第14話 急遽江戸へ
こうした中で松前の
港から役所までの道程で松前家の役人や住人に商人たちが、足早に
その中には以前武田信行を不逞の輩として役所に連行した小役人共も居たのである。
「あいつはあの時の武田とかいう蝦夷奉行の配下の男じゃないか。髷も結ってないからあれじゃどう見てもアイヌだな」
だが公儀の役人である以上咎める訳にはいかなかった。
その
「それでメナシクルの状況は如何か」
「はっ、仕置に対しても漸く落ち着いたように思います。交易に於ける交換条件も緩和されましたので、アイヌも安堵して居ります」
「左様か。だが千島や樺太はロシアが進出して来ているようだし、この蝦夷地の部族の中にも樺太辺りまで出かけて行く者もあるようなので、公儀からその辺りを含めて警戒するように言われているのだ。
松前だけでは此の地の防備を任せきれないと思う。故に我らの巡検が重要視されるのだ」
「御意」
「実はな、遠地奉行蝦夷地係の太田摂津守様より事情通の者を上府させるよう御下命があったのだ。
恐らくこれは老中板倉内膳正様からのお達しと思えるが、お主に行って貰いたいのだが、
その髪型が引っかかるが…」
「鳥海様御安心召され。『この髪型を以て、アイヌ諸部族の心中に取り入り折候故ご容赦下されます様お願い申し上げます』で参ります。まさか手打ちなどにはなりますまい」
武田九郎信行はそう言ってカラカラと笑った。はしけ
「お主のように肝が座って居れば大丈夫だ」
江戸へは東廻り廻船という航路があったが、近江屋所有の北國船が十日後に江戸に出航するというので便乗させて貰うことにした。
その船は三日後にピロロ(広尾)の
頭の鳥海が江戸表に連絡を入れると、宿泊先の手配もしてくれたようだ。
アベナンカのチセに戻る前にラヨチの住まいに寄った。
「この間頂いた櫛、とっても良いわ」
と手に取って髪を梳いて見せる。
「気に入ったか、良かったよ。ところでエルは遊んで居ないのか」
「あたしよりもエルが気になるのね」
そう言うもののラヨチは嬉しそうであった。一緒になれないことは承知しているが、何時までもこうして会いたいと思って居るのだった。
オキクルミは愛しい愛人の前に向き合って座ると、両肩に手を置いて、
「ラヨチ(虹)よ、イイェエ アラワン ト(七日目の日)に江戸に行くことになった。トノ(偉い人)に報告に行かなければならないのだ」
「一人で行くの」
「多分な」
「アベナンカも連れて行くんでしょ」
「誘っても行かないよ」
「それは分からないわよ。だってあなた達はウトマン(夫婦)じゃない。あたしだったら付いて行くわ。その代わり…」
オキクルミは出発の日まで毎日顔を出した。 ラヨチは四十一歳、未だ盛んであった。
明日が出立という日に最後の顔を見せに行くと、珍しくエルが居た。
「遊びに行かなかったか」
何故か寂しげな表情をしていた。
「如何した誰かと喧嘩したのか」
違うというように横に頭を振った。
この時のオキクルミは、まるで可愛い娘を心配する父親のようであった。
「オキクルミこの子に名前を付けてよ。そろそろ七歳になるから…」
「わたしで良いのか、父親がいるだろうに」
「あなたでいいの。附けて上げて」
「そうか、ならレンカイネ(我らの望み)としよう。どうだエル」
「チタタブ(ありがとう)、ウエンぺ(悪い人)」
と言って初めてオキクルミに抱き付いたのである。
「おぅおぅウエンぺか、良いよレンカイネ」
オキクルミは嬉しくてしょうがなかった。
「レンカイネ、遊んでおいで」
ラヨチは戸口の筵を下げると、
カパリミという白地の布の文様と刺しゅうを施した衣裳を脱いでモウルだけになると、オキクルミの来ている物をゆっくりと脱がして行った。
三十四歳となった愛人の筋骨隆々たる肉体を慈しむように触れて愛撫した。
もしかするとこれが最後の睦合いとなるかも知れないと思うと、放せなかったのだ。
オキクルミも七つ年上の愛人から離れようとはしなかったので、アベナンカの待つチセに戻ったのは夕方であった。
菜乃香はノブユキが何処で何をしていたか等とは訊かなかった。
「なあ菜乃香、江戸に一緒に行かないか」
こう訊く度に、
「和地には行きたくない。行きたい人が居るなら連れて行ったらいいじゃないの」
オキクルミは菜乃香を連れて行きたかったのだが、和地には行きたがらなかったのである。
何やら和人を嫌っている節があった。
ならどうしてオキクルミを好きになったのだろうか、これが人生に於ける機微とでも言うものなのかも知れなかった。
この夜添うことなく互いの寝床で眠った。
翌朝ピロロの詰所から部下が迎えに来た。
アベナンカは出がけ際胸に抱き着いて、
「必ず帰って来てね」
と言うと、妹のクナウの手を引いて、何処かに行ってしまったのである。
〈可笑しなやつ〉と思いながらも裏の川カシュンナイにランコで造った丸木舟を待たせてあったので急いで下に降りた。
小舟でポロフーレペツ(豊似川)を下るのは結構きつかった。
河口に差し掛かる頃には羽織も水飛沫を浴びて濡れていたが、手代の松吉に促されて待たしてある北國船に乗船したのである。
武田九郎信行は遭難時に着ていた小袖に羽織を着て裁着袴を穿いて、小荷物は肩口から背中に掛けた出で立ちで
艀の近くを眺めてみたがアベナンカの姿は見当たらなかった。
暫くは浜に平行に進む。
するとラヨチとエルの親子が何かを叫びながら砂濱を走っていた。
「お父さん、お父さん帰って来てね」
とエルの声で聞こえたのだ。
「待ってるわよ」
と今度はラヨチの声が届いた。
何と何とエルが和語で呼んだのである。
良く見ると後ろでカイが手を振っていた。
船首をサモロモシリ(本州)に向けて漕ぎ出すと、手を振るそれらの姿は、瞬く間に小さくなって行った。
武田信行は混乱していた。
エルはラヨチが生んだ子であることに違いなかったが、これまでオキクルミの子とは一言も明かさなかったのに…。
カイに訊いても知らないの一点張りであったのだ。
そればかりか謎の娘のエル(泥)はオキクルミをウエンぺ(悪い人)と言ったのだから驚き様は無かった。
そこでノブユキは奇妙なことを思い出したのである。
松前家と各地のアイヌとの緊張が高まる中で、中立の態度を表明した頃のこと、オキクルミはラヨチのチセを訪ねたことがあった。
「散々遊んでほったらかしにして、今度は若い女の元で楽しんでいる癖に。あたしの気持ちなど考えたことないじゃない」
「それは済まないと思っているよ」
「なら見せて、証明して」
ラヨチは足を投げ出して誘った。
オキクルミは立ち上がると目の前に立ち塞がって証明して見せた。
その後の会話で、子どもが出来たか出来ないかの話で、
「あたしならまだオキクルミの子を産むことが出来るわよ」
と言ったのだが、一部よく聞き取れない箇所があったのだ。
この時はまだオキクルミの子を産むことが出来ると聞いた積りだったが、如何やらまたオキクルミの子を産むことが出来ると言ったのかも知れなかったのだ。
エルにはミチ(父親)は死んだと教え、何時も来るおじさんは悪い人と教え込んだのだろう。
だが突然江戸に赴くことになって二度と会えなかったらと思い、レンカイネ(エル)にもオキクルミにも教えたものだった。
船上のオキクルミには分らなかっただろうが、砂濱を駆けて父を呼び続けたエルは涙を流して居たのである。
悪い人と教えられていた人が、死んだ筈の父親であったと教えられ、生きていた父がまた見知らぬ土地に去って行こうとしていることを知らされた娘は急に悲しみの感情に包まれて泣いたのであった。
海原に消えてゆく船を見ながらレンカイネ(エル)はオイオイと泣いていた。
ラヨチはそんな(エル)を抱きしめながら、
「父さんは戻って来るよ、待って居ようね」
愛しい人が戻って来ることを心から祈ったものだった。
そんな光景を遠くから見ている人影があった。
妹のクナウを連れたアベナンカであった。
アベナンカがノブユキに付いて江戸に行かなかった訳はこのクナウを独りに出来なかったのである。
両親が亡くなった今、クナウを見てやれるのは自分以外に居なかったので、置いて行く訳にはいかず、去りとて連れて行く訳にも行かなかったのだ。
それとエルのことが何よりも気に掛かっていたのである。
そこでそれを確かめんが為、家での見送りをそこそこにピロロに先回りしたのであった。ところが思惑に反して出航まで何も起こらなかったのだ。
〈思い過ごしだったのか〉
アベナンカが戻ろうとした時、
「お姉ちゃん見て」
とクナウが叫んだ。
二人が居るところから少し先の茂みからラヨチとエルが飛び出して、砂濱を走りながら、お父さんお父さんと呼びかけるのを目撃してしまったのである。
ラヨチが誰かの子を産んだという話は知っていたが、オキクルミが松前に滞在中のことで気にもかけなかったが、最近のオキクルミの話からある疑惑が浮かび上がって来たのである。
エルがオキクルミをウエンぺ(悪い人)と言ったこともそうだ。
何故にそのようなことをエルが言ったのだろうかと考えた。
エルは妹のクナウにミチは悪い人に連れて行かれて死んだと言ってたらしいが、ラヨチの息子のカイから聞いた話では、渡嶋に到着後松前の役人らにオキクルミは連れ去られて行方知れずとなったと聞いたのがそれに符合しそうだし、ウエンぺはラヨチに子を孕ませておきながらほったらかしにしたウエンぺに違いなかったのだ。
こんな緊急時だからこそ人は正直な行動を起こす物とアベナンカは予測したのだが、その読みが正に的中したのであった。
オキクルミこと武田九郎信行は江戸に帰った訳ではなかったが、果たして赴任地に戻って来るのか…それはアベナンカにしてもラヨチにしても分からなかったのである。
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