第29話 二人の距離 『幸せの真ん中』

 それなのに、私ったら彼を愛人だと思い込んで色々妄想してしまった。これも全てあの添田が私に吹聴したせいだ。


「では、あの方に他にご家族はいらっしゃらないんですか?」


 心配になって、私も遠くの宗一さんを見つめた。一郎さんより一回り細い身体は、強い風が吹けば飛ばされて池に落ちてしまいそうだ。


「今の所、僕だけだね。宗一の父親はやはり既婚者だったらしく、妊娠しても自分の子供だとは認めなかったそうだ」


「……そう、なんですか」


 妾の子であっても父の家に引き取られた私や一郎さんは恵まれているのかもしれない。


「彼の生活は大丈夫なのですか?」


 経済的なことだけではない。

 精神的にも。

 母という、心の支えを失くしたあと、気丈に、厳しい花柳の世界でやっていけるのか、と気になったのだ。

 一郎さんは、少しの間を置いて、やがて決意したように言った。


「実は中野家に、宗一を養子として迎え入れようかと考えているんだ」


「……養子……」


 驚いたが、悪い事ではないと思った。

 引退した遊女を引き受ける場所があるように、男芸者の場合もそうあっていいと思ったのだ。血が繋がっているなら尚更。


「お義父さまはご存知なんですか?」


 一郎さんがゆっくりと首を横に振った。


「いや。存在さえ知らないよ。話してもすんなり上手くいくとは思えない。なにしろ父さんとは何の関係もない男だからね」


「そうですよね……」


 歩きながら考えた。

 私のような出戻りでも、華族といえど迎え入れてくれた義父は、そう気難しい方ではない。どちらかというと温厚だ。話せばわかる方だと思う。


 それに、跡取りが一郎さんだけなら、それで私との間にお子ができなかった場合は、——どっちにしろ親戚かどこからか養子を貰わねばいけないはずだし、それならば、いっそのこと一郎さんの弟の方がいいのではないか、と。


「父より先に、妻である貴女に意見を聞きたかった」



 立ち止まった一郎さんが、不意に私の手を掴む。指先がとても冷たかった。


「僕のこの考えは突拍子もないだろうか? そして貴女自身、賛成してくれるのかどうか」


 私に意見を言う権利などない。

 そう思ったけれど、その回答はとても無責任なような気がした。


「反対はいたしません。一郎さんのご兄弟なら、困っている時なら尚のこと、仲良く暮らされて何の問題がありましょう」


 一郎さんの弟なら、きっと、私も馴染めるはずだ。

 それに、十八歳といえば大人だが、芸者を辞めて一から働くとなれば、そう簡単に向いている仕事にありつけるわけではないだろう。


 何より、離れて暮らしていた時間を今から取り戻すと考えれば、不自然な事ではないと思う。

 そう話すと、一郎さんは、私の手を握ったまま、


「ありがとう、琴子」


 と、初めて下の名前を呼んだ。


 みるみる私の顔が熱くなっていく。

 こんなことが、くちづけをした時よりも、肌を見せた時よりも気恥ずかしいとは――

(どれだけ私は、一郎さんを好きなのだろう)


「そう言って貰えて、父に話す心構えが出来た。家に戻ったら早速相談してみるよ」


 満足気な一郎さんの横顔は、見ているだけで此方も幸せな気持ちになってくる。


 会場に戻った時にはダンス・パーティーは終わっていて、本会場では、四谷さんデザインの商標マークが発表される。


「中野貴金属店は、これから日本での、この業界の中心になるという心意気も込めまして、middle(中央)のMを取り、輝かしい日の丸と星の真ん中にMと印したものを、今後全ての商品、もしくはケースに刻印していきたいと思います」


 拍手が起こる中、「なんで中野のNじゃないんだ?」というヤジも飛んだが、舞台で四谷さんと義父は誇らしげにそのマークを公開していた。


 それを嬉しそうに眺める一郎さんのそばで、私も、中野家の一員になれたことを誇らしく思う。


 ——春はもうすぐ。


 中野家にかつてない栄光と波乱が待ち受けているとも知らずに、私は幸せの真ん中にいた。


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