マッチングアプリで待ち合わせをした結果、そこにいたのは『氷姫』と名高い女上司でした。
あげもち
第1話 『氷姫』
「あのさ、宮部くん」
頭上から聞こえたツンとした声に俺は思わず手を止める。
決して低いわけではないが、落ち着いた声のトーンに俺はその人物が誰かを悟る。
そして、ついさっきまで俺の隣にいたはずの同僚が、すでに事務室のドアノブを握っているのが目に入り、俺は心の中でため息を吐く。
パソコンのキーボードを打つ手を止め、そちらに顔を向けた。
「……お疲れ様です、渋谷さん」
思わず顔を引き攣らせた。その、黒くてサラサラな前髪の奥からこちらを覗く、ツンと冷たい瞳に。
「お疲れ様、宮部くん。それで要件なんだけど……わかるよね?」
そう言って俺の上司『渋谷 木乃香』は、白いカットソーから伸びた華奢な手のひらの上で、紙の束を弾ませると、大人っぽい切長の目をぱちぱちと瞬きさせる。
ちなみに彼女の手に握られている書類は、昨日俺が彼女に提出したものだった。
……つーか、何がわかるよね? だよ。怒るんなら怒れよ。
「えーっと、それ昨日自分が提出した書類ですよね? 何か問題でもありましたか?」
すると、こくんと頷いた彼女は、何も言わず付箋だらけの書類を俺に差し出す。
「とりあえず修正箇所付箋しといたから、修正よろしくね」
「え、これ全部ですか?」
「うん。修正箇所だから」
それじゃ。そう手のひらをこちらに見せ、くるりと踵を返す。
白いカットソーの上を揺れる黒くて長い髪の毛も、引き締まったお尻のラインを浮き彫にする黒のペンシルスカートも。
まるで一つ一つが大人っぽくて綺麗なはずなのに、職場で見るそれは、苦手な事、この上なかった。
「はぁぁー! まじでウゼェ渋谷のやろう!」
ビールの炭酸を吐き出しながら、そんなことを言った俺は、右手でねぎまを頬張る。
しょっぱいタレの味とネギの甘みが口の中で絡まって、さらに次のビールを誘った。
「まぁ落ち着けって宮ちゃん。考え方変えたらご褒美じゃんかよ」
そんなヘラっとした話し方に俺は、「あ?」と顔を向ける。
すると、木製のテーブルの向かい側に座った俺の同僚、イケメンの『
「何だよごほーびって、結局残業だぞ残業。やってられるかってんだよ」
「まぁ確かにそうだけど、でも、あんな美人なお姉さんに無料で叱られるなんて、なかなかないよ?」
「なんで叱られるだけで料金が発生する仕組みなんだよ」
「え、だって宮ちゃんMでしょ?」
「否定はしないが」
そう返すと、くすくすと笑った仲街は、焼き鳥を頬張った。
「まぁでも、『
氷姫。そんな言葉に俺は今日のことを思い出す。
ツンと冷たい瞳。暖かさを感じさせない表情。
でも、だからと言って顔が整っていないわけではない。
むしろその逆、めちゃくちゃ美人なのだ。
長くてさらっとした黒い髪の毛も、大人っぽい切長の瞳も。
シュッと筋の通った鼻や、薄い唇、細い線の顎は、誰がどう見ても大人っぽい美人だろう。
きっと彼女が何らかの『スーツ女子』みたいな見出しの雑誌に載っていても、対して違和感はない。
しかし、それゆえだろう。その誰に対してもドライな態度が逆に浮き彫になっているのは。
俺は、はぁとため息を吐いて、スマホに目を向ける。
「あんな美人で仕事もできて、そんでもって彼氏もいるんだから、ほんと勝ち組だよなあの人」
「うっわ、宮ちゃんすんごい卑屈。でもあれでしょ? 明日会うんでしょ? 女の子と」
そう言って、俺のスマホに目を向けた仲街。
『このたんさんからメッセージが届きました!』
というメッセージウインドウのスマホを消すと、俺はふふっと鼻を鳴らした。
「あぁ、まぁな。明日はちょっと頑張ってくるよ」
「あはは。まあ宮ちゃん、人はいい人だから大丈夫だと思うよ」
「何だよ人はって」
「褒めてんじゃんよ。さ、明日に響かないぐらい飲んだら終わろ」
そう言って向かい側の中街は爽やかにジョッキを傾ける。
彼の爽やかな笑みに誘われるように、俺もジョッキを傾けるのだあった。
そしてその翌日……。
ヤッベェ、めっちゃ緊張してきた……。
待ち合わせにしたのは、駅から直接改札のつながった商業施設内のカフェ。
そこの一番奥にある、背の低いソファ席に腰を下ろしていた俺は、緊張でどうにかなってしまいそうなほど、スマホと外の景色をずっと行き来していた。
この後の予定は、ここで一杯お茶をした後、夜の秋葉原を散策、神田明神を周り、お茶ノ水でバーに入る……。
うん、完璧だ。
俺は、ほろ苦いコーヒーを口に含むと、鼻から息を抜く。
相手の『このたん』さんは、アニメ好きのOLで、休日は頻繁に秋葉原に来るらしい。
でも夜の秋葉原は来たことがないと言っていたので、ちょうど今日から始まるUDX下のイルミネーションを兼ねて、一緒にいきませんかと誘ったのだ。
大丈夫、アキバデートを承諾してくれてるんだから、俺と趣味は合ってるはず……。
するとその瞬間。
「あ、あの……Miyaさん……ですか?」
そんな華奢な声にびくりとして、息を吸う。
それは、本当に会えたという嬉しさ反面、ここからが本当の勝負だという緊張も兼ねて。
そして、意を決して振り返った俺は……
「……は?」
「え?」
そんな声を上げた。でもそれは目の前の、グレーのパーカーと緩いデニム姿の女性も同じだった。
少しガヤガヤし始めた店内に、2人だけの沈黙が広がる。
そしてお互いに瞬きを繰り返した後、先に口を開いたのは。
「……えっと、もしかしなくても……宮部くん?」
つい昨日、俺に大量の書類を突き返してきたばかりの『氷姫』。
長くて黒い髪の毛と、大人っぽい顔つきの超絶美人。
「……渋谷さん……お疲れ様っす……あはは」
俺の上司、『渋谷 木乃香』だった。
マッチングアプリで待ち合わせをした結果、そこにいたのは『氷姫』と名高い女上司でした。 あげもち @saku24919
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