第6話 状況は絶体絶命?(2)

 授業中なので人の気配はなく、保健室まで誰ともすれ違わず移動することができた。


「さっきまでちょっとした騒ぎになってたみたいだけど、大丈夫なの?」

「はい。ただ雪門が急病みたいで……マスクとベッドを貸してくれませんか?」

「いいけど……熱? はいこれ、体温計」

「ども」


 日に当たったことがなさそうな白い指から体温計を受け取る。

 先生の爪が赤かった。マニキュアだと分かっていても白衣で赤い爪は少し怖い。

 アラフォー……だっけ? 年齢よりも若く見える、女性の先生だ。


「君が付き添い? 神谷君」

「そうです。おれもすぐ教室に戻りますよ」


 ならよし、と保健の先生が頷いた。言われる前に言ったが、やっぱり雪門の付き添いで授業をサボることは難しいか……仕方ない。

 雪門にマスクと体温計を渡す。ゆっくりとブレザーを脱いだ雪門が、ぎし、と軋むベッドに腰かけ、横になる。期待をする目でおれを見てくるけど、なんだよ……なにを求めてるんだ……?


「マスクつけとけ。表情を見られないだけでだいたい誤魔化せるもんだから」

「ん。つけて」

「どういう甘え方なんだよそれ……!」


 掛け布団の下で足をじたばたさせながら、しつこくねだってくるので仕方なく。マスクを受け取りヒモを雪門の耳にかけて。イタズラで引っ張って、ゴムパッチンみたいにしてやろうかと思ったが、こいつの場合ははしゃぎそうなのでやめておいた。


 雪門の顔と姿で、中身が子供なんだよなあ。別人だ。

 人が変わったような雪門は、文字通りに人が変わっているのかもしれない。そうなると元の雪門がどこにいったのか、になるのだが……。それが目の前の雪門がついさっき言っていた、「黒冬さんがいなくなっちゃったの」だ。


「そう言えばさっきさ、」

「体温計も」

「それは自分でやれよ。というか熱があるのか?」


 雪門の額に手を添えてみる。熱はまあ、なさそうだけど一応計るか。


「体温計は自分でやってくれ。できるよな? 深月ならできるよ」

「……できたら褒めてくれる?」

「褒める褒める」


 じゃあやる、と意気込んだ雪門がワイシャツのボタンを大胆に外していき、体温計を脇に差し込んだ。じっと見てしまった後で慌てて後ろを向いて椅子に座り、音が鳴るまでしばらく待ってから――ぴぴぴ、と体温計が計測終了を教えてくれた。


「よーちゃん」

「はいはい。んー? 七度、二分か……ちょっとあるんだな」


 過度なストレスで熱が上がったのかも。これからさらに上がる可能性もあるのか。


「まあ、大丈夫だろ。おとなしく寝てれば治るよ」

「よーちゃん」


 雪門がおれの袖を引っ張っている。……さっき約束したしな。


「よくできたな、深月は偉いよ」


 頭を撫でると、雪門は気持ち良さそうに表情を緩めた。


「あと、服のボタンはちゃんと閉めてくれ」


 体温計を差し込んでからそのままだから、大胆に鎖骨あたりが見えてしまっている。大きなふたつの塊の、谷間が自己主張してくるし……目のやり場に困るのだ。

 雪門が自分で閉めようとするが、横になっているせいなのか微熱があるせいなのか、なかなか上手くはできておらず、泣きそうになっておれに助けを求めてくる……はぁ。


「じっとしてろ」


 言われた通りにじっとしている雪門は、その場で凍ったように硬直している。そこまでしなくても……と思ったが、やりやすいのは確かなのでそのままにしておいた。

 ボタンを閉め、彼女の白い肌を守る。掛け布団を胸の上までかけてやってから、


「今日は安静にな」

「よーちゃん……わたし風邪じゃないよ?」


「微熱はあるだろ? だから――」

「神谷君、そろそろ授業に戻りなさい」


 と、保健の先生に急かされてしまったので仕方ない。雪門にはまたくる、と伝えて保健室を出る。いかないで、と訴えてくるあの目で見られて、すぐに視線を逸らしたのは正解だった。まともに見ていたらここから出られなくなっていた。


「そりゃ、おれも傍にいてやりたかったけど……」


 と、廊下でひとりごちる。今の雪門をひとりにしてしまうのはとても不安だった。



 一時間目の授業を終えてすぐに、クラスメイトから……主に雪門の信者から根掘り葉掘り状況を聞かれた。急病で、倒れていたところを見つけた、とだけ説明した。信者が保健室に集まるのは遅かれ早かれ避けられない問題だし、隠す意味はなかった。


 先に体調不良だと伝えておけば、信者も遠慮するだろう……と思っていたが、


「……すっげえな」


 昼休みになると信者たちが一気に保健室へ集まっていた。扉の外まで信者たちが溢れんばかりだ……。これでも遠慮して、きていない生徒がいるのも事実。

 雪門の信者は全校生徒の数に近いと言ってもいいのだから、体育館を埋めるほどの人数が本来なら保健室に集まることになっていた。それに比べたらかなり少ない方だ。


「大丈夫ですか雪門様!?」

「必要なものなどはありますか? 私共で集めてきますので!」

 と、人の壁の向こうから聞こえてくる。


 マスクをつけている雪門には「必要以上のことは答えなくていい」と教えてある。なので迂闊に多弁になったりはしないだろうが……。

 それでも信者の勢いと熱に、ぽろっと答えてしまうことはあるかもしれない。

 多少ミスがあっても今日は大丈夫だろう。体調不良という理由はやっぱり強く、雪門深月の異変を誤魔化す効果は充分にあるようだったから。


「…………」


 自販機で買ったスポーツドリンクを差し入れてやろうと思ったが、この人混みだと難しいか。それに、これだけの信者がいれば差し入れのひとつやふたつ、どころか三つ四つあるだろうし、おれの一本のペットボトルなどいらないだろう。

 諦めて引き返そうとしたが、


「……また、きてね?」


 またくる、と言いながらも授業の合間の休み時間には一度も顔を出さなかった。当然、その時も少なくない信者がいたし、時間も短いので保健室に寄れなかったという理由もある。だから昼休みにしたのだが、信者たちも同じ考えだったのだ。

 混むことは分かり切っていたはずだけど、それでも約束したのはおれだ。以前の雪門なら別に、ここで顔を見せなくとも問題はなかったはずだ。不満があっても状況を見て仕方ないと分かってくれるはずだから……でも、深月は?


 おれが顔を出さなかったら、深月は不安に押し潰されてしまうのではないか? そんなに脆い子ではないと思うが、朝の彼女を見ていれば……。

 甘えたがりだった。重荷を背負い、その扱いに困っていた。問題の大きさに怯えて、逃げて、隠れて丸まっていたくらいなのだから、これくらい大丈夫だろ、と決めつけるのはまだ早い。

 信者に囲まれて安心しているならそれでいいし、そうであればおれの役目は必要ない。でも、もしも信者の質問が、彼女の抱えている問題を刺すようなものなら安心には繋がらない。


 今の彼女が、信者たちにその気がなくとも針のむしろ状態だとすれば。


「……顔だけ出すか」


 必要とあれば。信者を追い返すことくらいはしておくか。

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