第21話 上代の傷
それから椎名が戻ってくることはなかった。一日は過ぎていき夕方。授業は終わり放課後になる。
「待てよ」
俺は席を立つ上代を呼び止めた。彼女が嫌そうに俺を見る。
「理由、まだ聞いてなかったろ」
二人きりの教室。時計の針はぐるぐる回り夕焼けの光が教室にオレンジと影の陰影を作り出す。
静かだ。まるで世界がここだけのように。
「まだ諦めてないんですか?」
「まあな」
諦めることも立ち止まることもしない。俺に後に引く道なんてない。
「同じです、話しかけないでください」
「なんでだよ、お前だって楽しそうにしてたじゃねえか」
人と関わるのが本能的に嫌いなやつなんているのか? 上代だってなにか理由があって避けているはずなんだ。実際本の話題で話していたこいつは笑っていた。
こいつにだって笑顔はあるんだ。
「嫌いってわけじゃないんだろ? 理由がある、そうだろ。なんでそんなに避けようとするんだよ」
だからその理由を克服できればいいんだ。俺ならそれが出来るかもしれない。俺ならこいつを檻から出して親しくなれるかもしれないんだ。
「どうして」
「ん?」
上代は俺を不思議そうに見る。不可解だと言わんばかりに目が俺に告げている。
「そんなに私と関わろうとするんですか? なぜです?」
「それは」
「私は、それが不思議です」
友達を作ろうとする俺。友達を作ろうとしない上代。彼女からすれば俺の方が異質に見えるのかもな。
「自己紹介で言っただろ、友達百人作るのが夢なんだよ」
「なんでそんなに友達を作ろうと思えるんですか」
「どうしてって、友達が欲しいなんてあたりま――」
「鏡さんは傷が怖くないんですか!ッ?」
初めて、彼女の激情を見た。それは人と比べれば小さなものかもしれない。だけど普段冷静な上代がこんな風に語気を荒げるのは初めてだ。
だから、彼女がどれだけ傷を怖がっているのか、伝わったんだ。
「鏡さんだって傷があるんですよね? ここにいるんだからあるはずです。それか、私たちに交友関係を作るため学園が送り込んだ普通の人なんですか?」
「はは、面白い発想だな。あり得る話だが俺はそうじゃないよ。お前たちと同じさ」
「ならなんでです? なぜ友達が欲しいって思えるんですか?」
傷を持っている者はその能力故に他人を傷つけてしまう。それは身近な人を、親しい人を、愛する人を。無差別に傷つけてしまう。
それなら愛する者なんていらないと、そう思うのも無理はない。
彼女が訴える本気の瞳に俺は誰よりも誠実でなければならない。
そう、思ったんだ。
「友達の、夢だったんだ」
「友達?」
ぽつりと、告白がこぼれ出る。
「そいつも傷があってさ、自分の意思とは関係なく人を傷つけてしまうやつだった。ほんとは明るいやつなのに、そのせいで塞ぎ込んでさ。俺はそいつを助けたかったんだ。傷なんて馬鹿馬鹿しい鎖を外してさ、自由にさせてやりたかった。また、あの笑顔が見たかった」
あれ、なんだろう。俺、なんで泣いてるんだ?
「約束したんだ、ずっと一緒にいるって。守ってやるって。だけど」
瞼の奥が熱くなる。
「助けられなかった。それどころか、俺は」
あの時の場面が蘇る。彼女が最後に浮かべた笑顔と笑い声。それがひどく残酷で。映像に亀裂が入り音声にノイズが混ざる。
モノクロの記憶が古いフィルム映画のように再生されて。
ずっと、それを見続ける。
「俺、ほんとはすげー悪いやつでさ。ほんとは居ちゃいけないんだけど、そいつは俺を助けて笑ってくれたんだよ。それどころか、友達になろうって、俺に言ってくれたんだ」
浮かぶ涙を腕で抑える。感情が、溢れてくる。
「俺みたいなやつですら救われた。止まない雨なんてないって、生まれてきて駄目なやつなんていないって、そう思えたんだ。だから」
あの時の気持ちを覚えてる。心の底から救われたと思えた。感謝していた。すべてを差し出してもいいくらい。
俺は彼女に、救われていたんだ。
「俺は、みんなと友達になりたい。できれば笑顔でこの学校を過ごしたいって、そう思ってる」
腕で顔を拭き残った涙を親指で拭う。
「悪い」
「いえ」
深く息を吐く。それで気持ちを落ち着かせた。
「それで、その人の夢を鏡さんが代わりに叶えようとしてるんですね」
「お前はいい迷惑だよな、ごめん。悪いとは思ってたんだ、俺のエゴに付き合わせてさ。それも俺の願いじゃなくて人からの借り物だし」
上代からすれば交通事故みたいなもんだよな、とんでもないのが転校してきたものだと同情するよ、俺のせいだけど。
「鏡さんの気持ちは分かりました。その人のことはお気の毒でした」
「はは」
その人、か。
「ですけど、私は協力できません」
上代が頭を小さく下げる。会釈ほどのお辞儀できっぱりと断る。
「理由、聞かせてくれないか?」
俺が友達を欲しがる理由があるように上代にも無理な理由があるはず。
どうして上代はそんなにも友達を作ることを拒むんだ?
俺の目を上代は見る。俺をしばらく見つめた後鞄から本を取り出した。
赤い表紙の本。そういえばその本はいつも持ち歩いているな、違う本を読んでたりするがよほどお気に入りのようだ。
上代は俺を見つめていた目と同じ目つきで本を見つめた。
「彼女は友達でした」
「彼女?」
上代が持っている本はクラリス・ミュールの詩集だ。彼女のお気に入りで彼女と話すきっかけとなった本。
フランスの革命期を生きた一人の女性。今から数百年前の。
「彼女は気さくで一人放浪していた私を家に招き泊めてくれたんです。長居する気はなかったのですが彼女はなかなかに強引で、それから彼女との同居生活が始まったんです。家事や仕事を手伝わされてはいろいろな話をして。はじめはそんな気なかったのに、すぐに出なければならないと思いつつ居座ってしまった。それだけ彼女の隣は、居心地が良かったんですね。もう、そういう関わりは持たないと決めていた私でしたけど、彼女とは不思議と仲良くなってしまって」
思い出を語る彼女は普段の無表情とは違い明るい印象を受ける。むしろ素はこちらなのかもしれない。
彼女との馴れ初めを話す上代の表情は柔らかく、そんな顔をするのだ知った。
「彼女は多感でしたね、それでいて感情豊かで。花や建築、芸術が好きで、そういえば男も好きでしたね。私もずいぶん手間を焼きましたよ、恋人を作らない人でしたから自由奔放で。心配しました。形に囚われないっていうか。私がどれだけ言っても止めないですし、笑ってました」
上代の表情に当時の苦労が浮かび上がっている。
「そんな彼女でしたけど誰よりも優しい人だった。筋というか、そういうのを大事にしている人で。曲がったことは嫌いな人でしたね。女性なのに喧嘩が早くて何度仲裁に入ったことか」
思い出しているだけでぐったりとしている。ほんとに大変だったんだな。
「でも、楽しい日々でした。いろいろあったけど今ではいい思い出ですね。波乱万丈でしたよ、本当に」
数々の苦労があったんだろう。だけどそれ以上の充実感が彼女の頬を緩ませている。
「だけど、時代は彼女を引き裂いた。私はそんな彼女を身近で見ていました」
彼女の幸せそうな顔。それが一瞬で曇る。
「どうすることも出来なかった。革命という大きなうねりに飲み込まれて。なにも出来ない無力さと彼女の純真さを踏み抜いた。それで彼女は思いを詩にしたんです。せめて今あるこの思いを形に残そうと。それがせめてもの抵抗であり生きていることの証だったんです。けれど、それすら時代は切り裂いた」
曇り空から、一粒の雨が落ちる。
「彼女が中央広場に連れていかれるのを、私は見ていることしか出来なかった。なにも出来なかった。そんな不甲斐ない私を、彼女は一切責めなかった。それどころか、誰一人。なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。なぜ、私はこんなにも無力なのか。彼女と共に過ごした時間は素晴らしいものだったけど、彼女を失う苦しみはそれ以上だった」
小雨は勢いを増し土砂降りとなる。
「私は! 何度、何度同じ過ちを繰り返すの? いつだってそう。身近な人は死んでしまう。私を残して消えてしまう。そんなの分かり切っていたはずなのに。どうして……!」
泣いていた。大粒の涙を流し、ため込んでいた悲しみを激流のように吐き出して。
「こんな思いをするのなら、誰もいらないって、そう決めていたはずなのに……!」
今でも消えない後悔と苦痛に、泣いていたんだ。
彼女は誰も傷つけない。なにも奪わない。ただ彼女は与えられ、奪われるだけだ。出会いと別れを永遠に繰り返し、消えない傷だけが残される。
「だから、なのか」
それこそが、彼女の傷なんだ。
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