第8章:砂と影の狭間で

支える手

2017年11月28日、??:??h -


意識が漆黒の中に沈み込んでいる。体は重力から解き放たれたように宙に浮いている気がする。深い闇が分厚い毛布のように覆いかぶさってくるが、その先の意識の底で遠い音が聞こえる。はっきりとは見えない光の瞬きのような、いや、むしろ「存在する」とは感じられるかすかな輝き。集中しようとするが、まるで悪い夢の中をさまよっているようだ。甲高い音が静寂を突き破り、僕の耳を突く。それは何かの泣き声、いや違う。遠くで、けたたましく鳴り響くサイレンのようだ。警察のサイレンだ。


何があった? バスティアン、何をしたんだ? と自分の内側で呟くが、声はまるでとても遠くから聞こえるように鈍く、虚ろだ。その声がかすかに耳の奥で反響する。他にも音が交じり合い、空白の世界を満たし始める。悲鳴、走り回る足音。現実が手を伸ばし、僕を引き戻そうとしている。だが、なぜ周りがまったく見えない? 頬を伝う生ぬるい液体の感触がある。血だ。自分の血だ。急に視界がグレーになる。見えるのは擦り切れたコンクリートの地面。そこへとじわじわ焦点が定まっていく。


動揺する人の足が忙しなく行き交い、その影が視界の下端を左右に滑っている。誰かに運ばれているのか? 頭がずっしりと重い。それでも何とか周りを確かめようと首を動かす。


そこに、バスティアンの姿がある。彼が俺を抱え、ここから――何かから――離れようとしている。彼の顔は青ざめ、瞳は恐怖と焦燥に揺れている。常に後ろを振り返りながら走る彼を見ているだけで、胃がぎゅっと締め付けられる。「バスティアン」と呼びかけようとするが、その声はかすれた呟きに終わる。バスティアンは心配そうな目でこちらを見下ろし、声を震わせながら「耐えてくれ」とだけ言う。その声が切実だ。彼は確かに僕を助けようとしている。でも、その代償は何なのか?


突如として、荒い声が割り込む。「早く行け、ガキども、さっさと離れるぞ!」首を動かすのもやっとだが、視線をそちらに向ける。アフロヘアと首のタトゥー――間違いない、クレイデンだ。どうして彼が? なぜ僕らを助ける? 頭の中は疑問だらけだ。


「……何が起きた……?」かすれた声が自分の喉から零れるが、ほとんど息音に近い。意識がまた遠ざかりそうだ。力が入らないまま、暗闇が再び覆いかぶさってくる。最後に感じたのは、バスティアンとクレイデンの腕に支えられて、自分が運ばれているということ。そのまま、深い眠りに落ちるように意識が途絶えた。


2017年11月28日、17時26分 -


まぶたにチクチクする感覚がある。ゆっくりとまぶたを開くと、剥げかけの天井がぼやけた視野に入ってくる。柔らかく沈むソファの感触を背中に感じ、室内は薄暗く、灰色がかった大地の色合いに包まれている。


古い建物だろうか。だが長い年月を経ていながら、きちんと手入れされているようにも見える。年代物の家具や壁、デスクに無駄なものはなく、細やかに整理されていて整然としている。その落ち着いた雰囲気の中で、意識が戻るたびに胃のあたりが重く、混乱と恐怖が混ざった不快感が押し寄せる。考えを整理しようとするが、頭が回らない。ここはどこだ? 何があった? 捕まったのか?


「おい、大丈夫か、友よ?」右手側から声が聞こえ、振り向くと、そこにはバスティアン。彼の顔を見ると少しほっとする。衝動的に彼のシャツを掴む。「バスティアン、一体どうなったんだ? お前は……」問いただそうとするも、彼は指を唇にあてて静かにするよう促す。その瞳には安堵と警戒が入り混じった光がある。


「レアン、全部説明するから。だけど今は喋りすぎるな。状況が複雑になりかねない」と彼は低い声で伝える。混乱が続くものの、バスティアンを信じる気持ちが勝る。そして、「誰に対して複雑になるんだ?」と思う疑問が頭をよぎるが、飲み込んだ。


すると、扉が軋む音とともに開き、ダンテが現れる。彼の存在感が部屋を満たす。「ほう、またこちらの世界に戻ってきたかい、坊や?」と軽い皮肉を混ぜた声だが、その眼差しには一種の感慨深さが伺える。


本能的に体を起こそうとするものの、急に目眩がして視界が揺らぐ。足に力が入らず、よろけそうになる。するとダンテの低い声が静かに響く。「落ち着いて。今は身構える必要はないさ。この場所は最初から僕の縄張りだ。本気で傷つけるつもりなら、とっくにそうしていた」 バスティアンが手を貸し、ソファに座り直す。クッションが優しく体を受け止めるのを感じる。


ダンテは白いTシャツを手渡してくる。「ほら、着なよ」そう言われて気付く。上半身が裸のまま。慌てて袖を通す。首すじから冷や汗が滴る。


なんとか落ち着きを取り戻してくると、頭に浮かんだ疑問が爆発する。「ここはどこなんだ? 僕は、勝ったのか? 一体何が起こった?」ダンテは意味深に笑いながら、部屋の奥にある机の端に腰掛ける。「よしよし、一気に訊いてくるね。でもまず教えておこう。ここは俺たちエリタスの拠点、と呼べる場所だよ」


言葉を聞いて、脳内がグルグルする。エリタス……ダンテたちのギャングの本拠地? なぜこんな所に俺たちがいるんだ?と混乱し、視線を巡らせると、背後に鮮やかなステンドグラスがあしらわれ、そこから淡い色とりどりの光が差し込んでいる。その足元を覗き込むと、かつての教会の祭壇らしき空間が見える。広いネーブのベンチに、数十人はいるだろうか。彼らは酒を飲み、談笑し、足を投げ出している。


バスティアンを見やると、彼も真剣な面持ちで俺を見つめ返す。「何で俺たち、こんな所にいるんだ?」と呟く。


ダンテは肩をすくめ、やや芝居がかった仕草で笑む。「深く考えなくていいよ、坊や。長い話にはいつだって前置きがあってね」。彼はやや嘲るような目でバスティアンを見、柔らかな笑みに変えて続ける。「その子、レアン、君が思う以上に君を大切にしてるみたいだね」


その言葉を聞いて背筋に妙な寒気を覚える。ダンテが何を知っているというのか?と考え込むが、返す言葉が見つからない。その間にダンテはデスクに両手をつき、からかうような口調で言う。「そろそろ一部始終を知りたいだろう?教えてあげるさ」


ダンテの声が部屋に落ち、俺は息を詰めて耳を傾ける。あのリングで朦朧としていた時のことを、ようやく知らされる。まるで映画でも見るように、映像が頭の中で再生される気がした。


「君がリングで意識を失ってた頃、俺の携帯が騒がしく震え始めたんだ」ダンテは面倒くさそうに前髪を撫でつけながら続ける。「情報屋からの連絡で、警察がそこに向かってるって話だった。あの絶好の盛り上がりが台無しになりかけてね」


指先が強張るのを感じる。思い出されるのは、あの凶暴なリングと、血と闘争の匂い。そしてクリーアンの苛烈な攻撃。「クリーアンは最高潮で、君との一戦を楽しんでいた。その試合を止めるわけにもいかず、でも警察に踏み込まれたら何もかも終わる。どうすればいい?ってね」と、ダンテは悔しさ交じりに吐き捨てる。


俺は何か言いかけるが、言葉が出ない。結局、俺は奴らにとって単なる駒でしかなかったのか? だが、ダンテは構わず話を続ける。「もちろん、一言呼びかけたところでクリーアンが素直に止まるはずもない。だからもっと直接的な方法を取らざるを得なかったんだ」


彼が微かに目を伏せて言う。「それで、空中に向けて一発、銃を撃った。盛り上がってた観衆の視線が一気に俺に集まった。試合は事実上強制終了。あとは素早く荷物をまとめて退散だ。もっと詳しい話はバスティアンに任せるとしよう」ダンテは笑みを浮かべ、すっと視線をバスティアンに向ける。


僕も自然と目をやると、バスティアンが苦笑しながら視線を合わせる。「ええ、それからが大変だったよ」そう切り出すバスティアンの声は少し苦味を帯びている。「一発の銃声で、みんなパニックになった。誰もが将棋倒しみたいに逃げようとするし、その横でゼレクなんて、あっさり僕を見捨てて逃げていったのさ。ま、兄弟分って言うのは口先だけだね」


彼の口調は乾いた笑いを含みつつも、目は真剣だ。「その数分の間に警察が突入してきて、あっちこっち逮捕してる。人混みに揉まれ、僕もかなり押されて、足を踏まれたり、腕のギプスを蹴られそうにもなった。 ‘こりゃ芸能人でもこんな過剰なファン対応はないぞ’ とか場違いに思ったけど、とにかく必死にリングに向かった。だって、君が倒れてたから」


彼の視線が一瞬床に落ちる。「リングに着いたら、やっぱり君はぐったりして反応なし。僕は片腕だけで必死に君を抱き起こそうとするんだけど、重いし、周りは大混乱だし、警察はもうすぐそこ……正直、死ぬかと思った。もちろん、君が文字通り“お荷物”ってわけじゃないんだけどさ」彼は苦笑するが、その裏には切羽詰まった思い出が滲んでいる。


「ともかく、命懸けで再び君を担ぎ上げた。すると左に見えたんだよ、あのアフロの男、クレイデン。普通なら怖すぎて逃げ出すとこだけど、僕らを逆に手伝ってくれて。で、二人がかりで君を担ぎ、あの地獄から抜け出したんだ」


「正直言うと ‘絶対何か企んでる’ とか思ったさ。でも実際は言葉少なに先導してくれ、裏道を通り抜けさせてくれた。 あんなクレイジーな状況でね」


「建物の裏手に出た時には警察のサイレンが近くに聞こえてた。そこに止めてあったバンに乗せられて、俺もそのまま言われるがままに従うしかなくて……そしたら中にはダンテやら、アフロの男やら、あと女の子が一人乗ってた。ダンテが運転し始めて、俺は頭が追い付かないまま‘ま、これで助かるならいいか…’って」


「それでここに連れてこられた。君は丸一時間くらい眠ったままだったよ」と締めくくると、バスティアンはわずかに苦笑いを浮かべる。


ダンテは相変わらず穏やかな表情で、悪戯っぽく目を細める。「それがすべてさ、レアン。つまり、こんな流れで君たちをここに招待したわけだ」と肩をすくめ、まるでちょっとした出来事でも話すかのようにさらりと言う。


翻弄されっぱなしの胸中を落ち着かせるには、少し時間が必要だ。どんな心境でダンテはこんな決断をしたのか。クレイデンはどうして僕らを助けたのか。警察は?……疑問は尽きない。だが、この部屋の空気から、いまは騒いだり問い詰めたりするのが得策ではないと感じる。とりあえず命は繋がった。口からは息を吐くことしかできず、「……そうかよ」とかすれた声で呟くだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る