ある街のものがたり
紫陽_凛
第1話 ふゆのまち、一周30分
精神を患って仕事を辞めた。大学院を出て六年続けた仕事だったが、医者も恋人も「そんなところ辞めてしまったほうがいい、死んでしまう」と言って強硬に私を説得し続けた。私は、もう少し、せめてあと半年、せめて四ヶ月――と粘っていたのだが、どうしても体の方が言うことをきかず、休職で体を騙すことをやめ、三十歳になる手前の十一月で職を辞した。無責任だ、と今でも思う。成就する手前で手放した仕事のことを思い返さない日はない。せめて最後まで見届けたかったと思う。許してほしい。申し訳ない。
許してくれ。
知らず知らず漏れていた心の声を聞き取ったのか、「マシュマロ」が柔らかい耳をぴんと立てた。私は思わず笑み、マシュマロのふさふさの頭を撫でてやる。「ぜひ撫でてください」とばかりにぱたんと倒れた両の耳が、なんだか愛らしい。
「お前には関係ないよ、なんでもないよ、マシュマロ」
昨日、初雪を被ったばかりの山の峰にむかって、マシュマロがくんくんと鼻をひくつかせる。ゆったりと進めていた歩調をゆるめ、ぴたりと止まると、空の彼方を見る。彼女はよくそうして散歩を止めてしまうことが多かった。
一回30分、一日三回、秋田犬の散歩、二匹分。それが今の私の仕事だ。
時給千円にして三千円。散歩は毎朝八時半、十四時、そして十七時半からの三回。犬は二匹いて、名前はマシュマロとクッキー。マシュマロはメスで、クッキーはオス。二匹は古民家を改造して作った旅館「ひいらぎ」の看板犬で、お客様の人気者。飼い主は腰のまがった老夫婦で、散歩メインの仕事を請け負ってくれる人を探していたらしい。
参ったままの精神ではどんな楽な仕事でもへとへとに疲れてしまう。だが恋人が紹介してくれたこの日給三千円のアルバイトは、私の精神と体を適度に動かしてくれた。
何より、散歩以外の時間は旅館のラウンジや休憩室でどう過ごしてもよいというのが、決め手だった。私は自分のアパートから本をラウンジに持ち込んで、文章までは読めずとも、その文字列の形をぼんやり眺めたり、オーナーのコレクションしているという画集を借りて開いたり、休憩室を拝借して少し横になったり、気が向けばフロントの女性パートタイマーと他愛ない話をしたりした。彼女が私のことをサナちゃんと呼ぶので、私は「ひいらぎ」ではサナちゃんという名前になった。
「サナちゃんはさ、家事とかするほう? しないほう?」
「調子がいいときは、やります。そうじゃないときはやれません」
「ほら、最近じゃ家事の担当をどうするかって、世帯ごとに違うじゃない? 旦那さんが率先してやってくれるところもあるって言うし、あたしの家みたいに女がやるものと決まってるところもあるし」
先輩はかまわず話を進めていく。とにかく昼の間、特にお客さんがチェックアウトしたあとの時間は彼女にとって暇らしい。話を聞いてくれるのなら人形でも良いと言わんばかりだ。けれど不思議と、彼女のとげのない丸い声音は、私の病んだ精神を傷つけなかった。
「サナちゃんちはどうなのかなって思ったわけ。ってことは、彼女さんがやってくれるの」
「恋人が担当してくれる事のほうが多いですね。……でも、いつも申し訳ないです。あいつだって忙しいのに――」
申し訳ない。
許してくれ。
またこの思考に戻ってきた。私は視線でなぞるだけだった本を閉じて、先輩の話だけに思考を傾けた。
「サナちゃんが元気になって、バリバリ稼げるようになれば大丈夫よ。彼女さんだってそう思ってるでしょ――あ、ってことはサナちゃんがひいらぎ辞めちゃうってことか。それは嫌だな」
先輩は会話をころころとひっくり返しながら、苦笑した。「できれば長くいてほしいって、オーナーが言ってたよ。犬の散歩だけの仕事をやってくれるひと、いないもの。なにより儲からないでしょ? 日給三千円なんて」
「自分にとってはこれ以上無いリハビリみたいなものなので――」
足下に寝そべっていたクッキーが大きなあくびをした。私は目を細めて、手を伸ばし、そっとその赤毛の秋田犬の背中をなぜた。だるまストーブが、赤々と燃えている。
山が冠雪すれば、ふもとに雪が降るまでそう時間はかからない。例年より遅いとはいえもう十一月も下旬となろう頃、町に初雪が降った。慌てて出してきたブーツにダウンのコートを着込み、マシュマロ専用の赤いリードを握ると、雪に大はしゃぎの白い秋田犬は一度二度と跳ね回って「はやくいこう」とばかりに私を急かした。
「滑るから気ぃつけれよ」
おかみさんの「すべる」という言葉に苦笑する。それが
「寒……」
コートのフードを目深に被り、ファスナーを首元まで詰める。高校へ登校するために電車を使っている高校生たちが、ちょうど駅から出てくる。挑戦的な素足の生徒もいるのを見――女子高校生というのはことおしゃれに関しては妥協をしない生き物だということを思い出した。無防備を通り越した無謀は、私にはまぶしく映る。
マシュマロは滞りなく用を足すと、雪のなかで跳ね回り、新雪を蹴散らしながら鼻をあちこちに突っ込んで存分にその匂いを嗅いでいた。とてもまねはできそうにない。お姉さんやオーナーが愛を込めて「寒冷地仕様」と呼ぶ彼らの毛皮は、雪程度どうってことないらしい。
ふと、マシュマロが雪に突っ込んでいた顔を上げた。そしてぶるぶると顔の周りの雪を払い落としたあと、くるりとこちらを振り向き、 「どうです、みつけました、いいものでしょう」と言わんばかりに「それ」を私に見せびらかした。
「それ」は極彩色の毛糸を編んだもので、ひとめで誰かの手作りと分かるものだった。私は一瞬呆けて、それから手を伸ばした。
「マシュマロ! だめだ!」
私はマシュマロの首輪をひっつかみ、マシュマロがくわえてはなさないそれを無理矢理もぎとった。マシュマロのよだれと泥とで汚れたそれは、私の手より一回り小さな手袋の片方だった。子供の落とし物にしか見えなかった。
「ど、どうしようこれ」
マシュマロはまだそれをおもちゃか何かと勘違いしているらしい。しきりに狙ってくるので、私はその誰かの落とし物をポケットの奥に押し込んだ。そしてマシュマロに「もうない」ことを教えると、続きの散歩道を急いだ。膨らんだポケットの奥にある極彩色の手袋は、私の頭の片隅にずっと残り続けていた。
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