第17話 渡部 由佳理
「座ンな」
「え? あっはい」
アオガネの行く先を目で追おうとしていた渡部は老婆に言われ、そばにあった椅子へおそるおそる腰をおろす。そんな渡部を待たずに、老婆はテーブル上にあったケースを示した。
「ここは質屋だ。質草はこんな石ころに限るが」
とんとん、と老婆の指がケースを軽く叩いた。渡部はそもそも質屋というものに縁がない。これまで利用したことがまったくなかったのだ。だから宝石専門の質屋もあるのだろう、と納得する。
続く説明を渡部は待ったが、老婆はそれ以上なにも言わなかった。どこかで水をくむ音がする。それをぼんやり聞きながら渡部は手元を見た。
今の渡部が持っている宝石といえば、左手の小指につけている指輪にはまっている、ごくごく小さなものだけだ。直径一ミリあるかないかの、ピンク色の石である。どういう種類の宝石なのかも渡部は忘れてしまっていた。
「質に入れれば、妹のことを教えてくれますか」
「……そいつは買い取ったとして、百円にもならねェからお断りだ」
「どうしたら教えてくれますか?」
「……」
「おばあさん、あなたは妹のことを知らないとは言いませんでした。知ってるんじゃないんですか? お願いします、知ってるなら……!」
話しているうちに勢いのまま前のめりになる渡部に対し、老婆はまだ反応を示さない。本こそ閉じたまま置かれているが、それ以外はさっきと変わっていなかった。
「落ち着きな」
「……すみません」
「まったく、困った子だねェ」
困ったようには見えない顔で老婆は背もたれに体重を預け直すと、おっくうそうに腕を組んだ。そして考えるように目を伏せる。
また沈黙が落ちた。そのうち湯を沸かしている音が聞こえ始め、沸き立つ音に変わっていく。さらに渡部も老婆も黙ったまま時間がたち、アオガネがのそりとあらわれた。ことりと老婆の前へマグカップを置く。香ばしいそば茶の香りがした。
残念ながら渡部のぶんはない。老婆……狭間が明確に頼まなかったので、アオガネはいつもどおり狭間のぶんだけをいれたのである。
老婆はカップを手にすると、ふぅと息を吹く。老婆がそば茶をすすっている間も渡部は待った。というより、渡部自身が落ち着く必要があったのだ。
「……もし答えを知ったら、あんたは死ぬかもしれねェ。それでもいいのかィ」
「死ぬ……? えっ、どういう意味で……」
「こっから先は、なにか聞けば聞くほど危険だ。よォく考えな」
「そんな」
先ほどとは違う沈黙が空間を支配した。困惑した渡部が老婆を見るが、なにも答えは返ってこない。次におろおろと周囲を見渡すものの、店内には渡部と老婆だけだ。アオガネはいつの間にか姿を消している。
★★★
老婆がそば茶を飲み干すころ、テーブルを凝視して考え込んでいた渡部が顔をあげた。思い詰めた顔をしている。
「教えてください。あなたは妹を、渡部由美香を知っていますか」
「あァ」
「妹が今どこにいるか知っていますか」
「答えられねェ」
「その理由はなんですか?」
「もう居ねェからだ」
「居ない……? どういう意味ですか?」
「この世に存在しねェって意味サ」
「…………え?」
やりとりは、そう長いものではなかった。言われたことが飲み込めず、渡部が中途半端に口を開いたまま老婆を見る。しかしそれ以上の言葉はやはり返ってこなかった。
「なん……で、いな、いって、どうし……」
「やめておきな。これ以上聞いちゃァいけねェ」
「ぁ……あ、あぁ……」
ぴしゃりと質問をさえぎられたことで、渡部は唐突に理解した。妹がもう死んでしまったということが事実であると、すとんと心に落ちてきたのだ。とたん、ぼろぼろと涙がこぼれ始める。
眼鏡のレンズが濡れていき、視界がぼやけることで自分が泣いていることに気づいた渡部が、あわてて手をあげる。しかしうまく眼鏡が外せずに、ずれた眼鏡は最終的にかしゃんと床へ落ちた。
★★★
渡部が泣き止んだとき、店内にはだれもいなくなっていた。老婆がいつ席を外したのかもわからず、渡部は泣き腫れた目をしばたかせる。その顔は化粧が落ちてひどいことになっていた。涙をふいたハンカチはもう使い物にならないかもしれない。
濡れて重くなったそれをカバンへしまうか悩んでから、渡部は手に持ち直した。妹からもらったものだ。捨てるつもりはないけれど、しまったら中に入れてあるほかの物が汚れそうだ。
ゆっくり立ち上がると、首をめぐらせた。やはり老婆はいない。
「あの……すみません、おじゃましました」
小さな声だったのに、どうしてか店内によく響いた。だがやはり、だれもあらわれない。もしかしたら本当は、ここは店などではないのかもしれない。そんな不安にかられる。
これ以上ここにいてはいけない。渡部はとっさにそう思って、青ざめながらあわてて立ちあがった。椅子が大きな音をたてても、だれも来ない。
おかしい。ここは、どこかおかしい。ふつうではない。ぞっとした。どうして自分はこんなところにいるのか。帰らなくては。
急激にわきあがる焦燥にかられ、渡部は駆け出した。狭い店内なので出口までは数歩のはずなのに、なぜか遠く感じる。きちんと閉められていなかったはずの扉は、いつの間にかしっかりと閉じられていた。建てつけの悪いそれを急いで開けると、外へ飛び出す。
それでも不安で渡部は転がるように走った。そして、もうだいじょうぶ、と思えるところまでくると立ち止まる。そこはちょうど華南の張った結界を出たところだった。
「……っ」
寒気がして渡部は自分の身体を抱きしめた。手にしていた濡れたハンカチが、そのひょうしに落ちる。それを拾おうとして渡部はその場に崩れ落ちた。
妹のことが知りたい一心で渡部はここまで来たが、その勢いはもうなくなっている。張り詰めていた糸がぷつんと切れた今、老婆に……狭間に対峙していたときの思い切りは失われていた。
どうしてあのときの自分は、あの店へ乗り込めたのだろう。あんなことを言えたのだろう。それすら渡部はわからなくなりはじめていた。
そもそも、あの場所は現実だったのだろうか。あの老婆は実在しているのだろうか。思い出すことも危険な気がする。そのくらいおそろしくなって、渡部は震える手でハンカチをひろうと、握り込んだ。濡れて冷たい布が、今このときこそ現実であると知らせてくるようだった。
もしかしたら妹が死んだということも、本当ではないのかもしれない。そう思いたかった。しかしそれでも渡部の勘が告げている。妹にはもう会えないのだと。
「帰らなきゃ……」
渡部はごくふつうの会社員だ。明日も仕事である。渡部はそのことを不意に思い出していた。ついさっきまでは、まったく意識にのぼらなかったのに。
今日の途中からは、ただ自分の勘に従って渡部は動いていた。それが正しいとなぜか思えたのだ。そして実際、それは半分は正しかったといえる。
妹の死亡を知れたという意味では正しく、危険な思いをしたという意味では正しくなかった。今となっては、どうして自分の勘などを信じられたのか、渡部はよくわからない。どうして明日の仕事のことを忘れ、こんな遅い時間まで外にいるのか、自分でも理解できない。
まるで、自分が自分ではなかったかのような、そんな気分だ。渡部はのろのろと立ち上がると、振り返ることなく歩き出した。
それを物陰から見守っていた灰色のネコが、ぬるりと闇へと消えていく。そして質屋までたどり着くと、はかったかのように開いた窓から中へと入る。
「やれやれ、これで終わりになってほしいねェ……」
もどってきたアオガネを見て、狭間は疲れた顔でつぶやいた。
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