第5話 乾杯

 カタカタカタカタ……。


 いつものオフィス、まるでBGMかのように四方八方からキーボードの音が響いていた。


 だけどより一層早く、そして何よりも、謎の覇気を感じさせていたのは……。


「……」


 長い黒髪と、冷たい視線がパソコンのモニターを見つめる、渋谷さんだった。


 きっと彼女の耳には届いてないのだろう、「今日の氷姫はいっそう険しいな」なんて、ヒソヒソ話が聞こえてくる。


 そんな声に、ふと俺も渋谷さんの方をチラリと見て、すぐにモニターへと視線を戻した。


「今日の渋谷さん、やばいってよ」


 すると、肩をポンと叩かれ爽やかな声が聞こえた。


 俺は顔をそちらへと向けると、「よ、お疲れさん」と爽やかな笑みを浮かべた中街が、椅子に腰掛ける。


 そんな中街に対して俺は、包装された飴玉をヒョイっと投げた。


「あぁ、そっちも出張お疲れさん。どーだった?」


「お、せんきゅー。いい街だったよ茅ヶ崎は、どこ行ってもサザンだし、すごく時間の流れもゆっくりに感じた。こりゃ早期退職して第二の人生は茅ヶ崎で決定だな」


「いや、そう言う事じゃなくて、成果的な話だよ」


 すると、「うわ、すーぐに仕事の話」と、呆れた様に首を振る。


「まぁ、結果は良好。少なくとも怒られる事はないと思うよ」


 そう言い切ると中街は包装を開けて、カロッと飴玉を口に放り込む。


 きっといつもの味に満足したのだろう、彼は満足げに鼻から息を抜くと、パソコンを立ち上げた。


「そんで宮ちゃん、今日のところは逃げるが勝ちって感じがするんだけど、定時で上がって飲みとかどう?」


「あー。そうだな……」


 パソコンの画面を見ながら発言した中街を横目に、俺はチラリと渋谷さんの方へと目を向ける。


 視界の先の彼女は、いつもと変わらず綺麗な顔立ちの、無表情で。


 きっと、バリバリの仕事モードの入っているのだろう。


 それもそのはず。何たって渋谷さんは、つい先週から始まったプロジェクトを遂行するための重要なメンバーに選ばれたのだ。


 きっとそれは、名誉なことであり、また彼女の仕事に対する信頼なんかもあったりするのだろう。


 でも……。


「どーしたの、宮ちゃん」


「……ん? あ、いや……渋谷さん、最近ずっと残業してるから、大丈夫かなって」


 そう言って、俺は中街の方へと顔を向ける。


 すると、中街はくすりと鼻を鳴らして、「へー」と話し始めた。


「先週までは、あの渋谷のやろー、とか言ってたのに、ずいぶん心配そうじゃん。何? もしかして渋谷さんに脈アリなの?」


「バカか、そう言うのじゃないっての。シンプルに心配してるだけだ」


「えー、でもあの宮ちゃんが他人の心配するなんて〜、中街、ちょっとシンジらんな〜い」


「なんで急にオネェ口調になるんだよ……つーか、俺の印象どうなってんだよ」


 そんなやりとりをして、お互いに失笑をしてパソコンに向き合う。


 その後昼休みも、ちょっとした休憩時間中も、渋谷さんとは一言も話すことなく、タイムカードを切った。


 



「それじゃ、また明日〜」


 そんな風に手をひらひらと振ったのは、酔いが回って若干頬が赤くなった中街だった。


 気をつけて帰れよー。そう俺も手を振り返して、背中を向ける。


 時刻は20時。ほどよく回ったアルコールが、何だか心地よかった。


 さて、明日も仕事だし、さっさと帰って……。


 なんて。考えた瞬間、ふと浮かんで来たのは渋谷さんのことだった。


 丸一日、全く話せなかったし、何よりも今日の彼女の表情は、何とも言えないような寂しさと、焦燥感があった様な気がする。


 それに、最近はずっと休憩中もパソコンで作業してるし……彼女は本当に休めているのだろうか。


 酔いが回っているせいなのか、それとも、それ以外の何かなのか。


 とにかく、彼女のことを考え出したら、止まらなくなった。


 そして、俺は……。


「……お疲れ様でーす」


 そんな消え入りそうな声で、退勤したはずのオフィスへと入る。


 下のコンビニで買った、カフェオレとマシュマロを持って。


 一箇所だけ電気はついているものの、返事はなく、恐る恐る渋谷さんのデスクへと歩み寄る。


 すると、彼女はデスクに突っ伏してスヤスヤと寝息を立ていたのだ。


 あまりにも珍しい光景に小さく息を漏らした俺。だけど、酔いが回っているせいもあったのだろう。


 こくりと唾を飲み込んで、彼女の寝顔をのぞいた。


 普段はキリッとしていて、頼れる渋谷さん。


 だけど今、目の前にいるのは、なんか小さくて、時々唇がむにゃむやと動いて。あと、髪の毛を何本か食べていて……。


 とにかく、普段の彼女とは程遠い、なんか可愛い生物みたいな感じだった。


 すると、ん……。と息を漏らした渋谷さん。目を薄く開けらぼんやりとした眼差しで俺を見つめる。


「……ぱぱ?」


「……ぶっ!」


 死んだ。可愛すぎて。


 しかし、それで完璧に意識が覚醒したのだろう。ハッと声を上げた彼女は椅子から飛び上がり、左手を前に構える。


「えっ……み、宮部くん!? 何で……てか私……え?」


「いや、そんなに驚かないでくださいよ。差し入れ持ってきただけなんで、落ち着いてください」


 そう言ってアワアワと慌てふためく彼女のデスクに、カフェオレとマシュマロの袋を置いた。


「あんま頑張りすぎると、体壊しちゃいますから、ほどほどにしましょう」


「あ……うん。ありがとう」


 小さく息を吐いた渋谷さんは、再び椅子に腰掛ける。


 そして、「それじゃ、いただくね」と言って、袋を開けた彼女は、その小さな口でマシュマロを頬張った。


「……なんか、色々聞きたいけど……何で戻ってきたの?」


「いや……なんか最近渋谷さん切羽詰まってたから、大丈夫かなって……それと、ちょうど近くで飲んでたので、寄ってみました」

 

「……だから、焼き鳥の匂いするんだ」

 

「え、やっぱします?」


「うん」

 

 小さく頷いた彼女は、カフェオレをストローで吸い上げる。


「そっか、でも私のこと心配してくれたんだ」


「いや……まぁ……はい」


 改めて言われると、なんか恥ずかしい。


 そう彼女から視線を逸らして後頭部を掻く。


 すると「……ちょっと待っててね」そう、言った彼女はスマホを持ってゆっくりと立ち上がる。


 静かな動作でオフィスを後にした彼女は、数分後、白いビニール袋を片手にして、戻ってきた。


「はいこれ」


 そう言って彼女はビニール袋から缶を取り出す。


「え……いやいや、これ……マズイんじゃ……」


「うん。でも、今は私たちしかいないし、それにバレなきゃ犯罪じゃないって、何かのアニメでも言ってたし」


 だからさ。そう区切って、彼女は小さく息を吸う。


 そして、あのデートの時みたいにやんわり微笑んでは、


「ちょっと寂しかったから、もう少しだけ付き合ってよ、宮部くん」


 缶のプルタブを引いて、カシュッといい音を鳴らせる


 そんな渋谷さんに対して、驚きの感情もあったけど。


「まぁ、確かにそれはそうですね」


 そう言って俺もプルタブを引く。


「それじゃ宮部くん、何がとは言わないけど……」


 ……。


「「乾杯」」


 ゴロンという、液体の入った缶がぶつかる音二つ。


 口の中にしゅわりと広がった炭酸は、なぜかちょっとだけ甘く感じた。



 

 

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