第三十二話 4層の秘密
当初、木の根っこの間に水が溜まっていただけだと思っていたが、よくよく見ると、そんな水たまりにしては随分と水底が深い。触手を一本伸ばして水中をかきまわしてみると、明らかに見た目よりも広い空間が広がっている。というか、ものすごく広い。
もしかしてこれは、木の根の間に水が溜まっているとかではなくて、泉の上に被さるようにして木が生えているのだろうか。だとすると、ローブも帽子も、その中に沈んで行ってしまったのか。
《……ううん。潜る、しかないか……?》
正直、ヌルスは泳ぎが得意な方ではない。3層で湖に落ちた時に、それは嫌というほど思い知った。かといって、このままローブと帽子を諦めてしまうのも惜しい。
水中をさぐる感じ、少なくともフロアガーディアン戦の小部屋より広いかもしれない空間が広がっているようだ。このまま触手で闇雲に探っても、沈んでしまった物は拾えそうにない。覚悟を決める必要があるようだ。
潜るしかない。勿論、保険を置いたうえで、だが。
《ふんぬっ……》
触手の中から、一番強度とパワーに自信が持てる一本を選び、渾身の力を籠める。するすると長く伸びたそれを、木の根っこに絡みつける。命綱の代わりだ。
《あとは、私の触手が伸びる範囲に、探し物が沈んでいるかどうかだが……》
一応体感だと、魔力結晶を摂取し続けた事で肉体の劇的な変化こそ無いもののスペックが上がっている感じはある。一本に絞れば、それなりに長く伸ばせるはず。
今更ながら自分の躰の構造がちょっと気になってきたヌルスだが、まあ都合が悪い事ではないのだから深く考えない方がいいだろうと気持ちを切り替える。
《ええい、なるようになれっ》
覚悟を決めて、水に飛び込む。
水温は、冷たくも暖かくもない適温。生ぬるい、ともいえる。明かりは全くなく、深海のような闇がどこまでも広がっているが、ヌルスには関係ない。
そして実際に飛び込んでみて分かった泉の広さに、ヌルスは度肝を抜かれていた。
《なんだこれ……?!》
当初、フロアガーディアンの小部屋ぐらいを想定していたのに対し、実際に広がっていたのは言葉通り、どこまで広がっているのか分からないほど広い空間だった。
頭上に意識を向けると、今しがたヌルスが潜ってきた泉の入口から、小さな点のように光が差し込んできている。それ以外は、複雑かつ強固に絡み合った木の根が天井のように広がっている。つららのように長い根が水の中に伸びてきているようだが、それも到底水底まで届かない。
泉、なんていう規模ではない。これでは湖の上に迷宮が建っているようなものだ。
《まさか……4層全部が湖の上に浮いているのか!?》
鍾乳洞のように垂れてきている木の根を払いながら、ヌルスは周囲を見渡す。
想定外の展開だ。なんだかとにかく嫌な予感がする。一刻も早く、ローブと帽子を見つけて上に上がらなければ。
幸いな事に、目的の物は直ぐに見つかった。命綱の範囲で届く範囲であった事に安堵しながら、水中をぷかぷかと漂う布に触手を伸ばす。流石に消化液はすっかり抜け落ちてしまったようで、抱きしめても触手にピリピリする感じはなかった。
急いで上に戻ろうと、命綱を手繰り寄せながら触手で水中を掻いて泳ぐヌルス。
周囲に何か居ないか、注意も怠らない。これだけ広い水場なら、水棲モンスターの一匹や二匹、いてもおかしくはない。感覚に優れている自負があるヌルスでも、慣れない水中ではどうしても感覚が鈍る、見落としがあるかもしれない。
今の所、モンスターらしき姿は見えない。周囲には垂れ下がる木の根と、水底に点在する天然の魔力結晶らしきもの、そして金色に光る壁のようなものがあるだけだ。
……。
……金色の、壁?
《ぬ……?》
当たり前のようにあったので、ヌルスが違和感を覚えるのには一瞬の時間が必要だった。
木の根が無数に連なる奥に、丸く輝く金色の壁がある。その中央には、黒い丸があって……いや。違う。それは壁などではない。
ぱっ、と瞬きの間に、金色の壁が消えて、また現れる。そう、言葉通りに“瞬いて”。
《ひっ……!?》
のんびり水面に向かっている場合ではない。ヌルスはローブを抱えつつも、全速で自分の体を引き揚げにかかった。水を切って上昇していく傍ら、遠くにあった金色の壁……否、魔物の瞳が、急速に接近してくる。水中を、途方もなく巨大な物体が高速移動する、言語に代えがたい異常な音が伝わってくる。
《う……うわあああ!!》
しゅぽーん、と水面に飛び出したヌルスはそのまま、荷物を抱えたまま文字通り転がるようにその場を離れた。動転のあまり歩き方すら忘れていたが、それが逆に幸いした。ヌルスの今の本体は真ん丸なので、飛び出した勢いのまま転がって泉から遠ざかる。
直後。
凄まじく巨大な口吻が、泉のあった場所を突き破って聳え立った。
大量の土砂と、巻き込まれた木々が揃って宙に舞う。致命的な質量が周囲に降り注ぐ中で、またしても幸運な事にヌルスはそれに巻き込まれる事はなかった。傍らに落下してきた木の幹に隠れるようにして、可能な限り存在を小さく薄くする。
地面を突き破って生えていた口吻は、やがて獲物を逃した事に気が付いたのだろう。二、三度もごもごと蠢いた後、ずるずると地下に……水中へと潜っていく。後には、派手にぶち破られた地面が残されるだけだ。一見すると泉のように見えるそれに、ヌルスはようやく、一連の事象を正確に把握した。
安全地帯だなんてとんでもない。
実際は、超のつく危険地帯だった訳である。
あまりにも恐ろしい目にあった事の恐怖と、そこから命が助かった安堵から来る途方もない脱力感にしなしなになってへしゃげつつ、ヌルスは絞り出すようにして誰にも聞こえない声で呟いた。
《…………め、迷宮は……地獄だ……》
それは。
今更である。
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