第2話 日常Ⅲ

「――ッ!? なんだ、今の感覚は」

 ナイフをケーキの端にあてがったのとほぼ同じタイミングで。

 どこかで何かが裂けたような映像がふと脳裏を過ぎった。

 当然、目の前のケーキが切れたわけではない。手付かずのケーキは綺麗に鎮座したままだ。

 と、すれば、いま流れた映像は確実に此処とは違う場所だ。

 裂かれたモノも、喩えるなら臓物が内側から弾かれたようなおぞましい鮮烈さがあった。

「ん、ツッキーパイセン、どうしたの?」

 困惑の表情を浮かべる悠月を捉えた林檎は不審に思い問い質すことにした。

「あ、いや……ゴメン。ちょっと席外すね」

「えっ? あっ、ちょ、パイセン。なになに、どうしたの? ケーキ食べてよぉ~!」

 人には直感というものがある。第六感、シックスセンス。呼び名は様々だが、つまるところが有りもしないはずのモノを察知出来る特異な能力だ。

 恐らく、長い人生を生きていれば、誰しも一度は体験したことがあるだろう。他の誰もが否だと笑っても、何故か自分にだけは是と言えてしまうあの感覚を。

 大乗仏教、唯識論における第六感。意識、直感は隣り合わせに第七感である末那識に触れている。この直感を必ずしも否定できないのは我執と呼ばれる末那識に近しいが故だ。

 一度知覚してしまえば、無意識であっても己に作用し続ける。こうなればもう、人は結果がどうであれ真実を知らなければ収まりがつかなくなる。

 つまりだ。簡単な話がこの直感は紛れもない本物であると本能が告げていた。

「ん……悠月。どうしたの、そんなに慌てて」

 部活動に顔を出してから来たのだろう、新しい来店者は妹の玲愛だった。

「玲愛……ゴメン、話している暇はないんだ。皆はここにいて、いいね」

「え? って、ちょっと悠月。どこに行くの!?」

 玲愛の静止を振り切り、悠月は外に躍り出た。

 結論から言えば、この凶兆こそが、鷲宮悠月の人生を大きく変えるきっかけだった。


 直感を頼りにして、日の傾いた市内を駆けていく。

「――近い。近づいてる。やっぱりだ。あの違和感は本物だった」

 誘われるように右へ左へ。いつしか人の気配は消え失せて、代わりに夕日も差し込まない路地裏へと辿り着いていた。

 悠月の表情が一層険しくなる。間違いない、この先で何かが起きている。

 確証を得た悠月は僅かばかりに躊躇した後、路地裏の闇の中へと消えていく。

 そうして何度か曲がり角を曲がった先に――大輪の華が咲いていた。

「な――ッ!?」

 驚きのあまり悠月は言葉を失った。

 華、などと呼ぶのはおこがましい。夥しい量の鮮血が壁一面を彩っていたのである。

 華の根元には素材となった人の死体が転がっている。腹部からの流血が止まっていないことから察するに、命を摘まれたのはつい今しがたと見て間違いなさそうだ。

「人、なのか……アレは……あんなの、人の死に方じゃあ……ないだろう……」

 鼻腔をくすぐる血の匂いに、思わず吐き出しそうになる。

 けれど、あまりにも現実離れしすぎた事実は逆に悠月の思考をクリアにしていた。

「とにかく、電話だ。警察に……いや、父さんに連絡しなきゃ……」

 誰が、どういった経緯でこの殺人をやってのけたかは不明だが、兎にも角にも詳しい事情を調べるには警察を頼る他にない。

 震える指先で携帯端末を操作する悠月。頼った先は父である仁だった。

 鳴り響くコール音が、殊更に恐怖心を煽り立ててくる。

 刹那の数秒間が、永遠とも感じられるほどに長かった。

「――ほう、これは驚きだ。まさか先客がいるとはな」

 背後で凛とした声が響いた。

 逢魔時。人が失せ、魔物が跋扈する昼と夜の境目にして生者と死者が交わる黄昏時。

 濃く、暗い夕暮れを背景にして其処には――長い髪の女が立っていた。

「……あなたは?」

 悠月は端末を下ろしながら訊ねた。

「なーに、名乗るほどの者じゃないさ。私はただの情報屋だ。最近この街で起きている事件を追っていてね。偶然、道に迷ったのさ。お前と同じようにな」

「そんな話を信じろと?」

「信じる信じないはお前の勝手さ。好きにすればいい。だがこちらの都合としてはお前の自由を許すわけにはいかなくてなぁ」

 声に殺意が宿っていた。この女は危険だと本能が告げていた。

「くッ!!」

 万が一の自己防衛策。手を後ろに回した悠月は隠し持っていた護身用の短刀を引き抜いた。

「……下手な気を起こすなよ、ガキが」

 言うな否や、女は瞬時に距離をつめてきた。まるで獲物を狙うハヤブサだ。悠月が距離を取るよりも早く、女は自分の懐へと飛び込んで来る。

 応戦する悠月。父と長い修練を積んだのは、何も刀剣の扱いだけではない。基礎的な近接戦闘の類は全て叩き込まれている。ただの通り魔であれば、一人でも撃退できる自信があった。

 しかし、結果はどうか。

「っ、早いッ!?」

「お前が遅いんだよ」

 悠月は呆気なく地に転ばされた。叩きつけられた衝撃で肺に貯めた空気が吐き出される。

「ぐ、ぁ……僕を、どうするつもりだ……!」

「あぁん? フッ、何もしないさ。お前は大切な同胞だ。殺すには惜しい」

「同胞? ふざけるな。勝手に……仲間扱いするなっ!」

 組み伏せられたものの、悠月の手にはまだ短刀が握られていた。

 これも父との修練の賜物か。悠月は素早く柄を持ち直すと名も知れぬ襲撃者に刃を振りぬいた。しかし、それもまた女の前では通用しなかった。

「な――っ!?」

 刃は彼女に届くどころか不可思議な空間で動きを止めていた。

 無論、力は弛めていない。むしろ一層の力を籠めて刃を届かせようとしている。

 だが、彼女の居る空間がソレを許さないのだ。喩えるならばそれは風の鎧。女は悠月には見えないナニかを身に纏っていたのである。

「無駄だ。お前に私を止めることはできない」

 カチカチカチと手に持っていた短刀が震えている。握る力を少しでも緩めれば、刃は吹き飛ばされてしまうだろう。

「くそっ、なんで!!」

 これは夢か幻か。認めたくはないが、悠月はただの女性相手に黒星を喫したのである。

「茶番は終わりだ」

 女は空いていた片足で悠月の腕を蹴り飛ばした。

 拘束が弱かったのは態とか。不意を突かれた悠月はいとも簡単に武器を手放してしまった。

 短刀が、蹴られた衝撃で音を立てながら遥か彼方へと吹き飛んでいく。

 決着だ。この女が昨今話題の事件の犯人ならばこれで悠月を血祭りにして終わりだろう。

 しかし、現実はそうはならなかった。

 女は満足したように笑みを浮かべると、拘束を解いて死体の方へと歩き出した。

 どうやらこの女は本当に情報を集める為だけにこの場所に足を運んだようである。

「……誰なんですか、あなたは」

 命のやり取りから一転。梯子を外されたような感覚に陥った悠月は緊張の糸を解いて、訊ねていた。

「人の話を聞かないやつだな。情報屋だと名乗ったはずだが」

「違います。あなたの名前です。その様子だと僕のことは知っているんでしょう?」

「一応な。知りたくはなかったが」

「だったら僕にも教えてくださいよ、あなたの名前。一方的に知られているのは気味が悪い」

「ハハハ! お前、面白いな。この状況で気になることがそれなのか。気に入った」

 女は右耳に触れるとなにやらボソボソと喋り出す。

「ライカ、今回の被害者はどうやら大腸を抜かれたらしい。まとめておいてくれ。あぁ……亡霊がいる気配はない。逃げたか或いはこの男が始末したかのどちらかだ」

「ッ、聞いてるんですか!」

「はいはい、聞いてるよ。煩いガキだなぁ」

 女は自分で吹き飛ばした短刀を拾うとヒョイっと悠月に投げて返した。

「アルメリアだ。アルメリア・リア・ハート。英国生まれの魔女にして、一番の嫌われ者だ」

「魔女?」

「別に覚えなくていい。お前の日常には不要な情報だろうからな」

 魔女はくるりと踵を返すと夕日に向かって歩き始める。

「着いて来い、鷲宮悠月。此処を出るぞ。こんなところじゃあ電話をしたって誰も来やしないよ。ちゃんと元の世界に戻らないとな」


 警察が現場に到着したのはそれから二十分後のことだった。

 二人が裏路地に続く入り口で待機する中、警察官が見たのは一角に咲く大量の血痕。

 しかし、二人が見たはずの死体はどこにもなく、あれだけ散らばっていた臓物は肉片一つ落ちていなかったという。

 彼女は、悠月が警察の応対をしている間に何処かへと消えてしまった。

 ただ一言〝ハロウィンの日には気をつけろ。紅い月の夜、未曾有の災害が起こる〟と、そう言い残して――

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