第8話 ランコの下で
幹回りの太い大きなランコ(桂の木)があった。
アベナンカは背中を付けて寄りかかると、小枝に付いた青葉が頬を撫でた。
アベナンカはその葉を取って指に挟んでオキクルミに見せた。
「これ分る?」
「ランコの葉だろう」
「そうよ、この形に意味があるの」
アベナンカは
「どんな意味だね」
オキクルミはその葉の先っぽを左の指で挟むと左に寄せて己の顔をアベナンカの顔に近づけた。
するとそれを妨げる様に葉っぱを間に置くと
「これは心の形なの」
と胸の辺りで手を回す。
「二人ともこれと同じものがあるというのかね…ふ~ん、心の形か。すると何か、色からすると未だ若いんだね」
オキクルミも砕けて話す。
「えぇそうよ。その内黄色くなったり赤くなったりするわ」
「思いが届くとそうなるのか。でも落ちて枯れてしまうだろう。そうなると…」
「何時か枯葉が匂うって言ったでしょう」
「あぁとても甘い匂いがしたよ」
ランコの葉は、外国の言葉で表現するとハートの形である。
そして落葉して枯れると甘い匂いを出す。
来春になると新たに花弁や
又アベナンカは、大酋長である父からランコの皮を剥いで屋根に葺いたり、チセの内側の壁に使ったりする物と教わって居たのでそのこともオキクルミに話して聞かせたが、如何やら関心事は別にあった。
「心が通じないと花も葉も付かないんだな」
アベナンカはシサムの戦士(侍)に訊きそびれていたことを思いだした。
「マツマエで名前を思い出したんでしょ。それを教えて欲しいわ」
アベナンカはすっかりシサム(和人)に戻ってしまったオキクルミの正体を知りたいと思ったのである。
「名前は武田九郎信行と言うんだよ」
「長い名前ね」
「信行でいいよ」
「ノブユキね」
オキクルミはアベナンカの手を引いてランコに凭れ掛かるように座り込むと、松前で起こったことを話した。
「大変だったわね。エドとかいう土地には帰らなかったの、どうして?もう会えないかと思ってたのよ」
そう言いながらアベナンカは信行の髷を触るのだった。
「此れって何なの」
「此れは本多髷と言って侍が結う髪だ。ちょん髷とも言うんだ」
コタンに来てからは髷を解いて月代も伸ばすと、部落民と同じ髪型にしていたのだが、
松前で職に復すと、髪も本多髷に結ったのである。
「何時まで居られるの」
アベナンカは切なさそうに訊く。
「他も回らなければならないので二、三日ぐらいかな」
「わたしのとこに居て、離れないで」
アベナンカはランコの葉を二枚取るとそれをお互いの胸に押し付けて一枚をノブユキに手渡したのである。
すると信行は懐から手拭いを取り出して
その半切れをアベナンカに渡すと同じように包んで懐に入れた。
「落とすなよ」
ノブユキとアベナンカは童心に戻ったように二人の秘密を持った。
「ノブユキ、あなたに二つ名前があるようにわたしも和人の名前が欲しいわ」
アベナンカの言おうとしていることを理解した信行はならばと、
「
ノブユキの説明にアベナンカは喜んだ。
そして希望を添えてこう言うのだった。
「あなたについて行くときは武田九郎菜乃香というのね」と、
ノブユキは思わず吹き出して笑った。
「その場合は武田菜乃香で良いのだよ。武士の名前は武田が苗字で九郎が通称、で信行が
「それならノブユキでは失礼なのね、九郎と呼んだ方が良いのね」
「どちらでも良いよ」
こんな会話が楽しかった。
未だ落ち葉にもなっていない青葉からか、其れとも樹木からか甘い匂いが漂っているような感じがしたのである。
「匂わないか?」
「分からないわ」
「菜乃香の匂いかな」
信行は態と菜乃香の胸に顔を埋めて匂いを嗅いで見せた。
「良い匂いだ」
「ちょっと~」
と菜乃香は信行の顔を押し返すと、ヘラのような紐の付いた竹を取り出して左手の小指に紐を絡ませて口にあてがう様にして、右手人差し指と中指挟んだ長い紐を前に弾くように繰り出すと、『ブンブンブンブンビュンビュン』と音が鳴ったのである。
空気を吐き出すようにして鳴らすその楽器はムックル(口琴・一般的にはムックリという)と言って風の音や動物の鳴き声に恋人への思いを伝える楽器であった。
「菜乃香教えて呉れないか」
ノブユキは竹で造られているその楽器を持って菜乃香がしたように真似てみるが音が出なかった。
「今度教えてあげるね」
ノブユキはムックルを返す時に菜乃香の手を引いて頬に口付けすると、
「さあ戻りましょ」
アベナンカは肝心なところになると、上手にはぐらかしたのだ。
酋長の娘として育ったアベナンカは両親の
だが九郎への思いは半端ではなかったので、
手順さえきちんと踏めば良かったのである。
その辺り九郎が察しれば、もたつくことなく進展していたに違いなかった。
コタンに戻ると酋長のチセの前に祝いの膳が並べられて集落の人々が集まっていた。
「ワァご馳走だ」
子供らは普段食べることの出来ない御馳走に大喜びであった。
大鍋の肉は如何やらユク(エゾ鹿)やフミルイ(エゾライチョウ)で細かく切って入れ、それに山菜などを入れて煮込んだオハウ(煮込み汁)が幾つもあった。
他には鮭の塩漬けや昆布巻きなど大きな器に盛られてあり、銘々が好きなだけ取って食べた。
酒器の中身は稗で作ったアシコロ(どぶろくに似た醸造酒)であった。
オキクルミ(武田信行)はムカルやコタンの有力者たちとそれを飲んでいた。
その前で集落の女性たちによる歌舞が始まった。伝統的な踊りや唄であった。
アベナンカも加わって居たが、踊りの巧さよりもその美貌が際立って見えたのである。
すると暫く席を外していたカイが横合いからオキクルミを呼んだ。
ムカルに断ってカイの傍に行くと、
「ハポ(母さん)が呼んでいる」
というので、
「分かった直ぐ行く」
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