第29話 英雄の再誕㉙

「ヤスケから聞いたぞ」

「何をですか?」

「物理草紙のことだ。ヤスケが拾ったという物理草紙、ヤスケから取り上げて、それをどうした?」

「捨てましたよ」

 またしても食い気味に父親は言う。変わらぬ彫り付けられたような笑顔。だが、その細められた目は鋭く輝いている。

「当たり前でしょう。あんな不気味な物理草紙。禁制品なのは明らかだし、そうでなくっても危なっかしい内容だ。ヤスケがあんなのを読んでしまったら大変ですからね。すぐに捨ててしまいましたよ」

「中身は見たのか?」

 今度は少しだけ間があった。

「少しだけ、目に入りましたかね」

「どのような内容だったかおぼえていないか?」

 再び間が空く。

「まったく。本当に少し見えただけですから」

 父親は首を振った。貝介は少しだけ脇に目をそらして、ため息をついた。

「そうか」

 それから意識して少し黙り、沈黙を作った。

「俺は探しているんだ」

「そうですか」

 父親が感情なく答えるのを聞いてから、貝介は声を潜めて続けた。

「物理草紙をだよ」

「あまりよくないですよ」

 父親は笑ったまま言う。至極まっとうなことだ。だが、まっとうな壁を崩すにはいくらかの搦め手が必要だ。今日は八はいない。貝介が自分一人でやらないといけない。

 貝介は言葉を続ける。

「それはわかっている。それでも探してしまうんだ」

 再び沈黙を作り、様子をうかがう。わずかに、父親の瞳が貝介に向いたのを感じる。

 それに気が付かないふりをしながら、目を細めて宙を見上げ、貝介はひとりごとのように語り続ける。

「一度だけ見た、あの物理草紙。あれはすごかった。ああ、あれは本当の発狂頭巾だった。幻影画とは違う。幻影画よりももっとそこにいるような。まるで本当に間近で見ているような。あの迫力。あれを。おれはまた見たいのだ。だから、聞いているのだ」

 父親の笑顔に目線を戻し、声を潜めてもう一度問いかける。

「あの物理草紙のこと、なにか知らないか?」

「残念ながら、なにも知りませんね」

「そうか」

 貝介は肩を落として答える。この手は駄目だったか。仕方がないだろう。試してみた一つ目の手段に過ぎない。だが、今日は別の手を試すわけにもいかないだろう。

 貝介は声をもとの大きさに戻して言った。

「すまんな。おかしなことを聞いた。忘れてくれ」

「ああ、いえ」

「詫びと言っては何だが、甘味は食べていってくれ。美味いぞ」

「はあ」

「ここの品はどれも美味くてな。ちょっと来るのが遅いのが難なんだが」

 そう言いながら貝介は厨房の方に目をやった。馬鈴が物陰に隠れてこちらをうかがっているのが見えた。貝介たちの話を聞かないようにしているのだろうか。変なところで気が利くやつだ。

「あの」

 呼び寄せようと、さりげなく馬鈴に頷きかけたところで、父親が言葉を発した。

 貝介は首の動きを止め、横に振った。立ち上がりかけた馬鈴が、再び腰を下ろす。

 父親は低い声で尋ねた。

「貝介さん。あなた、本当に物理草紙を探そうとしてるんですか?」

「ああ、もちろんだとも」

 貝介は父親の方に顔を向けなおして言った。眉間にしわを寄せて、できるだけ切実な顔に見えるように意識しながら。


【つづく】

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