第6話 薬草採取 ―First Herbs―

朝露が残る草原で、ルーナから借りた薬草図鑑を広げる。


「青い星型の花弁...葉は互生で3枚一組...」


図鑑の挿絵と目の前の草花を見比べる。

似ているようで微妙に違う。

素人目には、どれも同じように見えてしまう。


(間違えたら、毒草を集めることになりかねない...)


慎重に確認を重ねる。

ルーナの声が頭の中で再生される。


『茎を折ってみて。青い汁が出たら、それが目当ての薬草よ』


試しに、一本の茎を折ってみる。

透明な汁。これは違う。


「次は...あ!」


折った茎から、鮮やかな青い汁が滲む。


「見つけた!」


思わず声が上がる。

これが、ヒールブルーと呼ばれる治癒薬の原料。


『根を傷つけないように、優しく掘り出すのよ』


土を柔らかく掻き分けながら、根の周りを丁寧に露出させていく。

前世でのフィギュア製作の経験が、ここでも活きる。


「こんな感じかな...」


ゆっくりと引き抜くと、白い根が姿を見せた。

傷一つついていない。


「よし!」


一本目の成功に、少し自信がつく。

でも、まだ集めなければならない数は多い。


日が昇るにつれ、草原に生命の息吹が満ちていく。

小鳥のさえずり。

虫たちの音色。

風に揺れる草のざわめき。


(なんだか、心地いいな)


デスクワーク人生しか知らなかった前世。

自然の中で作業をすることなど、想像もしなかった。


「あ、またここにも」


薬草を見つける度に、少しずつコツを掴んでいく。

どんな場所に生えているのか。

どんな植物と一緒に群生しているのか。


『採取に夢中になりすぎて、周囲への警戒を怠らないように』


ルーナの忠告を思い出し、時々周りを確認する。

魔物が出るという話もあるらしい。


(安全な場所とはいえ、油断は禁物か)


腰のナイフの感触を確かめながら、作業を続ける。


時間が経つにつれ、籠は少しずつ薬草で満たされていく。

汗が滲むが、充実感がある。


「ふぅ...そろそろ休憩かな」


立ち上がって背筋を伸ばす。

遠くには街の尖塔が見える。

風が気持ちよく頬を撫でていく。


(この後は...)


鞄の中の包みの存在を、ちらりと確認する。

これからの密かな楽しみに、少し胸が高鳴る。


「よし、もう少し頑張ろう」


再び薬草探しに目を凝らす。

異世界での新しい経験が、一つまた一つと積み重なっていく。

それは、布教という大きな目的のための、確かな一歩だった。


日が高くなり、喉の渇きを覚え始めた頃。

街からはやや離れた、小高い丘の陰に場所を決める。


(ここなら人目につかないはず)


新品の野営道具を広げていく。

革のシートを敷き、周囲に石を並べて簡易の炉を作る。


「まずは...」


何度も周囲を確認してから、鞄の底から昨日の包みを取り出す。

紙を開くと、オークの肉が姿を現す。

たった手のひらサイズだが、ずっしりとした重みがある。


(『魔物素材の利用と禁忌』によると...火を通すことで、より効果が引き出せるはず)


持参した塩と、高価だったがルーナから分けてもらったコショウを振りかける。

調理器具は最小限。小さな鉄板と、火打ち石。


「火起こし...と」


乾いた枝を集め、火打ち石を打ち付ける。

何度か失敗するが、ようやく火種が着く。


「よし」


慎重に息を吹きかけ、徐々に炎を大きくしていく。

前世でキャンプの経験がなかったため、これだけでも一苦労だ。


鉄板を炎にかざす。

じわじわと温まっていく金属に、そっと肉を置く。


「じゅうっ」


強い音を立てて焼け始める。

思わず体が強張る。音が大きすぎる。

でも、すぐに香りが立ち始めた。


(この匂い...!)


今まで嗅いだことのない、力強い香り。

獣肉のような野性味と、なにか神秘的な要素が混ざったような。


表面が焼けてきたところで、裏返す。

肉汁が滴り、炎が跳ねる。

塩とコショウのような香辛料で簡単な味付け。


(早く...早く...)


落ち着かない気持ちを抑えながら、中まで火が通るのを待つ。

程よく焼き色がついたところで、鉄板から外す。


「い、いただきます...」


震える手で、最初の一片を口に運ぶ。


「!?」


衝撃が走る。


まず、力強い旨味。

普通の肉とは比べものにならない濃厚さ。

かみしめるごとに、新しい味わいが広がっていく。


そして、体の中に広がる熱。

まるで力が湧き上がってくるような感覚。

筋肉が熱を帯び、血流が早まるのを感じる。


「はぁ...はぁ...」


気がつけば、用意した肉は全て胃の中へ。

体が熱い。でも、心地よい。

この感覚は、間違いなく魔物肉の効果だ。


「片付けを...」


急いで証拠を消す。

灰は風で飛ばし、包み紙は完全に燃やし、道具は丁寧に洗う。

一切の痕跡を残さない。


(次は...もっと上手く)


保存方法や、調理法の研究が必要だ。

でも、この手応えは確かなものだった。


「ノクトゥルナ様...」


密かに祈りを捧げる。

体の中に残る力。

これを布教のために活かさねば。


休憩を終え、再び薬草採取に戻る。

体が軽い。

さっきまでの疲れが嘘のように消えている。


タブーに踏み込んだ代償は、

確実な力となって返ってきていた。


街の尖塔が、遠くで光を放っている。

新たな一歩を踏み出した午後の陽射しが、

優しく頬を照らしていた。


「ん...?」


草むらの向こうで、何かが動いた。

最初は野うさぎか何かだと思ったが──。


「ギィ...」


低い唸り声。

そして、生臭い獣の臭気。


(まずい)


立ち上がろうとした時には、既に遅かった。

茂みを掻き分けて現れたのは、成人の腰ほどの背丈を持つゴブリン。

片手には、先端が太く膨らんだ無骨な木の棍棒。


「ギギィ!」


オーク肉の匂いに惹き寄せられたのか、ゴブリンは唾液を垂らしながら近づいてくる。


(戦うしかない...!)


慌てて腰の棍棒を構える。街に出る時は必ず武器を持つように、とマリアに言われていたのは、こういうことだったのか。


「くっ...」


ゴブリンが不意に飛びかかってきた。

とっさに横に転がり、避ける。


(生き物を...殴るなんて)


前世、暴力とは無縁の人生を送ってきた。

棍棒を振り上げる手が、震える。


「ギャァッ!」


その迷いに付け込むように、ゴブリンの棍棒が振り下ろされる。


「ぐっ!」


完全には避けられず、左腕を掠める。

鋭い痛みと共に、血が滲む。


(このままじゃ...死ぬ)


現実を突きつけられる。

ここは異世界。

生きるか死ぬか。


心臓が早鈍りを打つ。

全身が恐怖で震える。


「うおおおっ!」


理性が飛んだ。

ただがむしゃらに、棍棒を振り回す。


「ガッ!」


偶然か、神の導きか。

振り回した棍棒が、ゴブリンの顎を直撃。

岩のような手応え。


「ギィ...」


よろめくゴブリン。

その姿に、一瞬の憐れみが胸を過る。


「ごめん...」




「ギ...」


かすかな声を残して、ゴブリンは倒れる。

まだ息があるのを確認して、合掌してから、最後の一撃を脳天に、もう一度、力いっぱい打ち下ろした。


「...」


動かなくなったゴブリンを前に、

急に胸が熱くなる。


「うっ...」


木の根元に寄りかかり、震える手で顔を覆う。

涙が止まらない。


初めて、命を奪った。

初めて、死と向き合った。

初めて、異世界の過酷さを知った。


左腕の傷が疼く。

でも、それ以上に心が痛んだ。


「こんなことが...当たり前なんだ」


呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。

もう、戻れない。

この世界で生きていく以上、これが現実なのだ。


「...これも、供養だ」


涙を拭いながら、ゴブリンの前に跪く。

震える手でナイフを取り出す。


(ごめん...でも、無駄にはしたくない)


討伐証明用に右耳を切り取り、さらに肉質の良さそうな部位を切り分ける。

図鑑によれば、ゴブリンの肉には夜目が利くようになる効果があるという。


血の匂いで気分が悪くなりそうになるが、こらえる。

これが、異世界での現実なのだ。

しっかり血抜きをして。

新鮮なレバー。


「あ...」


ナイフを動かしながら、気づく。

食堂での料理と同じ要領で、自然と手が動いている。

その事実に、また胸が痛んだ。


火を起こし、肉を焼く。

今度は塩だけ。

香辛料を振る余裕も、気持ちの余裕もない。


「いただきます...」


泣きながら、口に運ぶ。


(なんで...こんなに美味いんだ...)


悔しいほど、味がする。

獣臭さの中にも、確かな旨味がある。

そして、体の中に広がっていく不思議な感覚。

目の奥がじんわりと温かくなる。


「うっ...」


涙が止まらない。

美味しいのに、悲しい。

必要なことなのに、切ない。


全て平らげると、残りの処理を始める。

ゴブリンの棍棒は、売れるはずだ。

右耳は討伐証明になる。


「安らかに...」


最後にもう一度、手を合わせる。


街への帰り道。

バッグには採取した薬草と、ゴブリンの棍棒。

ポーチには右耳。

そして心の中には、最初の戦いの重み。


(強くなるしかない)


左腕の傷がズキズキと痛む。

でも、それ以上に心に刻まれた痛みがある。


戦うこと。

殺すこと。

そして、その命を無駄にしないこと。


全てが、この世界で生きていくための必然。

そう受け入れるしかないのだと、

ようやく理解し始めていた。


街の門が見えてきた。

夕暮れの帰り道、ふと左腕の痛みが和らいでいることに気がつく。


「あれ...?」


街道に差す夕陽の下、腕の傷を確認する。

血は既に乾き、傷口は薄っすらとした痕跡を残すだけ。


(ノクトゥルナ様の加護...)


最初の対面の時の言葉を思い出す。


『病から身を守る加護と、怪我の治癒を促進する加護。...今の私に与えられるのは、それくらいなの』


その時は「それくらい」と言われた加護。

でも、実際に体験してみると、これがどれほど貴重な守りなのか、身に染みて分かる。


「ありがとうございます...」


小声で呟く。

本当なら膿んだりして大怪我になっていたかもしれない傷が、こうして癒えていく。


(でも...)


心の傷は、そう簡単には癒えそうにない。

初めて命を奪ったこと。

その肉を食べたこと。

全てが、まだ生々しい記憶として残っている。


街の門が近づいてくる。

夕暮れの空を、カラスの群れが横切っていく。


バッグの中の薬草と棍棒。

ポーチの中の耳。

そして、目に見えない加護の温もり。


全てが、異世界での生き方を教えてくれた。


夕陽が街の尖塔に赤い光を投げかける中、

癒えた腕を確かめながら、

俺は静かに歩を進めていった。

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