海の子
一式鍵
我、是ヨリ突入ス――。
手を伸ばし、光を掴む。揺れる光は手のひらの内側で砕け、やがて手は水の抵抗を抜ける。空中に突き出した腕に引き上げられるようにして、私の顔は海中から脱出する。空になった肺の内側に、塩辛い空気が流れ込んでくる。
海に漂うこの匂いは、昔から私の周りを取り巻いていて、しかし、慣れることがない。いつだって新鮮なのだ。まるで海が時々刻々と姿を色を変えるのと同じくして、匂いも変わっているんじゃないかって、そんなことを思うほど。
水平線の上あたりに灰色の船が見えた。陽光を受けて、その姿はまるで蜃気楼のように揺らめいていた。船の名前は知らない。軍艦なのは間違いない。まるで山のように大きな船で、
あの日以来、海の中はとても危険だった。いつ
彼らと接触した日が、すなわち私の命日だった。ハナもミチもソラも、みんなもう先に逝ってしまった。いつ終わるとも知れない彼らとの戦い。それに駆り出されているのは兵隊だけじゃなかった。十歳、十一歳、そんな子供たちでさえ巻き込まれていたし、戦っていた。私たちの戦い方は、竹槍でB29を撃墜するよりは現実的な行動なのかもしれなかったし、まずなにより私たちが止めなければ多くの人たちが危機に晒されるのだから、やっぱり何の役にも立たない竹槍よりはマシだと思う。
もう五年。あの日から五年だ。私が初めて爆弾を抱えて海に潜ったのが三年前。十三歳の頃だった。彼らは人間の気配に寄ってくる。《彼ら》は若い——あるいは幼い——女が好きだ。そんな彼らを私たち自身を餌にして、誘き出して、どかん。
いわば撒き餌なのだ、私たちは。
でもどうやら私は生き延びたらしい——今日のところは。
半径十キロ圏内に彼らは現れなかった。どうやら私にはエサとしての魅力はないのかもしれないなと、私は思わず苦笑する。そしてボートに上がる。おじいちゃんが待っていてくれたのだ。お父さんもお母さんも兄さんも、みんな戦地に行ってしまったから、町に残っているのは子どもと老人だけだ。
「ヒカル」
私を引き上げながら、おじいちゃんは震える声で言った。驚いて顔を見ると、おじいちゃんは泣いていた。おじいちゃんの涙、初めて見た。
「どうしたの?」
「これがな」
おじいちゃんは、ズボンのポケットから赤い紙を引っ張り出した。それはしわくちゃになっていた。それは幾度となく目にした赤い紙だった。
「十六。お前も十六になってしまったんだなぁ」
「……うん」
私は肯いた。今日でちょうど十六歳。そして十六歳になると、撒き餌としての魅力はないと判断されて、最前線へと送られる。知っていた、わかっていた。
「何もかも奪われてしまう。この国は、もう終わりだ」
「大丈夫だよ、おじいちゃん」
私は言った。
「私は死なないんだから」
そのとき、水平線の方から大きな音が聞こえた。
「戦っている……」
あの灰色の大きな軍艦が、幾度も幾度も砲を撃っていた。彼らが出てきたのだろう。この国では日常茶飯事。もう臨時ニュースにもならない。でも、軍艦が戦っているのを直接目にしたのは初めてだった。
「帰るぞ」
おじいちゃんが
「あっ……?」
「見るな、ヒカル」
「でも」
「なにもおらん。何もいないんだ」
ボートに搭載された
「こいつら、あの軍艦に向かってる」
「軍に任せておけ」
「あの軍艦には何百人も乗ってる」
「おれにはお前しかおらん」
おじいちゃんはそう言って、ボートを進めていく。
私はボートに
「ごめん、おじいちゃん。私は逃げたくない」
私はこの海から逃げたくないし、この海を
私とおじいちゃんの無言のやり取りが続き、やがておじいちゃんはボートを止めた。穏やかな
「ヒカル……」
「私は死ぬなら海がいい」
「わかった」
おじいちゃんはそう言うと、ポケットにしまい込んでいた赤い紙を取り出した。そしてビリビリに破いて海に捨てた。精一杯の憎しみを込めて。
そして。
私は再び海に潜った。爆弾を抱きながら。
奴らが方向を変えて、私に近付いてくるのを、私は本能で察した。軍艦の危機は少しは遠のいただろうか。何百人かは助かるのだろうか。私はあの人たちを救えるだろうか。
さぁ、来いよ!
私は進む。私の「海の子」としての才能が、奴らの位置を割り出して知らせてくれる。
あまりにきれいな海面が頭上に広がっていた。爆弾に引っ張られながら、私は上を向く。ほんの数十センチ浮上したら、私はまたあの光を、太陽を見ることができるだろう。でも、それはできない。奴らが私から興味を逸らしてしまったら意味がないからだ。
胸が苦しかった。呼吸ができないから。使い捨ての私たちに、爆弾以外の装備はもう与えられてないから。でもそれでいいのかもしれない。意識が朦朧としていた方が、最期は楽だろうから。
透明度の高い美しい海。その向こうに、奴らの姿が見え始めた。醜悪な、タコと人を適当に混ぜ合わせたような名状し難い何か。
——最多撃破数更新。
私はそんなことを考えた。五十、六十と迫ってくるそれらを私は視認する。あと何十メートルあるかな。
みんなどんな気持ちでこの瞬間を迎えたんだろうな。
私は思う。爆弾の側面に取り付けられた発信機を親指で気持ちゆっくり押す。トトツートト――「我、
それを何度か繰り返し、そして最後はボタンを押し続けた。「ツー」という信号が本部には届いただろう。電信室にいる誰かが、きっと聞き届けてくれるだろう。そう信じたかった。
迫りくる異形たち。
私は二つの赤いボタンを、両手の親指で同時に力いっぱいに押し込んだ。
私が最後に見たのは光だった。太陽よりも眩しい――。
海の子 一式鍵 @ken1shiki
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