちを対処してくれるだろうか。

 何も分からない。

 とにかく今は耐えるしかない。


「……お腹、空いたな……」


 ぼつりと呟いて寂しく消え入る。

 1人で過ごすことは今まで何度もあったのに、こんなに心細くなるなんて想像もしてなかった。

 朝食べたご飯の味が恋しい。

 今日起きた出来事の全てが夢なんじゃないかと疑うほどに。


「……母さん――――」


 そう呼んだが最後、僕は疲労の限界に達して瞼を閉じた。

 横になってから意識を手放すまでに大して時間は掛からなかった。


***


 夢を見た。

 現実だと信じたいぐらい幸せな夢だった。


 夕方、学校から帰ってきた僕が部屋に戻って部屋着に着替え、父が帰ってくるまで今日出た課題をさっさと解いていく。

 そうして外が暗くなった頃に父が帰ってきて、母が夕食の時間だと大声で伝えてきたのをキリにして、リビングにあるテーブルに着いて、家族3人で食卓を囲う。

 食事を終えた僕が皿を洗い、終わるとすぐに風呂に入って今日の汚れを洗い流す。

 さっぱりして父と入れ違いに洗面台に立つと、歯を磨いで口をゆすぐ。


 僕が鏡を見た。

 風呂上がりの比較的綺麗な顔を見た。

 満足そうに笑っている。

 そんな僕を見て、僕もつい嬉しくなる。


 部屋に戻って課題の残りを済ませた僕が、両親におやすみを伝えて自室の電気を消し、ベッドに横になって深く布団を被る。

 冷たい外の空気に晒された身体は暖まり、段々と心が和らいでいく。

 そうして穏やかに眠りに就く。

 夢の中の世界は平和に終わっていく。


 そうして夢を見た僕は、いつしか悲しくて涙を流していた。


***


「――――ん……」


 床の冷たさで目を覚ます。

 部屋は真っ暗で、夜になったのだと理解する。

 ぶるっと身体を震わせながら、むくりと身体を起こし、寝ぼけ眼を少し擦った。

 瞬間、


「――アァァァァァッ‼」

「……っ⁉」


 我に返って顔を上げる。

 ガラス張りの壁にべったりと張りつく化け物の大群を見て、心臓が早鐘を打つ。

 一瞬だけ夢だと思いたがったが、耳にこびりつくほど聞いたその唸り声ですぐに現実に引き戻された。

 数え切れないほどの化け物が検査室に押し寄せている。

 僕はその理由を瞬時に悟る。


「もう見つかったのか……⁉」


 物音は立てていないはずなのに、どうして。

 疑問を頭の片隅に追いやり、ひとまず外に出ようと背後の窓を振り向いた。


「ウァァァァァッ‼」

「ひっ!」


 化け物が窓を外から叩く。

 不気味な赤色の眼がブラインドの隙間から僕を捉えているのを感じ取る。

 前後を化け物で塞がれ、完全に逃げ道を失う。

 迫りくる死を急激に実感して、震え出した手を制御できなくなる。


「そんな、そんな……」


 助けを求める手段はない。

 部屋に入ったとき確認したはずだ。

 となれば、今の僕に残された選択肢は2つ。


 諦めて死ぬか。

 最期まで抵抗して死ぬか。


「――アアアアアアッ‼」

「……っ!」


 窓が割れる。

 化け物が部屋の中に身を乗り出し、入ってこようとする。

 僕の身体は咄嗟に使っていなかった椅子を掴んでいた。

 床に引き摺りながら振り上げて、


「くそぉっ!」


 情けない悲鳴を上げながら、化け物の顔面に強く叩きつけた。

 そのまま椅子を頭上から化け物にぶつけ、肉塊を叩き潰す感覚に身悶えしながら必死に侵入を防ぐ。

 何回も、何回も。

 化け物が腕を掴もうとするよりも速く、その柔い頭蓋を壊していく。


「あぁぁぁっ! うわぁぁぁぁぁっ――‼」


 異臭がする。

 それは化け物の返り血のせいか、化け物の腐り果てた肉体のせいか。

 もうないまぜになってしまうほど抗う。


「――嫌だ! 死んでたまるかぁぁぁっ‼」


 何回も椅子を振り下ろす。

 無我夢中で化け物を叩き潰す。

 潰す。

 潰す

 殺す――。


「――はぁっ、はぁっ……っ?」


 そうして気が付くと、頭部をいびつに破壊された化け物がピクリと動かなくなっていた。

 両手で振るっていた椅子の脚には、僕が全身に浴びた化け物の血がべっとりとこびりついている。

 殺せた。

 異様な高揚感に満たされて、思わず頬が緩む。


「や、やった……!」


 動かなくなった化け物を見て安心したのも束の間、今度は出入口のほうからガラスが割れる音が響き渡る。

 驚いて後ろを振り返ったときには、既に化け物の大群が部屋の中に押し寄せてきていた。

 群れの中から数体が飛び出してくる。

 赤い眼を爛々と輝かせ、獰猛に牙を剥きながら、


『――――ガァァアアアアアアッ‼』

「っ⁉」


 背後の窓から逃げそびれた僕に襲い掛かる。

 避けられない。

 噛まれる──。

 死を悔やむ時間すらなく、咄嗟に両手を前に出した。


 瞬間、


「――――吹き荒れろ、風刃ふうじん!」


 凛とした女性の声が響いたかと思うと、僕の周りを一陣の風が鋭く吹き抜けた。

 一瞬の静寂。

 その数秒後に目の前の化け物たちの首が次々と、地面へ滑り落ちていく。

 バタバタと倒れていく死骸を見て悲鳴を上げることはなかった。

 それ以上に僕は混乱していたからだ――誰が僕を助けてくれたのか、血の驟雨を浴びた顔を振って探す。


「っ!」


 いつの間にか横に立っていた人影を見つけ、驚いて肩を震わせた。

 人影が僕にゆっくりと近づく。

 血で汚れた純銀の鎧を身に纏った金髪碧眼の女性が現れる。

 その女性は右手に長剣を握り、西洋人のような彫りの深い顔立ちで、何より目を引いたのは長く発達した両耳。

 その姿はまるで、ファンタジーの物語でよく出てくる――。


「大丈夫かい、少年?」

「あ――」


 呆気に取られる僕に対し、女性は両手を差し伸べてきた。

 そして柔らかな微笑みを浮かべるとともに、


「私はエルフリーデ。エルフ族の騎士団長だ」


 女性騎士――エルフリーデは僕の右手をそっと包み込んだ。

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