第10話 魔族

ミオがクラウスに呼ばれて登城していた頃に時は少し遡る。


人族と魔族の世界を隔てる国境に向けて、全身鎧を装備した3mを越える巨体が自身と同等の長さを持つハンマーを背負って迫りつつあった。


彼の名は『ランガ・ジャルーグ』。


魔国メンデリス内に住む竜人族であり、魔族の戦士である。


今より千年前に勇者と魔王が雌雄を決した戦いの後、勇者一行の一人が興したアレクダリア王国が中心となって魔族と人族は住む世界を半々に分けたとされている。


今となっては、それが本当だったのか定かではない。


しかし、人族と魔族は互いの住む世界を国境で定め、できる限り不干渉を貫いていることは事実である。


地域によっては人族と魔族による交流や貿易などが行われているところもあるようだが、ほとんどの交流は断絶していると言って良いような状況だ。


だが、数年前より魔族の動きに変化が起きている。


国境付近で魔族がちらほら目撃されているのだ。


おそらく、魔王が復活するとされる千年が経過しようとしていたためだろうが、人族のほとんどはその事実を知らされていない。


国境周辺付近に点在する村々にとっては、国境付近にやってくる魔族はただただ不気味な存在だった。


ランガは国境を目前としたところで、近くにあった岩に腰を下ろして兜を脱いだ。


竜人族である彼の顔は緑の鱗に覆われ、頭に髪はない。


ワニのように突き出た口と歯を持ち、目の角膜は茶色だが瞳は蛇のような縦長の黒である。


「ふぅ、思ったよりここまで距離があったな。だが、人族の国はもう目と鼻の先だ」


人族の国に続く方角を見据え、ランガは口元を緩めた。


「見ていろ、王都バゴートの奴等め。俺様は必ず勇者を倒し、復活するであろう魔王様の七本槍に取り立ててもらうのだ」


彼は空に向かって右手を伸ばして空を掴むと、「がはは」と勝ち誇った様子で豪快な笑い声を轟かせた。


魔国メンデリスの中心地には、城を構える『バゴート』という王都がある。


王は『千年』不在であり、玉座は常に空いている状況だ。


人族と違い、魔族の間では建国千年後に魔王が復活するという伝承がまことしやかに囁かれていたのである。


おとぎ話と一蹴する魔族もいたが、昨今における王城で働く者達の慌ただしい様子や伝わってくる緊張感から『伝承は事実』という噂が魔族間で広がっていた。


そして、此処に居るランガは、王都の魔王軍に所属する豪腕で名の知れた将校である。


彼の言う『七本槍』とは、千年前に魔王が人族を攻め入った時に多大な貢献を果たしたという『魔族』を讃えたものだ。


今現在のメンデリスでは、特に優秀かつ国を動かす七人の首脳陣を指す意味もあった。


ランガは実力だけなら、現状の七本槍にも匹敵すると魔国内では評されている。


そして、彼は出世欲が強い野心家でもあった。


魔王復活の噂同様、人族にも勇者復活の噂があることを聞きつけた彼は、勇者を倒して『七本槍』に名を連ねるべく単身で人族の国境を越えようとしていたのだ。


「さて、そろそろ行くか」


彼は兜を被ると、全身鎧の重さや疲れが全く見えない様子でサッとその場で立ち上がって歩き出す。


程なく、魔族と人族の国境に到着した。


「驚くほどここまで来るのは簡単だったな。平和ボケした人族め。俺様が魔族の恐ろしさを教えてやろう」


ランガが自信満々に国境線を踏み越えようとしたその時、底知れぬ恐ろしさに襲われて全身が戦慄が走った。


「な、なんだ、なんだこの感覚は。俺様が、俺様が怯えているのか……⁉」


思いがけず足が止まったランガは、わけがわからず国境線をまじまじと見つめた。


するとそこには、糸のようにとても薄い魔力線が引かれていたのである。


「こ、これは、縄張りを示す結界魔法か。しかし……」


戦きながら後退ると、ランガは周囲を見やった。


彼の立つ人族と魔族の国境地点は、未開発で見渡す限りだだっ広い草原である。


「やはり、近くに術者はおらんし、気配もない」


ランガは全身から嫌な汗が噴き出ていた。


『縄張りを示す結界魔法』。


それ自体は魔法素質東急の有無に関係なく、少し学べば誰でも習得できるものだ。


縄張りを示す結界魔法の役目は大きく分けて二つある。


一つ目は、侵入者への警告。


二つ目は、侵入者を術者に知らせることである。


そして、人族の国境線に引かれていた結界魔法の魔力線からは圧倒的強者の気配。


言ってしまえば、踏み越えた瞬間に死が待っているような圧があった。


一体、この魔力線を引いたのは何者だろうかと、ランガは思案する。


現状の『七本槍』と睨み合いをしたことが何度もある彼だが、ここまでの圧を感じたことはなかった。


そもそも、魔力線の圧というのは術者が近くにいなければ警告する力が失われていく。


つまり『圧』は弱くなるはずだ。


しかし、見晴らしの良い草原のどこにも術者の姿は見えないというのに、魔力線は恐ろしいほどの圧を発している。



これだけでも、驚異的な魔法である。



線を踏み越えれば死だが、今ならまだ引き返せる。


右足を出すか、左足を出すか。


いっそ飛び越えるか。


いや、匍匐【ほふく】前進で進むのありかもしれない。


もしくは、気絶を装って倒れるように入り込むか。


『俺様はどうすればいい。どうすればいいのだ』


ランガは生まれて初めて感じた圧と戦慄に混乱し、国境地点まで来るのに汗一つ掻かなかったのに、今は全身から汗が溢れ出ている。


悶々と悩みながら魔力線の圧に向かい続けた結果、彼は息する度に肩が上がって全身鎧の隙間からは汗が滴り落ちていた。


時間だけが悪戯に過ぎていき、気付けば日が暮れて辺りはすっかり暗くなっている。


どこからともなく聞こえてきた狼の遠吠えにハッとし、ランガは覚悟を決めた。


「俺様は、俺様は越えてやる。越えてやるぞ」


意を決した彼は何が起きても良いようハンマーを両手で持って身構えると、ゆっくりと右足を上げていく。


『その線を越えてはならないのにゃ。越えたら、余が行かなければならないのにゃ』


「な、なんだ。今の声は……⁉」


ランガが右足で踏み出そうとしたその時、幼い少女のような声が脳裏に響く。


彼はすぐに直感した。


声の主こそが、魔力線を引いた術者だと。


「決して屈しない。俺様は勇者を倒し、七本槍に名を連ねるのだ」


魔力線と国境を越えて人族の世界に足を踏み入れたその瞬間、彼が今まで感じていた圧が全て消え去った。


夜の静寂に風が流れ、草原から小さなざわめきが起きる。


ランガの全身鎧も冷たい夜風でいくらか冷やされ、溢れ出る汗が止まった。


「は、はは。どうだ。俺様はやり遂げたんだ。やり遂げたぞ」


ランガが歓喜の声を上げて持っていたハンマーを夜空に掲げたその時、空気が震えて重い衝撃音が轟き土煙が舞い上がって狂風が周囲に吹き荒れた。


「ぬぉ⁉ な、なんだ」


倒れぬように大地を踏みしめ、ハンマーの柄を杖にしながら狂風で倒れぬよう耐えたランガは慌てて身構える。


やがて土煙が晴れ、月明かりがえぐれた大地が照らしていく。


目を凝らせば、そこには片膝をついて顔を伏せている薄桃色の寝間着姿【ネグリジェ】で裸足の少女がでしゃがみ込んでいた。


「な、何者だ。貴様……⁉」


武器を構えたランガが尋ねると、少女はゆっくりと立ち上がって欠伸をする。


「ミオ・ルルクラージェ。お前が不躾に入り込んだ縄張りの主だにゃ」


彼女が気だるそうに背伸びをしながら告げた瞬間、ランガは直感して武者震いに震えた。


こいつこそが勇者の血族だ、と。





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