第6話 正体を知る 

 藤谷殿、怪しい者の取り調べにて口出しされては困る」

「そうではない。その男に見覚えが御座ってな、暫しお待ち下され」

 調べを中断したその男公儀の役目でつい最近松前に来たらしく、松前の役人とて言うことを聞かない訳にはいかなかったのだ。

 藤谷と言う男がオキクルミをしみじみと観察する。

そして後ろに回って裁着袴の腰板辺りを見てハッとした表情からにっこり笑って声を掛けたのである。

「武田様ご無事でしたか、良かった良かった」

 と二の腕に触れながら泪を流したのである。

役人らは何が起こったのか解らず、ポカンとしていた。

 それとオキクルミ本人も未だ理解に至らなかった。

「縄を解いて下され。この方は武田九郎信行様と言って拙者と同じ蝦夷奉行配下調役で、二年ほど前に此の地に向かう途中で船が嵐で遭難してしまい、行方知れずのままとなって居た方なのです。

その後暫く捜索したのですが、水主かこらと共に見つからず、結局拙者が後任となって当地に赴いたということなのです。

さぁ武田様を放ち置き下され」

 藤谷弥五郎の話に得心の行かぬ者も居たが、役人達の中には其の事故を覚えていたので、不承不承武田信行を藤谷に渡したのだ。


 藤谷弥五郎は武田信行を連れて詰所脇の宿舎に戻ると、これまでの苦労を労い、無事生還と称して祝いの酒盛りを始めるのだった。 江戸に於いて役目に就いたばかりの弥五郎は、先輩の武田信行に業務を一から教わったもので、信行が蝦夷の地に出立するひと月ほど前まで、細部に亘って指導して貰ったものだった。

 その後輩が此処蝦夷奉行連絡所の頭として、松前家と蝦夷地の各集落との平等な交易とその間に起こる抗争防止に努めるとともに、一部部族が隣国にも亘って居る為、その国からの干渉を監視する役目もあった。

だがそれはまだ警戒の域に過ぎず、本格的防衛拠点を築くまでには至っていなかったのである。


「武田様がアイヌモシリ(アイヌの地)に居られるとは夢にも思いませんでしたなぁ」

 藤谷は感無量と言うように頭を下げて目頭を拭いた。

 オキクルミは先刻から武田と呼ばれていることで、自分の名が武田だと知ったが、そう言う藤谷のことや蝦夷奉行配下の役人であったことも未だ思いだしては居なかった。

だが取り調べられた時和語を話したので、この言語だけは思い出したということなのだろうか…。

「ところで遭難されて何処に居られたのですか」

「海から可なり入った山に近い所で、ポロフーレペツという川を下って海に出たよ」

「ポロフーレペツと言う川ですか、どの辺りだろう。今日来てるアイヌはユーパロ(夕張)やオペレペレケプ(帯広)なんかだが」

 すると入り口近くに居た足軽の一人が、

「ポロフーレとは豊似川のことですよ」

「どの辺りだ」

「ポロフーレはピロロ(広尾)の北側の山の先辺りを流れてる川です」

 この男は鰍澤救平かじかざわきゅうべいと言って本来はウスケシ(函館)のアイヌであったのだ。

コタンによっては言葉も可なり違うが、先祖からの伝承で各地の種族の成り立ちを伝えているようで詳しかった。

「ポロフーレと言うより、その方の話からすると支流の傍のようですから、コタンの在る所はもしかするとカシュンナイという川かも知れませんね。その辺りに散在するコタンの何処かにいらしたんでしょう」

 救平は流暢な和語で語った。

「土地の者はメナシクルと言って居ったよ」 

 と信行が思いだして言うと、

「それは総称です。シプチャリ(静内)辺りからアトゥケウシ(厚岸)の先辺りまでに存在するアイヌのことです。

その隣の夕張や沙流等はシュムクルというのです。種族を表す言葉ではないと思います。

「流石物知りだ。ところで武田様、江戸に知らせたいと思いますが宜しいですか」

 一旦は生存不明で処理されてはいたものの御家人として武田家の家禄百俵は召し上げられていたので、生存確認の報告によって、復活する筈だからであった。

藤谷弥五郎の忖度と言うより役目上の務めであった。

「お頭、出来ればそれは願い下げたい。コタンには家族が居るので、もう江戸に戻るつもりはない」

 藤谷や其処に同席している下役連中も武田九郎信行の言葉が信じられなかった。

「先程館にムカルと名乗るアイヌが訪ねて来て、コタンに帰ると述べたらしいです。その際オキクルミは何処かと訊かれて知らぬと答えたらしいです。恐らく交換が済んだので早々に出立したのでしょう」

〈何と言うことだ〉

 自分が誰であるかは分かったが、此処は居場所ではないと思うと、直ぐに追いかけようとしたが藤谷に止められたのである。

「どうしてもと言うなら港に確認に行かせますのでお待ち下さい。さぁさ飲みましょう」

 勧められるままに酒を飲むと、疲れが出てそのまま寝てしまったのである。

気が付いた時にはムカルらは出航していた。 


 コタンに還りそびれた武田九郎信行(オキクルミ)は嘗ての後輩藤谷弥五郎剛義の下で調役として、役料七十俵で連絡所に残った。

 信行らは交易所で取り交わされる貿易の公平さを監視していたのである。

だがこれ等蝦夷地に於ける交易が盛んになると、その物量は膨大になった。

 領主松前を始めとして、家臣らの知行はこうした交易で得た品物を商人に売ることによって得られたのだが、アイヌとの交易に際してはそれなりに品物を用意しなければならなかった。

そして城下ではなく地域毎に商場を設けて交易場とすると、更に経費が掛かり資金が必要となったのだ。

 これを商場知行制と言った。

蝦夷地のような寒冷地では稲の栽培が難しく、米の収穫が望ない上、領内における鮭や鱒漁に採金等の権利が領主に帰属した為、借金までして給地内での交易品を用意しなければならなかったのである。

 そんなところから、中には商人に商場にて直接交易させる家臣も出てきた。

後の場所請負人制に近いやり方で、交易を商人に代行させたのだ。

こうすることによって自らの負担を軽減し、知行主は運上金を取ることで知行としての収入を得たのである。



 そうした知行地での遣り取りについては、蝦夷奉行の関与することではなかったので黙認した。

武田信行の関心は、知行主とアイヌの公平な交易だが、直接商人が介在することでそれらが崩されてしまいそうな感じであったのだ。

 時にそうした苦情が入った。

それらは交易相手のアイヌからで、和語が話せない為鰍澤救平のような通史がその任に当たったが、武田信行も片言乍ら聞き取ることもした。

 だが多少なりとも使える言葉は南側のメナシクルの言葉で、シュムクルやヨイチ、イシカリで話されているアイヌ語は部分的には分っても、大方は聞き取ることが出来なかった。

 通史の鰍澤救平が言うように、全く違っている訳ではないとするならば、恐らく共通の言葉、詰まりアイヌ祖語が在って、この様に地域によって変化したのだろうと勝手な推測をしたのである。

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