感情ゴミがあるディストピアSF

新棚のい/HCCMONO

第1話

「C22033179の方、福祉課9番窓口へお越しください」

 合成音声が私の番号を呼ぶ。合成音声はカクテルパーティー効果が無い耳にもよく通る。その声に促されてロビーチェアから立ち上がる。

 福祉課に近づくに連れて空気清浄機の間隔が狭まっていく。必要以上に清浄された空気は苦しい。酸素濃度は調整されているはずなのに。

 窓口で身分証明のカードをリーダーにかざす。承認されると窓口の扉が開き、薬の束が現れる。

「前回の来庁以降の生活はいかがですか?」

「特に何もありません」

「それは良かったですね。今回の分のお薬です。気持ちが昂ぶったときに飲んでください」

 福祉課の窓口は調剤薬局と同じ臭いがする。いや、調剤薬局の方が遥かにマシか。薬剤師は必要な言葉しか発しないから。

 薬で膨れたエコバッグを隠すように胸元に抱える。福祉課の脇の通用口から退出する。

 通用口で擦れ違う人間はみんな目が死んでいる。当たり前か。通用口を使う人間は福祉課に用がある。つまり何らかのハンディがある人間だ。

 役場の敷地を出て、ようやく顔を上げた。眩しい。空は赤みを帯びている。もうそんな時間か。

「あほくさ」

 声に出さずに唇だけ動かす。強張っていた身体がわずかに弛緩した。

「あほくせぇな」

 小さく声に出してみた。呼吸が楽になる。ってことは感情が溜まっているのか。また捨てなければ。

 コンビニに入る。ゴミ袋とストロングゼロを買い物かごに放り込む。セルフレジで会計を済ませてエコバッグにしまう。薬のPTPシートがガサガサと音を立てる。不快な音だ。ああ、でも隣室の住人の上げる奇声よりはずっとマシだ。

「ただいま」

 唇が擦れる音の方が大きい程度の声で挨拶をする。返事はない。ただいまを言う相手はイケアで買ってきたサメのぬいぐるみだけなのだから。淋しくはない。しかし壁が薄い福祉住宅暮らしは辛い。独り言ちることもままならない。不意に「あっ」とでも発せば聴覚過敏だという隣人が壁にヘッドバンギングしてくる。

 隣人は他人が発する音には過敏だ。自分の奇声は平気なくせに。それでも鍵がかけられる部屋があるだけグループホームよりはマシだと思う。

 グループホームはプライバシーもへったくれもない。壁に貼っていたポスターは同居者によって破かれた。

 器物損壊罪その他刑法はそいつを裁かなかった。しかし私は怒りを露わにはしなかった。そいつに対しても、田舎から来たそいつの老親に対しても。代わりに破かれたポスターと同じものを2枚買わせた。謝ったら丸く収まると考えているのが透けて見えたから。私は謝まったら許す相手とは思われたくなかった。

 夜の分の薬をストロングゼロで飲んで、イケアのサメを抱いて横になる。それしかすることがない。サメだけが私に柔らかく優しい。隣人はまた奇声を発し始めた。この感じでは今夜もまともに眠れはしないだろう。


 光目覚まし時計に無理矢理起こされる。サメを潰しながらのろのろ上体を起こす。ベッド脇のゴミ袋の上部を括って持ち上げる。プラスチックゴミに比べ感情ゴミのゴミ袋は重い。負の感情の重さそのままなのだから当然だけれど。

 福祉住宅のゴミ捨て場は汚い。そして感情ゴミの置き場はいつも崩れそうに積み上がっている。あ、落ちた。しかし他人の出した感情ゴミは触りたくない。不用意に触るとろくな目にあわない。以前うっかり触ったら3日寝込む羽目になった。

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