第35話 英雄の再誕㉟
「それじゃあ、物理草子の『写し』以外になにか凶暴になる理由があるかもしれないってことですか?」
「かもしれないわね」
空夜が頷く。貝介は拍子抜けした気持ちでその精巧な人形めいた顔を見つめた。それでは今の作戦行動がまるで無駄な行為になってしまうではないか。
空夜は面白そうに笑って言葉を付け加える。
「でも、こうは考えられない? 熱心な模倣者たちが持っていた物理草子は何者かに奪われてしまった」
「それは」
「例の影よ」
そういえば、と貝介は思い出す。あの影に始末された模倣者の娘。あの娘はその前に巨漢の模倣者から物理草子を奪っていた。だが、その後娘の体を検めたときには物理草子は見つからなかった。
そして、そのときに失われた物理草子は第四世代。未だにそれより早い世代の『写し』は発見されていない。
「早い世代の『写し』が見つからないのは例の影が集めているから?」
貝介は導き出された仮説を口にする。
空夜が頷く。
「あくまで、そういう可能性もあるってだけよ」
空夜はそう言いながら古本売り場に目をやった。相変わらず発狂頭巾売り場は盛況で、人だかりができている。
先ほどの青年は心を決めたのか物理草子を手に会計の列に並んでいる。その顔はキラキラと輝くような笑顔だ。
無邪気な模倣者の予備軍。忌々しい。先程の八の懸念は的外れとは思えない。無害とされているとは言え、いつまでと無害とは限らない。いつかより純度の高い『写し』を求める様になり、手に入れるかもしれない。
そうなったら貝介はあの青年を処理しなくてはならない。あるいは、その前にあの影があの青年を始末してしまうかもしれない。あの無邪気な顔がそのまま地面に転がる光景を貝介は幻視した。いつしかその顔は幻視の中でヤスケの父親の顔に変わる。頭を振って不快な空想を追い払う。
「だから、ここの売り場で一生懸命探しているあの子たちはそこまで問題ではないの」
「そうなんですかい?」
「そう。もちろん、蒐集の兆候を見つけられるったいう一つの利点はあるけれども、それはおまけに過ぎないわ」
「本当の狙いは別にあると」
貝介の言葉に空夜は頷く。
「大事なのはこの店に『写し』があるって噂が確信を持って広がること」
「するとどうなるんです?」
「どうなると思う?」
空夜は笑って問い返す。貝介は八に目線を送る。八は困り顔で首を傾げる。
そのとき、不意に音楽が流れた。はるか昔に失われたもうどこにもない故郷の風景のような、果てしない物悲しさを感じさせる笛の旋律。貝介は音の発生源を目で探す。音は厨房から聞こえてきていた。
しばらくして笛を手にした馬鈴が姿を現す。
馬鈴は笛から口を離すと、店内に響き渡る声で高らかに宣言した。
「本日は営業終了でございます。ご来店誠にありがとうございました」
その言葉に窓の外を見る。いつの間にかもうすっかり日が暮れて狭い路地裏に発色灯の明かりがともり始めていた。
店内を賑わしていた客たちが馬鈴が再び吹き始めた笛の音に誘われるように帰っていく。
「お客様、本日はご来店ありがとうございました」
その巨大な顔に笑顔を貼り付けたまま馬鈴は貝介たちの席の近くに立った。
【つづく】
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