-08 判決
その夢の中で、私は一人の男性だった。町の入り口で誰かを待っている。
「ブラッドレイ」隣にいた女性が夢の中の『私』に向かって心配そうに言った。金色の髪を美しく棚引かせ、しかし顔色は青白く、痩せている。
「フランチェスカ」『私』いや、ブラッドレイが優しく語りかけた。「心配しなくて良い。ドミガン家のお祖母様は優秀な薬剤師だ。彼女に見てもらえれば、私たちもきっと子どもを授かる」そう言ってフランチェスカの髪を優しく撫でた。
一人の男性が迎えに来た。彼に連れられて私たちは町へ入る。荒廃した柵。狭く曲がった道。密集した家、その窓から聞こえる密やかな会話。
三人で町を歩く。大きいが古びた製粉所を横切った。車輪のゆっくりとした回転にあわせて、甲高い音が鳴っている。まるで木が悲鳴をあげているようだ。もう何年も整備されていないに違い無い。建物の隅を走るネズミが見える。宙を舞う小麦粉の粉塵が服に付いた。
やがて中心に着いた。広場だ。外に向かって放射状に道が延びていた。
「建築中ですか?」ブラッドレイが、広場の中央に据えられた物体について尋ねた。木製の柱。何かを解体した跡?
「働き者だった木の代わりさ」男性はうやむやに返事した。
家に着く。家主夫婦、老人夫婦、少年、少女。
「ドミガン家へようこそ」家主が頭を振る。頭を下げるブラッドレイとフランチェスカ。歓迎されているように見える。静かに胸をなで下ろすフランチェスカ。良かった。それを見てブラッドレイも少しだけ安心する。
部屋に荷物を運ぶ。袖を引っ張られる。振り返る。先ほどの少女。
「ねえ、見た?」
何を?
「町の外から来たなら見えたでしょ?あそこにだけは鳥も巣を作らないの」
あそこ?
少女は無邪気に笑った。
「絞首台の木」
***
私は左手の痛みで目を覚ました。息を切らし汗だくになっていた。リネンのシフトがざらざらする。夜明けの光が窓から差し込んでいた。
少しの間、私は自分が誰だか分からなくなった。両手の指を閉じたり開いたりしながら、少しずつシス・クマイルでることを自覚した。
呼吸を整えてから、痛みのあった左手を見た。特に怪我をした様子は無かった。
隣では妹のハンナが静かに寝息を立てていた。眠りを邪魔しないように注意しながら、彼女の栗色の髪の毛をそっとかき上げた。気持ち良さそうな寝顔を見て、私は少しだけほっとした。
あまりにも生々しい夢だった。町に漂う湿った土の匂いや、広場に屹立していた柱が、今でも目の前にあるかのように感じられる。不気味な存在感だった。
窓のカーテンを確かめる。そこには、折りたたまれたリネンの布が、目立たないように縫い込まれていた。微かにローワンの実の香りがする。母が作ってくれたお守りは無事だった。
私はできるだけ音を立てないように階段を下りた。キッチンに行くと、母がすでに起きていて、その日のパンの生地をこねていた。
「シス?」母が驚いたように言った。「随分早いのね」
私は黙って頷いた。何か話さなくてはと思ったその時、母はエプロンで手を拭って、私の目の前に来た。そして、暖かく分厚い手を私の頬にそっと置いた。
「夢を見たのね」と母は優しく尋ねた。
私はもう一度黙って頷いた。体温を通じて、母の優しさが体に染みこんでいくようだった。私はまるで小さな子どものように、母の体を抱きしめていた。
少しの沈黙があった。
「お母さん、私、怖い」私は母の胸の中で呟いた。
母は私の頬を、親指でゆっくりと撫でた。「愛しい子。シス。何が怖いの?」
「失いたくないの」
「何を?」
私の心の中に様々な人達の姿が浮かんだ。父と母、ハンナ。ヴァレンティンやフラナリー、エドウィン、レイヴンズブルックの人達。燃えるような赤髪の彼女。そして……金髪の痩せた女性……。
私は自分の記憶に混乱して、母の胸の中に頭を擦りつけた。小麦粉の匂いがする。きっとエプロンについていたんだ。
「皆を」
「シス、誰も居なくなったりしない。大丈夫よ」
外から小鳥の鳴く声が聞こえた。一日が始まろうとしている。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「魔女は本当に悪い存在なの?」
母は答えなかった。
「私たちは悪い存在で、私たちの力は神の秩序を歪めるものなの?どうして私たちは」
「シス」母が私の肩を掴んで、胸から引き剥がした。「その言葉を使うのは止めなさい。あなたが今口にした『魔』から始まる言葉よ。いい?善か悪かは私たちが決めるものじゃ無い」鋭い声で言った。「大事なことは『この存在』が悪という『判決』を受けていることよ。そこに理由はないし、考えるべきこともない。幸せに暮らすためにはね。私たちにできるのはその『判決』を受けた存在であることを、誰にも悟らせないこと」
「でも」私は食い下がった。「魔女が悪いとは限らないって、人の役に立っているって、そう言ってくれている人もいるんだよ」
「その言葉は止めなさいと言ったでしょう!」母の言葉に、私の体は跳ね上がった。静かな、しかし怒りのこもった口調だった。
「シス、誰からそんな話を聞いたのか知らないけれど、それは現実じゃない。ただの戯れ言よ。私はお母様から、つまりあなたのお婆さまから何度も聞いた。私たちの一族がどれだけ酷い目に遭わされてきたのか、どれだけ恐ろしい目に遭わされてきたのか」
母の目は暗く激しい光を宿していた。瞳の中で、黒くて恐ろしい炎が燃え盛っているかのようだった。
「指を粉々にされ、関節が砕けるまで全身を伸ばされ、何の罪を犯したのかも分からないまま署名をさせられ、生きたまま炎で焼かれた」母の恐ろしい言葉の数々に、私は血の気が引くような恐怖を感じた。
「それと同じくらい怖いのはね、シス。こんな目にあったのが、私たちの仲間だけではないと言うこと。引き伸ばし器で、水につけた小麦粉のようにふにゃふにゃにされた人達の大部分は、私たちとは違う、罪のない普通の人達だった。この意味が分かる?」
「私たちは、罪のない人達を、巻き添えにしてしまった……?」私は震えて答えた。
「違うわ、シス。違う」母は面白そうに笑った。「さっき私が言った事よ。これはね、シス。『判決』なの。『判決』は何かを選んでくれるわけじゃないの。私たちが他の人とは違う力を持っているとか、そういう血が流れているとか、そんな事は関係ないの。ただ区別するだけ。いい?悪であることに理由はない。ただ悪だと見做されたから、悪なのよ。悪だと見做された人間は、存在が、生きていることが罪なの」
母の言葉の数々は、私には上手く理解できなかった。ただただ、母の憎しみや辛い思いだけが、私の心に伝わってきた。それが悲しかった。
母は泣いていた。私も泣いていた。
「シス」母は私の体を強く抱きしめた。「驚かしてごめんない。シス。あなたには何も悪くない。私が言いたかったのはね、私たちは善悪について考えたり、意見を言ったりするべき立場ではないということ。何も考える必要なんてない。『判決』に目を付けられないように、目立たないように、そこに居ないかのように振る舞っていればいいの。生きるというのは、そういうことなのよ」
母はそう言って、私の額にキスをした。それは母なりの優しさだったのだと思う。でも私は母の言葉のいくつかに納得できなかった。何の罪もない人達がなぜ酷い目に遭わなくてはならないのか。なぜお祖母様はこんな辛い思い出を娘に話したのか。なぜ私たちはそれについて考えを持ってはいけないのか。一つも納得できなかった。
それにも関わらず、私はそれを表現できなかった。どう言っていいのか、どうしていいのかが分からなかった。私は涙を流しながら、ただ黙って頷くことしかできなかった。母はそんな私を、これまで以上の力で抱きしめた。
私は、自分の気持ちに反した行動を取っている。汚い。私はとても汚い。これこそが悪でなくてなんだろうか?
アリシアならできるのだろうか。母に、もっと違う言葉を投げかけることができるのだろうか。
私は初めて、自分と他の世界との間に横たわる、越えられない大きな溝があることを理解した。母の背負ってきた世界からも、アリシアの居る世界からも、エドウィンの語る世界からも、私は遠く隔たっていた。
ただ一つの事実があった。母の一族の血が私にも流れている。
私は魔女だ。
数日後、レイヴンズブルックに流れる奇妙な噂を耳にした。町の外から魔女を探す者がやってきた、と。その男は銀の剣を携えている。
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