29 脱出

 セレとエリスが涙をいて荷物をまとめている頃、階下の食堂では騒ぎが起きていた。

 

 毎晩繰り広げられていたカードゲーム賭博とばくうわさを呼び、近隣の住民や町長までも巻き込んで大盛況だ。冬の間、寒さに閉じ込められてけ口のない男たちは、カードゲームに熱狂した。


 その真ん中で大勝負が行われていた。テーブルの上には金貨が積み重ねられて、町長と硫黄いおうを取引する商人の元締め、黒騎士サイモン、護衛のマクスエルがお互いを牽制けんせいしている。そんな緊迫きんぱくの駆け引きの中で、騒動は起こった。


「イカサマだっ!」

「なんだとっ、ふざけるな!」

「そのテーブルの下に隠したふだを見せろっ!」

 と、応酬おうしゅうが続きテーブルが盛大にひっくり返された。

 床に散らばった金貨を求めて、周りにいた者たちまで一斉に群がって、大乱闘になった。

 金貨を奪って逃げる者、それを追いかける者、怒声が飛び交い殴り合いの大騒動だ。イカサマを疑われたサイモンは皆の標的になり、ボコボコにされて儲けた金貨を根こそぎ奪われた。


 その大騒動の裏に、一人の貴族の少年がいたことを知っているのはごくわずかだ。イネスはそれを知っている一人だったし、少年があやつるる危険な石を渡した張本人だったが、後悔しなかったわけではない。

 この少年が将来、正しく生きてくれることを願うだけだ。


 翌朝、セレとエリスは荷物もしっかりと片付けて、いつでも出発できるよう準備万端ばんたんになっていた。

 昨夜のことを宿の主人に尋ねると、言葉をにごされた。

 皆どこか怪我ケガをしているようで、食堂の片付けがなかなか終わらない。

 片付けを手伝っていると、イネスが荷物を持って降りて来た。


「おはよう、イネス」

 声をかけると、何かいつもと違う。

「……おはよう」

「昨日の夜は何かあったの?」

「ああ、サイモン殿が怪我をしたらしい」

「えっ! そうなんだ……」


「それで……セレは決心が着いたか?」

 まさかそれが心配で表情が固いとか……無いとは思うが。

「う……うん。……あたし、イネスと行きたい!」


 伏せがちだったイネスの目が、パッとセレを見つめた。

 瞳の中に喜びの感情が広がっていき、頬と口元がゆるんだ。

(イネス、そんな顔するんだ……どうしよう、ドキドキしてきた)


「俺でいいのか?」

 優しい声が、ドキドキに拍車を掛ける。

「イ、イネスがいいんだよ。イネスだから……」


 そんな二人のやり取りを、床に散らばった陶器の欠片かけらを拾いながらエリスがそっと見守っていた。


 黒騎士サイモンは昨夜の乱闘で足の骨を折ったらしい。動かせないので彼はここに預けて、皆撤収てっしゅうする。来た時と同じ二台の馬車に分かれて港に向かう。帰りはアンドリュー様も一緒だ。お忍びで来ているので、チャーターした目立たない馬車に乗っている。ここから港まで二日、悪路を進むのだ。


 イネスはサイモンがいなくなって警戒を解いたせいか、セレが『一緒に行きたい』と言ったのが嬉しかったのかわからないが、明るく振る舞うようになった。故郷のスリ・ロータスの話や、兄弟のことなど話してくれる。

 スリ・ロータスは『魔石の島』と呼ばれているだけに、魔石の研究や教育も盛んらしい。小さい頃から魔石に関する教育を受けるのだそうだ。彼も魔石のことを、ディヤマンドから来た魔石研究家に教わったと言う。ディヤマンドにそんな有名な魔石研究家がいただろうか? 初耳はつみみだ。


 二日がかりでヴィーク港に着いた。ここからディヤマンドへ向かう定期船は、来た時に乗船したバロウ港に向かう三日おきの定期船と、アンドリュー様が乗って来たウエストポート港に向かう二日に一度の船だ。

 ヴィーク港に到着した時、バロウに向かう船は昨日出たばかりだったため、一行は翌日朝のウエストポート行きに乗船することになった。

 ウエストポート港は距離が近いので、半日でディヤマンドに到着する。


 ヴィークでの最後の晩餐は、お忍びのアンドリュー様と護衛のヘイリーを除いた皆で食べた。

「アンドリュー様が……退屈凌ぎに我々の心をもてあそぶんです……お陰で天国にいるような幸福感を味わったと思ったら、地獄に落とされたような苦しみを味合わされたり……。イネス殿、なんという恐ろしい石を若様に預けたのですか……」

 マクスエルが恨みがましい目でイネスに文句を言っていた。

 こんな調子で、サイモンや宿の店主などをき付けて騒動を起こさせたのだろう……自分がターゲットにされないことを祈る。


 イネスは今更ながらに、複雑な感情が入り混じった気持ちで皆を眺めた。


 国を追われるように出たのは十六才の頃だった。それから身分をいつわり、顔を変え、その日のパンを稼ぐために何でもやった。

 幸い魔石が使えたので、仕事にあぶれないで済んだが、それを面白く思わない者の嫉妬や反感も買った。食事に変なものを混ぜられたり、理不尽な暴力にあったりもした。

 また、年頃でもあったので、悪い女にだまされたこともある。うっかり変身が解けて驚かれたり、逆に執着されたりもしたので面倒になり、何の感情も動かさない鉄面皮てつめんぴを通して来たのだ。

 

 それなのに。

 心にはまた、暖かい感情が流れ込んで来てしまうのだ。


 * * *


 翌朝。

 ウエストポートへの定期船は小型だが、船足は早いらしい。

 大多数の乗客は、農閑期のうかんきを利用した季節労働者だ。毎年たくさんの季節労働者がモルガニアからディヤマンドに渡る。三等の乗客のほとんどがそれだ。

 対して部屋数の少ない一等船室は、取引で渡航する商人が多い。アンドリュー様は貴族なので早くに入船し、出発を待っている。


 カランカランと出航を告げる鐘がなり、船はゆっくりと岸壁を離れた。

 今回は航海時間が短いので、甲板で過ごす者も多い。とは言っても海を渡る北風が冷たいので、時間と共に人影は減っていくが……

 イネスは甲板に立ってモルガニアが遠くなるのを眺めていた。

 

「イネス……」

 セレがイネスを見つけて近寄って来る。

「どうした?」

「……ウエストポートへは半日で着くんでしょう? そのあと、どうするの?」

「俺は陸路は危険だと思うから、海路でオクスタリアへ渡ろうかと思う。オクスタリアなら南の国々への船も沢山あるからな」

 

「そうなの? イネスはオクスタリアへ行ったことあるの?」

「ああ、あそこは大陸でも有数な魔石取引が盛んな国だからな」

「イネスって何でもよく知ってるのね。私は、自分の国のこともよく知らないのに……」

 セレがちょっと拗ねたような顔をした。

 

「そんなことはないさ。旅をしている間に、必要で覚えたんだ。セレもそうなるさ」

(優しい……)

 それよりも、もうイネスが旅のパートナーとして考えてくれているのが、とても嬉しかった。

 

「これからの旅は貧乏旅行だぞ。風呂にだっていつ入れるかわからないし、船室だって雑魚寝ざこねだ。覚悟しろよ」

「ええっ、お風呂に入れないのはやだなー」

「お前、風呂好きだよな」

「だって、うちのお風呂だよー。好きに決まってるじゃない!」

「そうだな。に並ぶものはあまりないぞ」

 そう言って笑うイネスの顔が楽しそうで、セレの心はキュンキュンした。


 昼過ぎになって、いよいよディヤマンドの大地が見えて来た。

「ここでお別れなのね。寂しいけど……」

「おじさんやおばさんにも、よろしくね」

 セレとエリスが別れを惜しんでいる。


 西からの追い風で、陸がどんどん近くなって来る。ディヤマンドの西海岸は断崖絶壁だんがいぜっぺきが多い。その絶壁を見ながら、突き出した入江に入って行く。

 入江の周辺には他国の交易船も行き来していた。


 こちらの船が入港するのとすれ違いで、ちょうどオクスタリアの船が出航して行く。オクスタリア・カラーの濃紺に真紅のラインがとても印象的だ。

 入港を待っている桟橋の人だかりの中に、一際目立つ馬車が見えた。

 白に金の装飾の施された家紋のデザインが描かれた立派な馬車だ。


「イネス殿、ピアース殿。申し訳ありませんが、侯爵の手が回ったようです!」

 息せき切って護衛のマクスエルが走って来た。

「我々が乗っていることをどうやって知ったのかわかりませんが、アンドリュー様のお迎えではなさそうです!」

「イネス、どうしよう?」

「先ほどオクスタリアの船が出たばかりです。あれに間に合えば良かったのですが……」

 振り向けば、すぐそこにオクスタリアの船がゆっくりと遠ざかっている。


「セレ、荷物は?」

「ここにある!」

「じゃあ行くぞ!」

「行くって?」

 答える間もなく、イネスはセレの手を引くと、反対の手にセレの荷物を抱えて甲板の上を走る。

 端まで行くと荷物を海に放り投げて、セレを抱えて飛び込んだ。


「ひあっ!!!」

 ザブーーーーンンン


「セレ、上向いて!」

「はいぃぃぃ……ぶくぶくぶく」


 セレは浮いている自分の荷物を浮きに上を向き、マントの襟首を掴んだイネスがそれを引いて泳ぐ。

 まったく、無茶もいいところだ。

 凍え死んだらどうしてくれる……? と思いながら必死で荷物につかまっていると、オクスタリアの船から救命浮き輪が投げられた。

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