第2話 日常


 綺麗な満月の夜だった。

 夜空には満天の星が瞬き、月明かりは夜道を明るく照らしていた。

 少年――鷲宮悠月は父親に手を引かれながら何処かへと〝向かう〟途中であった。

 思い返せば、何故父親に手を引かれていたのかも覚えていない。ただ、時折吹く風が冷たくて、父の手の温もりを離すまいと必死になって掴んでいたことだけは覚えていた。

〝なぁ、悠月。お前は大きくなったら何になりたいんだ〟

 唐突に、鷲宮仁は息子に問いかけた。

〝何にって……どういうこと?〟

 見上げなければ横顔を拝めないほどに、父の背は高かった。

〝どういうことって……うーん、そうだなぁ〟

 仁は困ったように苦笑した。まだ言葉の意味すら理解できていないだろう息子に、どう真意を伝えたらよいものか、頭を悩ましているのだろう。

〝お前がオレと同じくらいに大きくなって、あのお星様がもっと近くで見れるようになったら何をしたいかってことだ〟

 馬鹿である。幼心にしてみればより一層難解になったと断言してもいい。しかし、父と同じくらいになったらというワードでどことなく理解することができたらしい。

〝お父さんと同じくらいになったらかー〟

 そうして悠月は考える。数多ある星々を見上げながら将来自分が何者に成りたいのかを。

〝僕、お父さんみたいになるよ! お父さんみたいな――――――に!〟

 ノイズが走った。肝心な部分が聞き取れない。

 そう、これは夢の中の出来事だ。遠い昔、物心すらついていない頃の過去を振り返るなら記憶の欠落くらいあっても不思議じゃない。

〝……そうか。それは参ったな〟

 ただ、自分のした回答によって、父が酷く悲しそうな表情を浮かべたことだけは覚えていた。

〝ねぇ、お父さん。もうすぐ来るよ、あの―――――――が!〟

 見上げた月が悠月の瞳に堕ちてくる。

 手を伸ばせば届きそうな丸い月。それは何よりも美しく〝蒼く澄んでいた〟


「悠月……ねぇ、悠月。起きて、朝だよ」

「ん……なんだ玲愛か。まだ学校に行く時間じゃないでしょう。もう少し寝かせてよ」

 ゆさゆさと体を揺さぶられて悠月は強制的に意識を覚醒させられた。

 妹の鷲宮玲愛。聞き慣れた声であった。

 黒のロングヘアー。肩より少し長い髪が垂れて悠月の頬を掠める。

 微かに良い匂いがするのは妹の手入れが行き届いている証拠か。いずれにせよ、少年が目覚める朝の刺激としては些かばかりに興奮度合いは強めであった。

「だーめ。今日は朝稽古するって約束だったでしょ。お父さん、もう道場で待ってるよ。早く行かないと」

「稽古? 冗談やめてよ、部活動じゃあるまいし……」

「はぁー。やっぱり忘れてる。お父さん、昨日は夜勤だったでしょう。だから朝一番の稽古なの。寝る前の軽い運動と日頃の憂さ晴らし。意味わかる?」

「……行かなきゃ駄目かな。朝一番で扱かれるのはちょっと堪えるんだけど」

 ぬっと布団から顔を出した悠月は抗議の視線を玲愛に向けた。

 真正面。布団を挟んで数十センチと離れていない距離に妹の顔があった。

「アタシに言わないでよ。扱かれるのが嫌なら、早く強くなることだね。その為の稽古なわけだし」

「これ以上強くなってどうするの。こんな平和な世の中で。使い道なんてないでしょう」

「ふふ、愚痴らない愚痴らない。ほら、起きる。稽古が終わる頃にはごはん用意しとくから」

「ん……よろしくね」

 緩慢な動きで部屋を後にした悠月は、二階の自室から一階のリビングへと向かう。

 リビングに入り、洗面所を目指す前に悠月は母親の面前に立った。

「おはよう、母さん。今日もいい天気だよ」

 りんを鳴らし、焼香を上げて拝む。

 鷲宮杏華――数年前に亡くなった母の遺影を前に悠月は寂しそうな顔を作った。

 杏華は悠月たち兄妹がまだ幼かった頃に旅立った。もう何年も前の話だが、こうして母を偲ぶ度に過去の日々を思い出して侘しさを抱くのである。

 ただ、辛気臭いのはこの時限りだ。いつまでも過去を引き摺ってはいられない。

「――良し」

 そうして、簡単な身支度を整えた悠月は、己に活を入れた。

 今日こそはあの男に勝ってみせる、と――


「――遅かったな、悠月」

 道場には剣道着姿の仁が居た。

 正座をして目を閉じている様子から察するに瞑想でもしていたのであろう。整えられていない頭髪に無精ひげというスタイルは誰がどう見てもオヤジのソレだが、剣道着を着込むとなかなかどうしてサマになっていた。

「玲愛に起こされるまでは寝てたからね。てっきり帰ってこないかと思ってた」

「アッハッハ! そいつは悪かった。帰ってこない方がゆっくりできたか、んん?」

「そこまでは言ってないけど」

「ま、せっかく起きたんだ。ちょっと付き合え。こういうのも親孝行ってモンだぜ、ほれ!」

 ぶぉんと風を切る音がした。仁が何かを投げて寄越したのだ。

「これは」

 ここは剣道場だ、渡されるのは竹刀か木刀だろうと思っていた。

 しかし、いま悠月が手にしていたものは、紛うことなき真剣。本物の刀であった。

「父さん、どういうつもり。まさかこれでやろうって?」

「久しぶりの朝稽古だからな。少し脅かしてやろうと思ってさ。どうだ、肝が冷えただろう」

 悪びれる様子もなく仁は肩を竦めてみせた。

「ジョークにしてはきついね。おかげで目が覚めたよ」

「お、いいね。やる気だぁ」

 悠月は道場の中ほどまで入っていくと、仁と正対した。

 その手には竹刀が握られている。刀は道場の隅に置いてきた。

「……なぁ、やっぱ真剣勝負ってワケにはいかねぇか?」

「駄目に決まってるでしょ。アレは儀式の時だけって約束だよ。怪我したらどうするの」

「はぁ~。だから怪我しないようにやりゃあいいじゃんか。ケチ」

「却下。非常事態でもない限り人に刃物は向けたくない。刃物を使うのは料理人だけで充分」

 話を切り上げるように悠月は竹刀を構えた。

 朝は時間が限られている。やるなら早くしようという意思表示であった。

「お優しいことで。オレと違って随分優しい男に育ったもんだ」

 仁も観念して竹刀を構えた。

 遥か昔。鷲宮家はこの道場を利用して独自の流派を生み出した。世間には決して公表しないことを前提とした秘密の剣技を、先祖代々家訓として受け継いでいるのである。

 仁はそんな鷲宮流の現師範に当たる。弟子は血を別けた兄妹のみ。

 無論、悠月が勝てる道理はない。試合の結果は最初から見えていた。

「手ぇ抜くなよ、悠月。お前にはオレを超えてもらわねぇといけねぇからな!」

「――出来ることならやってるよ!」


 午前七時三十分過ぎ。

 鷲宮兄妹は自分たちが通う学校、月見ノ原大学附属高等学校へと向かう。

 二人の実家は、旧都とされる西側にある。月高は駅を越えて東側。つまり新都方面にある。

 ちなみに、この月高は少々特殊な環境が整っており、隣接する施設に大学~幼稚園までのおよそ誰しもが通るであろう義務教育課程に必要な全てが一堂に会している。

 そして、悠月はそんな教育施設に通う月高の一年生であり、妹の玲愛は一つ下の月中三年生だ。変化に乏しい教育施設だと苦言を呈されればその通りだが、この環境のお陰で、二人は朝の時間の殆どを一緒に過ごすことが出来ていた。

「あーあ、痛ったそぉ~。絆創膏なんて貼っちゃって。まーたコテンパンにされたんだユウ」

「うるさいなぁ。これでも勝てるように努力はしてるんだよ。素人は黙っててほしいな」

「つっても、負けは負けだろ。これでまた連敗記録更新じゃねェか。そろそろ四桁いくんじゃねェか。なぁ、玲愛」

「くくく、流石にまだそこまで負けてないですよ。ざっと九○○連敗ってとこかと」

「ハッ、充分負けてんだろ。いつになったら勝てるようになるんだかな」

「もう、ナオト。アンタちょっと言い過ぎなんじゃない。ユウの気持ち考えなよ」

「あ? 天音テメェ、自分で掘り下げといてそりゃなくねェか。オレはオマエに乗っかっただけだぜ!?」

「まぁまぁ二人とも。朝から仲が良いのは結構ですけど、落ち着いてください」

「何言ってんの、別にコイツとなんて仲良くないもん!」

「何言ってんだ、別にコイツとなんて仲良くねェから!」

「……はいはい。そういうことにしておきますよ」

 そして、先ほどから兄妹の後ろで仲睦ましく喧嘩をしているのは、幼馴染である狼神ナオトと雨宮天音だ。

 天音は、背中まで伸びる長い髪に、良く喋る男勝りな性格が特徴。

 対して、ナオトはウルフヘアに少々荒っぽい言動が目立つ、喧嘩っ早い性格が特徴だ。

 二人は悠月と同じ学年で、こちらも縁あって、揃って登校するのがお馴染みとなっていた。

「では先輩方、アタシはこっちなのでここで」

 そうこうしている内に、四人は人混みを抜けて学校の敷地内へとやって来た。

 一人校舎が違う玲愛はいつものようにいつもの分岐点で別れを告げた。

 しかし、天音はここで思い出したかのように待ったをかけた。

「玲愛ちゃん。良かったら今日の放課後お茶しない? 喫茶ノワール、いつもの場所で」

「いいですよ。もしかしてアレですか。林檎の最新作」

「そうそう! 是非ご賞味を、って言われちゃって。ユウたちも行くからさ!」

「えっ?」

「あァ?」

 女子会かと思ったら全く見当違いだったらしい。我関せずとしていた男たちは完全に虚を突かれたようで驚きの声を上げた。

「ぷっ、あはははっ! 了解です。毒味は多い方がいいですからね。部活が終わったらそっちに顔を出しますよ」

 玲愛は、わざとらしく肩に掛けていた弓袋を上げて首肯を返した。

「ありがとぉ~! 玲愛ちゃんってば話がわかるぅ!!」

 天音は上機嫌になってヒラヒラと手を振り、玲愛の後ろ姿を見送った。

 だが、巧くダシに使われたナオトはすこぶる不機嫌になっていた。

「天音ェ~……テメェどういうつもりだ。ああぁん!?」

「なによ! だ、だってだってしょうがないでしょう。他のお客様に毒味……じゃなかった、味見させるわけにはいかないんだから。それにほら、見てよこのメール。めっちゃ自信ありって書いてあるじゃない。今回こそは、きっと美味しいから!」

「そりゃいつものことじゃねェか! これで何回目だよ。いい加減しんどいぜ」

「でも、数をこなせばちゃんと美味しくなるじゃない。ここは私たちがしっかりしないと!」

「しっかりしなきゃいけねェのはアイツの味覚だろうが!」

「あははは……」

 喫茶ノワールとは――正式名称『喫茶シェールノワール』のことである。

 彼らの憩いの場にして、玲愛の同級生が看板娘を担当する場所。マスターは別にいるが、とにかくその娘は創作料理が大好きでよく試食を依頼してくるのである。

 味の保障が出来ないのはリアクションから察せられる通りで、半ば人柱に等しい扱いだ。唯一の救いは、無料という点だろうか。

「――二人とも。話は後で、授業が始まるよ」

「うわぁああ! 急がなきゃ!」

「はぁ、今から飯抜いとくか……」

 始業を告げるチャイムが鳴った。三人は急いで月高へと向かっていく。

 鷲宮悠月の人生は、この時点では特別不自由なく、凡そ平和であると言って良かった。

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