アンデッド・ブルー

分福茶釜

第1章 The day after

第1話 あの日見た空の青は

 あの日見た空の青は、どれほど澄み渡っていただろう。


***

 

「おはよー」

「あれ草太、珍しいね。おはよう。今日は早起きじゃない」

「何か目ぇ覚めちゃってさ。二度寝もできなさそうだったし」

「二度寝しちゃいけないでしょう。あんた今日学校なんだから」

「分かってるって」


 いつもとちょっと変わった朝。

 寝つきは良かったのだが、今日は珍しく目覚めが悪かった。

 気怠さを少し感じながら伸びをしてテーブルに着くと、先に朝食を摂っていた父に声を掛ける。


「おはよう」

「ああ、おはよう。ちゃんと睡眠は取れよ? 寝るのも大事なんだからな」

「早起きしただけでそんなに言う?」

「それだけ珍しいってことだ。なぁ母さん」

「私は貴方のお袋じゃありません。ほら、さっさと食べなさい」


 あしらわれた父は苦笑し、せっせと食事を口に運ぶ。

 僕も学校に行く支度を済ませたいので、軽く手を合わせたあと箸を手に取りおかずのウインナーを頬張った。

 そうして朝食を済ませた僕と父は母にお礼を言うと、洗面所で一緒に歯を磨き、それぞれの部屋に戻って身支度を整える。

 高校の制服に手足を通し、筆記用具や教科書を詰め込んだカバンを持って玄関まで降りる。

 先に父が出かけようとしていた。

 玄関でいつものように睦まじく言葉を交わしている。


「今夜は遅くなるの?」

「あーどうだろうな。今のところ立て込んでる用件はないけど、もしかしたら」

「じゃあその時は連絡して」

「分かった。いってきます」

「はい、いってらっしゃい」


 父が行ったのを見送ってから、僕も履き慣れたスニーカーを履いて外に出る。


「母さんいってきます」

「はーい、いってらっしゃい。車には気をつけるのよー」

「はいはーい」


 軽く返事して玄関の戸を閉め、カゴにカバンを入れると自転車を走らせる。

 通っている高校まではさほど遠くない。

 20分程度の距離をいつもよりゆったり漕ぎながら、目覚めの気怠さを少しずつ払拭していく。

 雲一つない晴れ模様の下を、微かに冷たくなってきた風を感じながら、生徒たちでごった返す校門を通過した。

 そのまま自転車置き場まで向かい自転車を停める。

 と、


「うぃー」

「うぉっ!」


 背中をバシッと叩かれて思わず驚く。

 僕の左に自転車を停めながら悪い笑みを浮かべる親友――中堂圭一の顔をぶすっと見つめて文句を言ってやった。


「力強いって言ってるじゃん」

「そうか? 普通だろこれぐらい。はよっす草太」

「……よっす」


 もっともすぐに流されて、結局なぁなぁで済んでしまうのが僕らの間柄だ。

 圭一はどうやら憂鬱なようで、朝っぱらからため息をこぼして愚痴る。


「はぁ、今日はちょっとめんどい日だよな」

「何かあったっけ?」

「午後に数学の小テストがあるだろーが。はぁまじ無理。俺文系だからさ、数学なんて1ミリも分からねーっての」


 それを言うなら僕だって文系なのだが、理数系が苦手な人からすれば愚痴をこぼしたくもなるものか。

 圭一を励ますために肩を透かせて言う。


「まぁでも、そこまで難しいのは出ないでしょ。案外大したことないって」

「それはお前が頭いいから言えるんだって!」

「そう?」

「そうだよ……おっすー!」


 圭一が2人の男子に声を掛ける。

 修二と三郎――高校で出来た友達だ。


「おー、圭一。草太も」

「珍しいじゃん。こんな早い時間に草太が来てるなんて」


 デジャヴを感じる。

 僕を寝坊魔だと思っているのだろうか。

 それは勘違いというものだ、僕だって早起きをする日もあるのだから。


「たまにはいいだろ?」

「いや、いつもこれぐらい余裕で来とけって」

「そうそう。大体重役出勤すれすれだからな草太は」

「そんな大げさな」

「割とマジなんだよなぁ」


 ――今日からは少しだけ早起きに努めよう。

 そう決心しながら教室に入り、グラウンドを一望できる窓際の列の席で集まる。

 数日前の席替えで圭一が1番後ろの席、僕がその1個前の席に決まってからは、自然と後ろでたむろするようになっていた。


「んで、2人で何話しとったん?」

「聞いてくれよ良二! 今日の数学の小テスト、草太があんなん余裕だろとか言ってきてさー!」

「まぁ中間とか期末じゃねぇからな」

「ね。僕もそう思ってるんだけど」

「はー! これだから頭いい奴らは!」


 圭一が馬鹿言って、僕ら3人が笑う。

 今朝の気怠さなど消えてしまったように楽しい時間を過ごすと、あっという間にホームルームが始まってそれぞれの席に戻っていく。

 それからは担任の先生からの業務連絡があり、誰も質問することなくホームルームが終わって、午前の授業に入っていく。


 何てことない日常。

 でも、いつもより早く学校に来て友達と駄弁った時間は、長くなったぶん楽しかったような気がした。


***


「――なぁ、おい」


 5限目の数学の時間。

 小テスト中にも関わらず、最後列の席に座る圭一がしつこくシャーペンで小突いてくる。

 無視しようとは思うものの、あまりに小突いてくるので思わず、


「なぁって」

「……何?」


 先生の目を盗んでちらっと振り返る。

 すると圭一はグラウンド側の窓をシャーペンで示して呟いた。


「グラウンドに不審者いるぞ」

「えぇ?」

「マジだって。見てみろよ、アレ」


 言われるがまま覗き込む。

 他のクラスが体育の授業をしているグラウンドにゆらゆらと侵入する怪しい人影、その姿はまさに不審者と呼ぶに相応しかった。

 ボロボロの衣服から露出している手足は傷だらけで、長い金髪は力なく揺れ、窓辺から表情を窺えないほど深く頭を垂れている。

 そんな不審者はやがて他クラスの集団と距離を詰めると、いきなり体育教師の増田先生に襲い掛かった。

 そのまま押し倒すと、先生の肩の辺りに顔を近づけて、


「うわ、増田に嚙みついてる。ガチでやばくね?」

「……うん」


 見入ってしまい、声量が大きくなってしまった。

 教壇に座る数学の塚田先生から叱り声が飛んでくる。


「こらお前ら、今はテスト中だぞ。外が少し騒がしいぐらいでよそ見してるんじゃない。カンニング扱いするぞ」

「す、すいません」

「さーせん」


 ひとまず謝りテスト用紙に向き合おうとするが、それでも気になって再度窓の外を流し見する。

 僕の視界が捉えたのは、地面に倒れたままの増田先生と後ずさりする生徒たち。

 そして、ゆらりと立ち上がって生徒たちのほうへ走り出す不審者の姿。


「――――っ!」


 思わずガタッと席を立ってしまった。

 小テスト中なので当然先生に目をつけられる。


「神崎! 授業中に突然席を立つな!」

「あ、いや……その」


 何と弁明したらいいか分からずしどろもどろになっていると、僕の前に座る男子生徒がグラウンドのほうを向き、食いつくように立ち上がった。


「おいおいおいおい! なんかやべー事になってんぞ⁉」


 その大声で流石に冗談ではないと思ったのか、他の生徒たちも小テストを放ってグラウンド側の窓辺に集まり始めた。

 そして僕と圭一が見た光景を共有すると、次第に騒がしくなる。


『何あれ、血出てるの?』

『ていうか乱闘じゃない? ヤバ、動画撮らないと!』

『誰か助けにいかないと……』

『すぐに他の先生が来てくれるでしょ』


 しかしグラウンドの騒ぎを止める者は1人も現れず、それどころか倒れて動かなくなる生徒の数ばかりが増えていく。

 これは只事じゃない。

 あの噛みつき魔は、同じ人間とは思えない。


「おい、おい草太っ」

「――はっ!」


 没頭していた僕を叩き起こすような圭一の声。

 一気に現実に引き戻された僕は慌てて振り返る。


「大丈夫か?」

「あ、あぁ。大丈夫……ありがとう圭一」


 圭一にバシッと背中を叩かれる。

 良二や三郎もそうだけど、ショッキングな光景を目の当たりにしても3人は至って冷静だった。


「あれ、只事じゃねぇだろ。よく見たら増田も生徒襲ってんじゃねーか」

「確かに。どっかに避難したほうがよさげか?」

「こういう時は体育館って相場は決まってるけどな……今の時間って他のクラスが使ってるんだっけか」

「分かんねぇ。けど逃げようぜ、俺たち4人だけでもさ」


 どうやら結論が出たらしい。

 圭一が僕に言った。


「そうだな。行くぞ草太!」

「う、うん……!」


 友達3人に導かれるまま、教室の後ろの扉へ駆け寄って開ける。

 と、


「――――え?」


 三郎の気の抜けた声。

 校庭にいる噛みつき魔と同じような格好の人影と目が合って固まった。

 瞬間、


「グアァァァァァァァッ‼」

「うわぁぁぁぁっ⁉」


 その人影は噛みつき魔のように三郎に襲い掛かった。

 押し倒されて悲鳴を上げた三郎に向かって、嚙みつき魔が牙を突き刺す。


「三郎っ‼」

「助け、がぁぁっ! ぁぁああああああっ‼」


 噴き出す血と苦悶に満ちた叫び声。

 困惑と悲鳴が教室中に広がっていく中で、僕の身体は驚くほど勇敢に動く。


「――――どけぇっ!」


 無我夢中で叫び、噛みつき魔の身体を蹴飛ばした。

 机や椅子をなぎ倒し、けたたましい残響の中で噛みつき魔が教室を転がる。

 僕はすぐに三郎に駆け寄った。

 首筋と左肩を嚙まれたらしく、出血が酷い。


「三郎! 大丈夫⁉」

「あ、あぁ……ぐぅ、サンキューっ、草太」


 心なしか一気に肌色が白くなって病的に見える。

 噛みつき魔に噛まれたせいなのか。

 原因を考える暇もなく、すぐに教壇のほうから悲鳴が上がる。


『きゃああああああっ‼』

『来るなっ、来るなってッ‼』

『逃げて、逃げて――っ!』


 噛みつき魔に襲われて逃げ惑うクラスメート。

 数学の塚田先生はいつの間にか血を流して倒れていた。

 阿鼻叫喚の地獄絵図。

 そう形容したくなるほどの惨たらしい光景。

 思わず意識を手放しかけた僕の背中を、しかしいつものように力強く叩いてくれたのは圭一だった。


「ボケっとすんな草太っ!」

「っ……!」

「保健室行くぞ! 急げっ!」


 何度も頷き、三郎を担いで出た圭一に続いて走る。

 廊下を走り抜ける最中に流れ込んでくる光景は、自分たちのクラスで見たものと何ら変わらなかった。

 いつの間にか噛みつき魔が何人もいる。

 何人もの噛みつき魔が、生徒や教師に向かって襲い掛かっている。

 耳を劈く悲鳴、大量の足音。

 いつしか逃げ惑っているのは僕らだけではなくなっていた。


「保健室空いてるぜ!」

「よっしゃ入れ入れ!」


 1階に駆け下りた僕たちは一目散に保健室へ駆け込み、急いで扉を閉めた。

 圭一が三郎をベッドに寝かしている間に、僕と良二が机や薬品棚を使って即席のバリゲードを築く。

 バンバン、と扉を強く叩く音が響く。

 それが学校の人のものか確認できるほどの余裕は、僕はもちろん他の3人にも無いようだった。

 僕はその場にへたり込み、長い息を吐き捨てる。


「助かったぁ……」

「これで外から開けられないはずだ。多分、もう大丈夫なはず」


 良二と目が合う。

 互いに息を切らしながらも、ささやかな達成感に思わず頬が綻ぶ。

 あとは三郎の容態だけだ。


「……圭一。三郎は?」


 ベッドの横で手を突いたまま動かない圭一に尋ねる。

 しかし、圭一は呼びかけに応えない。


「圭一?」

「おい、どうなんだよ。ぼーっとしてんなって」


 痺れを切らして立ち上がった良二が圭一の元へ歩み寄る。

 圭一は背中を向けたまま、動かない。

 指先さえ一切微動だにしない。


「――――良二」


 自分でも驚くほどのか細い声。

 まるでこれから起こることを予知しているかのように、その最悪の未来に打ちひしがれるように。

 全身に嫌な予感が駆け巡る。


「おい。圭一!」

「駄目だ、良二っ!」


 それは一瞬の出来事だった。

 僕が良二に手を伸ばすよりも速く、圭一がこちらを振り向く。

 良二は一瞬のけ反って後ずさる。

 しかし距離を取るには足らず、圭一が、


「グアアアアアァァァァッ‼」

「うわぁぁぁぁっ⁉」


 さっきまで圭一だったモノが、良二の首筋に鋭く尖った牙を突き立てた。


「あ――――」


 目の前で良二が助けを求めてくる。

 仰向けの状態で、圭一の皮を被った化け物に喰われながらも、必死に右手を伸ばして叫んでくる。

 血がどんどん噴き出ている。

 助けなきゃ。

 良二を――圭一から?


「助けてくれ、草太! 草太ぁぁぁぁぁぁぁぁッ‼」


 友達の悲鳴が遠く聞こえる。

 鼓膜を動悸だけが支配し、思考が速くなっていってまとまらない。


「――――ぁ」


 気づけば良二の声は止んでいた。

 肉を咀嚼し終わった圭一が、口の端から鮮血を垂れ流しながら、ゆらりと起き上がる。

 正面から改めて向き合って気づく。

 眼球は赤く変色し、歯は獣のように変形していて――圭一の右胸には、今の彼にも生えているような鋭い爪で引き裂かれた痕があった。


「ハァァァァァ……」


 圭一が息を吐きながらゆっくり近づいてくる。

 僕の身体は自然と距離を取りながら、保健室の非常口の扉に向けて回り込んでいく。


「なんで……圭一。なんで」

「……ゥゥゥゥゥ」


 何度問いかけても返ってくるのは唸り声だけ。

 怯える僕に発破をかけ、保健室まで導いてくれた親友の面影はもうどこにも見られなかった。

 非常口の扉の前に着くとドアノブに手を掛ける。

 僕の右足の爪先は、扉の向こう側へ向けられている。


「ゥゥァァアアアアアアッ‼」

「っ――!」


 牙を剥いて襲い掛かってきた圭一に背を向けて、非常口から出た僕は上履きのまま校門に向かって駆け出した。

 もはや外は化け物と襲われる人々ばかりで、助けを求める声が数え切れないほど耳の中に突き刺さる。

 それでも僕は振り向かずに走る。

 途中ゾンビに掴まれそうになりながらも上手く躱し、蹴飛ばして、ようやく校門を抜けて学校の外に出た。


 そんな僕の目の前に広がる光景は、平和からは程遠く、


『うわぁぁぁぁっ‼』

『誰か、誰かっ、誰かぁぁぁっ――‼』

『――アアアアアアッ‼』

『がぁぁぁっ!』


 まるで今日世界が終わってしまうかのような、血と悲鳴で覆い尽くされた凄惨な光景が広がっていた。


「……はぁっ、はぁっ……!」


 身を翻し、息を切らしながら走る。

 行く宛てはないけれど死なないために走る。

 両足は自然と恐怖で衝き動かされ、疲れなど微塵も感じないまま逃げ続けて――――どれほど無我夢中でいたのかは正直覚えていない。


 それでも、ただ一つだけはっきりしているのは。


「……くそっ、くそっ……!」


 僕の頭上に広がる空はいつもと同じ、雲一つない綺麗な青空だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アンデッド・ブルー 分福茶釜 @Archive-1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画